我が町、田野町には戦前の第27代総理大臣、ライオン宰相と呼ばれた濱口雄幸の旧邸があります。地元を紹介しようと思い久しぶりに行ってきました。入場無料です。
旧邸と言っても和室が4室程度の質素な建物です。
雄幸(おさぢ)は高知市五台山で林業をしていた水口家の三男坊として生まれました。雄幸という名は珍しいですが、父親が出生届けを出しに行く途中で酒を飲み泥酔し、「幸雄」と書くところを間違えて逆に「雄幸」と書いたという、いかにも土佐らしい説と、男の子が続いたので3人目は女の子がほしいというので「お幸」と言う名を用意していたが生まれてきたのは男の子だったので「おさぢ」にしたという説があります。
1889年に田野町の濱口家の養子となりました。濱口家は坂本龍馬や中岡慎太郎と同じ土佐の郷士であり、武士としては土佐藩では下級武士の家系です。
そして旧制高知中学、第三高等中学校、東京帝国大学とすすみました。
東京帝大の時の雄幸です。
帝大を出た後、大蔵省に入り、次官などを務めた後、衆議院議員となりました。
1929年に田中義一内閣が満州事変で倒れた後、内閣総理大臣となりますが、軍部が暴走するこの時代に緊縮政策を推進し、軍部や野党の反対を押し切ってロンドン軍縮条約の調印にこぎ着けます。英米との対決は日本の国力では不可能と理解していた雄幸は国民負担の軽減のために軍拡から軍縮へと信念を持って舵取りを進めました。
しかしこれは、この時代では勇気のいることであり、軍部や右翼から狙われることになり、東京駅で3mの至近距離からピストルで撃たれました。
駅長室に運び込まれた雄幸は「男子の本懐です」「予算閣議も片付いた後だからいい」と語ったそうです。
なんとか一命をとりとめましたが、症状は厳しい中、野党の鳩山一郎は「代理は認めない。首相が答弁せよ」とせまりました。下の碑は病床で詠んだもので、
「なすことの いまだ終わらず 春を待つ」とあります。
雄幸は医師や家族の反対を押し切って、銃弾が体内に入ったまま、衆議院本会議に出席しました。しかし、無理がたたり、病状が悪化し、4ヶ月後に息を引き取りました。その後、雄幸の盟友であった井上準之助も拳銃で暗殺され、日本は戦争への道を突き進んでいきます。
ライオンの様に軍部や右翼勢力に立ち向かっていった勇気ある庶民の味方の政治家である濱口雄幸は土佐の誇りです。
旧邸に入ったところにおもしろいものがありました。
一袋150円で売ってます。
「政治家必携 これおおいに引用し 平常心を保ち 清廉潔白。質実剛健の精神を養うべし!」
とあります。どこかの元知事をはじめ多くの政治家にこれを煎じて飲ませたいです。
田野町のふれあいセンターにも雄幸の銅像があります。
立派な銅像ですが、ひとつ気にくわないのは左上の書です。ライオン宰相と呼ばれた縁でしょうが、髪型だけがライオンの小泉元総理が書いたものです。
ブッシュのイラク戦争にいち早く賛成し、間違いだった事が明らかになっても反省の色もないし、規制緩和政策で非正規雇用を増やし、若者を苦しめている小泉首相と濱口雄幸とは、まったくめざしていたものが違います。