”マルセルにおける「知覚」と「実存」”
2017年08月16日
ガブリエル・マルセルは或る意味でメーヌ・ド・ビランを継ぐ哲学者と言われる。形而上的にかなり変容したかたちでではあるが、それはぼくも首肯したいところである。心身関係論でマルセルには独特の哲学的反省の深化がみられる。それが、ビランにおいても根本的な問題の一領域であった「知覚」と「実存」の問題である。「知覚」とは、結果的に「習慣」の自動化作用に組み込まれるのではあっても、原初的には意志主体の能動行為の所産であり、そのゆえに同時に主体自身の「実存」の自覚をもふくむものであることを、ビランはあきらかにした。マルセルは、この根本見地を事実的に継承しつつも、独自の反省の地平に引き据える。≪「知覚」(perception)ということでひとつの表象を理解するのではなく、私の身体がそれによって私のものであることを感知する行為の、ひとつの延長(un prolongement)を理解する≫(『形而上学日記』1921.5.26, 原著266頁)。「私」が自分の身体を「私の」身体であると感知するのは、意志主体として自分の身体を動かそうとし、動きはするが同時にその筋肉抵抗をも経験することによってである。そのことによって身体が自分のものであると同時に自分の意志そのものとは区別されることを、「私」は感知するのである。これが「知覚」の原初形態であり、「私」の身体そのものが、「知覚」の対象の第一のものである。このようにして身体を介して意志は、身体運動を習慣の自動化作用へ移して、この運動には半ば以上無自覚になりながら、外界の知覚へと知覚行為を延長させてゆくが、「知覚」そのものは、≪私の身体がそれによって私のものであることを感知する行為の、ひとつの延長≫なのである。そしてマルセルにおいては、「私の身体」そのものが、「私のもの」であるままで、宇宙そのものへと延長されてゆくという、独自な身体意識の展開がみられる。すなわち、世界内の諸存在を知覚する行為そのものが、ただの思惟される「表象」の入手ではなく、その諸存在の「実存」と関わること、つまり存在論的な秘義の関係へ入ることであると理解する方向へ、反省が探求してゆくのである。