離婚届を提出して、はや1週間が経過した。
なんら以前と変わることのない生活に、安心感を覚えると同時に、
あまりにも何も変わらなさ過ぎて、こんなもんなんだろうかと思いつつ、過ごしている。
不便なことは増えた。
電話がかかってくると、つい夫姓を名乗ってしまう。
私はまだ、離婚以来、旧姓で名乗ったことがない。
週末にショッピングセンターに出かけて、
JCBに加入すると直ちに2000円の券がもらえるからと言われて手続きした時も、
現時点では証明書が免許証しかなく、しかも改名の手続きができていないから
夫の妻として申込書を書いた。
子供達の名前も早く決めなきゃと思うけれど、
それは11日の個人懇談の時に先生に相談しようと決めた。
息子のまわりでは、保育園のおともだちがすでに二人ほど、離婚及び再婚によって改名をしている。
半年以上前から、「○○に変わるかも知れないからね」と息子には言ってあったし、
同時に「名字が変わることはよくあることだから、心配しなくてもいいの。何も変わらないから。」
と言ってあった。
丁度都合よく、おともだちが改名してくれたので、「よくあること」というのが証明された形になった。
名前のこと、戸籍のこと、各種名義変更のことなど、わずらわしい手続きは多いが
常に気をとられていた「夫と離婚できるのだろうか」という不安感からは
解き放たれたので、それだけでも気分がかなり楽なものである。
それに「別居」状態というのは、「戻ろうと思えばいつでも戻れる」状態にあって、
離婚状態とはさも書類の上だけのことのようで、実はかなり心情的な落差があると思う。
その「いつでも戻れる」状況が、周囲にとっても、どう扱っていいかわからない部分であるし
本人同士にとっても、100%復縁はないと心に決めていても、
どうしても子供と接していたりして「もしも」などと考えてしまう時もあるから
至って中途半端な状況にある上に、そんな風に気がとられることが多すぎると思う。
しかし、形だけ、書類上だけ夫婦である状況というのは、極めて中途半端だけれど
意外に「便利」であったりもする。
婚姻費用をちゃんともらえる場合の別居なら、
「夫の世話はしなくていい」「夫に気を使わなくていい」「自分のペースで生活できる」
その上に、「社会的には妻でいられる」というメリットがあると思う。
そんな風に、考えようによっては、「便利」でもある。
「社会的に妻であること」について、こうなったらまったく意味がないと決めた自分ですら、
クレジットカードの申請をして、「ご主人の口座にしますか、奥様の口座にしますか」などと言われると、
咄嗟に見ず知らずの人に「離婚して、母子家庭です」などと言うのも変だし、面倒だし、
何より「恥ずかしい」と思った。それは初めて抱く感情だった。
だから、「ああ、私で」などと答えてしまった。
これからきっとこのような機会が増えるのだろうと思う。
離婚したにしろ、されたにしろ、知らない人に「離婚しました」と人に言うのは勇気が要る。
たとえ「バツイチ」と恰好つけて言うにしても、私はまだまだとても抵抗がある。
誰が偏見を持とうが、気の毒がろうが、胸を張って
「離婚しました。」と言えるようになりたいと思う。
このように、「離婚した」という事実を認識するのに、本人達も子供達も時間がかかると思う。
1週間経った今まだ、私には「離婚した」ということがわかっていない気がする。
こんなもんかな、とも思うし、まだまだイロイロ弊害がありそうな気もするし。
でも、きっと、根拠のない自信だけれど、どんなわずらわしい事案でも、
自分が選んで切り開いた道だから、きっと受け止められるし処理できると思う。
私の「尊厳」を脅かす人間がそばに居ない以上、この「尊厳」は健在だということだし
誰かによって傷つけられたり毀損されたりすることはない。
等身大の自分を認め、ありのままの自分を許し、限界を知りつつ、驕ることなく
すべてを信じて歩けば、きっと何もかも乗り越えられる気がする。
(甘いかな(笑))
元夫との生活はサバイバルそのものだったけれど、経済的に社会的に受けた恩恵は確かにあった。
俗に言う「ステイタス」というか。形のないものだけれど。
元夫は上場企業に勤めており、それなりの収入があったから、
「○○さんの奥さんのところは~だからね~」と言われてきた。
結婚している=普通。夫が社会的に信用のある企業に勤めている=普通以上。のような
単純な図式の中で、形のないステイタスにすがりつく。ブランドにすがりつく。
私もかつてその立場に居たから、その魅力は否定しない。
かっこつけて「そんなものに執着するなんて」と言うのは簡単だけど、
多くの女性がそれに執着するし、「妻の座」に執着すると思う。して当然と思う。
何故執着するのか。それは、それほど魅力的な肩書きだからだろうと思う。
俗に「負け犬勝ち犬」と言われているのは、そういうことだと思う。
結婚するなり、旧姓を捨て、名前を捨てる。「○○さんの奥さん」と呼ばれる生活に入る。
その肩書きに、幸せを感じる。安堵感をおぼえる。
その肩書きは、旧姓で呼ばれるより魅力的なのだから、仕方がない。
一般的に、普通に、当然のことだと思う。
まして子供が居れば、「○○さんの息子さん、娘さん」と言う事になるから、
離婚となると、その肩書きを子供達からも奪ってしまうことになる。
突然、マイノリティーである母子家庭への転落をさせてしまうことになる。
たとえその生活が精神的に過酷な状況であったとしても、
その肩書きを捨てるにあたって、大いに迷って当然だと思う。
私は、私の場合は、こんな、「普通」でなくなることの恐怖よりも、「妻の座」を失う恐怖よりも、
夫が怖かった。ハンパじゃないほど怖かった。おかしくなるほど、怖かった。
だから、残念ながら渋々この「妻の座」は返上した。
喜んで返上したのではなく、怖い夫から離れるために、捨てざるを得なかったのだ。
「妻の座」というスーパーシートを得るために、旧姓や、職場や、それに伴う人脈や、収入を失った。
私はかつてキャリアウーマンで年収もそれなりにあったから、人には大変惜しまれた。
それでも、捨てていいと思った。
それほど、魅力的なものだったし、価値のあるものだと思った。
得るものがあれば失うものがあるのは仕方がないと思っていたから。
ところが今度は、その、全てを捨ててやっと勝ち得た「妻の座」を捨てたのである。
離婚というのは、結婚までの人生と、結婚から離婚までの人生を失うことだと思う。
足し算するととんでもなく莫大なものを失うことになるから、女性にとっては特にリスクが大きいと思う。
その損失を前に、足がすくんで、離婚に踏み込めないのも、
仮に勇気を出して離婚したとしても、喪失感が大きくて、落ち込んでしまうのも無理はない。
でも、私はいつも思う。
「世間の目」が100個あっても、200個集めて並べても、けしてそれが私を幸せにすることはない。
逆に、不幸にすることはあっても。
大好きな「あっちゃんのママ」(とても親しいママ友)が100人居ても、
あっちゃんのママと生活できるわけじゃないし、あっちゃんのママが私を幸せにしてくれることはない。
だから、今回の離婚への決断に際し、「世間の目」については大きく排除して考えた。
私は、「世間が何を幸せと思うか」ではなくて、
「自分にとっての幸せは何なのか」を常に追求して生きていきたい。
せっかく生まれてきたのだから、たとえ手に入らなくても、幸せになることを目指して歩きたい。
子供達にも、そのような人生を送って欲しいと思う。
自分の幸せを追求するということは、一度限りの自分の人生に責任を持つということだと思う。
与えられた命の一分一秒を、幸せに生きることに費やす。
わが道を生きることで、まわりや家族に迷惑をかけることがあるかも知れない。
わが道を生きることで、僅かに稀に得たものを手のひらからこぼしながら歩くことになるかも知れない。
でも「私は幸せに生きます」と宣言し、それを追及するならば、
それらすべての犠牲に対する責任を追いながら、歩くならば、
それは自分中心にわがままに生きることとは違うと思う。
幸せに向かって、真っ直ぐに歩くこと。
それを目指していればずっと幸せに生きられると思うし、
そういう人間でなければ他人を幸せになんてできないのではないかと、思う。
私は犠牲を払い、責任を追いながら、離婚を真摯に受け止めながら、
幸せに向かって生きる。
その背中を、子供達に見せたい。
そしていつか、自分で幸せを掴むことのできる人間に、成長して欲しい。
なんら以前と変わることのない生活に、安心感を覚えると同時に、
あまりにも何も変わらなさ過ぎて、こんなもんなんだろうかと思いつつ、過ごしている。
不便なことは増えた。
電話がかかってくると、つい夫姓を名乗ってしまう。
私はまだ、離婚以来、旧姓で名乗ったことがない。
週末にショッピングセンターに出かけて、
JCBに加入すると直ちに2000円の券がもらえるからと言われて手続きした時も、
現時点では証明書が免許証しかなく、しかも改名の手続きができていないから
夫の妻として申込書を書いた。
子供達の名前も早く決めなきゃと思うけれど、
それは11日の個人懇談の時に先生に相談しようと決めた。
息子のまわりでは、保育園のおともだちがすでに二人ほど、離婚及び再婚によって改名をしている。
半年以上前から、「○○に変わるかも知れないからね」と息子には言ってあったし、
同時に「名字が変わることはよくあることだから、心配しなくてもいいの。何も変わらないから。」
と言ってあった。
丁度都合よく、おともだちが改名してくれたので、「よくあること」というのが証明された形になった。
名前のこと、戸籍のこと、各種名義変更のことなど、わずらわしい手続きは多いが
常に気をとられていた「夫と離婚できるのだろうか」という不安感からは
解き放たれたので、それだけでも気分がかなり楽なものである。
それに「別居」状態というのは、「戻ろうと思えばいつでも戻れる」状態にあって、
離婚状態とはさも書類の上だけのことのようで、実はかなり心情的な落差があると思う。
その「いつでも戻れる」状況が、周囲にとっても、どう扱っていいかわからない部分であるし
本人同士にとっても、100%復縁はないと心に決めていても、
どうしても子供と接していたりして「もしも」などと考えてしまう時もあるから
至って中途半端な状況にある上に、そんな風に気がとられることが多すぎると思う。
しかし、形だけ、書類上だけ夫婦である状況というのは、極めて中途半端だけれど
意外に「便利」であったりもする。
婚姻費用をちゃんともらえる場合の別居なら、
「夫の世話はしなくていい」「夫に気を使わなくていい」「自分のペースで生活できる」
その上に、「社会的には妻でいられる」というメリットがあると思う。
そんな風に、考えようによっては、「便利」でもある。
「社会的に妻であること」について、こうなったらまったく意味がないと決めた自分ですら、
クレジットカードの申請をして、「ご主人の口座にしますか、奥様の口座にしますか」などと言われると、
咄嗟に見ず知らずの人に「離婚して、母子家庭です」などと言うのも変だし、面倒だし、
何より「恥ずかしい」と思った。それは初めて抱く感情だった。
だから、「ああ、私で」などと答えてしまった。
これからきっとこのような機会が増えるのだろうと思う。
離婚したにしろ、されたにしろ、知らない人に「離婚しました」と人に言うのは勇気が要る。
たとえ「バツイチ」と恰好つけて言うにしても、私はまだまだとても抵抗がある。
誰が偏見を持とうが、気の毒がろうが、胸を張って
「離婚しました。」と言えるようになりたいと思う。
このように、「離婚した」という事実を認識するのに、本人達も子供達も時間がかかると思う。
1週間経った今まだ、私には「離婚した」ということがわかっていない気がする。
こんなもんかな、とも思うし、まだまだイロイロ弊害がありそうな気もするし。
でも、きっと、根拠のない自信だけれど、どんなわずらわしい事案でも、
自分が選んで切り開いた道だから、きっと受け止められるし処理できると思う。
私の「尊厳」を脅かす人間がそばに居ない以上、この「尊厳」は健在だということだし
誰かによって傷つけられたり毀損されたりすることはない。
等身大の自分を認め、ありのままの自分を許し、限界を知りつつ、驕ることなく
すべてを信じて歩けば、きっと何もかも乗り越えられる気がする。
(甘いかな(笑))
元夫との生活はサバイバルそのものだったけれど、経済的に社会的に受けた恩恵は確かにあった。
俗に言う「ステイタス」というか。形のないものだけれど。
元夫は上場企業に勤めており、それなりの収入があったから、
「○○さんの奥さんのところは~だからね~」と言われてきた。
結婚している=普通。夫が社会的に信用のある企業に勤めている=普通以上。のような
単純な図式の中で、形のないステイタスにすがりつく。ブランドにすがりつく。
私もかつてその立場に居たから、その魅力は否定しない。
かっこつけて「そんなものに執着するなんて」と言うのは簡単だけど、
多くの女性がそれに執着するし、「妻の座」に執着すると思う。して当然と思う。
何故執着するのか。それは、それほど魅力的な肩書きだからだろうと思う。
俗に「負け犬勝ち犬」と言われているのは、そういうことだと思う。
結婚するなり、旧姓を捨て、名前を捨てる。「○○さんの奥さん」と呼ばれる生活に入る。
その肩書きに、幸せを感じる。安堵感をおぼえる。
その肩書きは、旧姓で呼ばれるより魅力的なのだから、仕方がない。
一般的に、普通に、当然のことだと思う。
まして子供が居れば、「○○さんの息子さん、娘さん」と言う事になるから、
離婚となると、その肩書きを子供達からも奪ってしまうことになる。
突然、マイノリティーである母子家庭への転落をさせてしまうことになる。
たとえその生活が精神的に過酷な状況であったとしても、
その肩書きを捨てるにあたって、大いに迷って当然だと思う。
私は、私の場合は、こんな、「普通」でなくなることの恐怖よりも、「妻の座」を失う恐怖よりも、
夫が怖かった。ハンパじゃないほど怖かった。おかしくなるほど、怖かった。
だから、残念ながら渋々この「妻の座」は返上した。
喜んで返上したのではなく、怖い夫から離れるために、捨てざるを得なかったのだ。
「妻の座」というスーパーシートを得るために、旧姓や、職場や、それに伴う人脈や、収入を失った。
私はかつてキャリアウーマンで年収もそれなりにあったから、人には大変惜しまれた。
それでも、捨てていいと思った。
それほど、魅力的なものだったし、価値のあるものだと思った。
得るものがあれば失うものがあるのは仕方がないと思っていたから。
ところが今度は、その、全てを捨ててやっと勝ち得た「妻の座」を捨てたのである。
離婚というのは、結婚までの人生と、結婚から離婚までの人生を失うことだと思う。
足し算するととんでもなく莫大なものを失うことになるから、女性にとっては特にリスクが大きいと思う。
その損失を前に、足がすくんで、離婚に踏み込めないのも、
仮に勇気を出して離婚したとしても、喪失感が大きくて、落ち込んでしまうのも無理はない。
でも、私はいつも思う。
「世間の目」が100個あっても、200個集めて並べても、けしてそれが私を幸せにすることはない。
逆に、不幸にすることはあっても。
大好きな「あっちゃんのママ」(とても親しいママ友)が100人居ても、
あっちゃんのママと生活できるわけじゃないし、あっちゃんのママが私を幸せにしてくれることはない。
だから、今回の離婚への決断に際し、「世間の目」については大きく排除して考えた。
私は、「世間が何を幸せと思うか」ではなくて、
「自分にとっての幸せは何なのか」を常に追求して生きていきたい。
せっかく生まれてきたのだから、たとえ手に入らなくても、幸せになることを目指して歩きたい。
子供達にも、そのような人生を送って欲しいと思う。
自分の幸せを追求するということは、一度限りの自分の人生に責任を持つということだと思う。
与えられた命の一分一秒を、幸せに生きることに費やす。
わが道を生きることで、まわりや家族に迷惑をかけることがあるかも知れない。
わが道を生きることで、僅かに稀に得たものを手のひらからこぼしながら歩くことになるかも知れない。
でも「私は幸せに生きます」と宣言し、それを追及するならば、
それらすべての犠牲に対する責任を追いながら、歩くならば、
それは自分中心にわがままに生きることとは違うと思う。
幸せに向かって、真っ直ぐに歩くこと。
それを目指していればずっと幸せに生きられると思うし、
そういう人間でなければ他人を幸せになんてできないのではないかと、思う。
私は犠牲を払い、責任を追いながら、離婚を真摯に受け止めながら、
幸せに向かって生きる。
その背中を、子供達に見せたい。
そしていつか、自分で幸せを掴むことのできる人間に、成長して欲しい。
妻の座。私が座ったことのないスーパーシート。
そ、そんなにいいものなのか、知らなかった~。と、思わず呟いた。
かつて「そんなすごい安定職なら、公務員になればよかった」と呟いた時と似た心境になった。
夫(もどき)を慕う日々というものは、私なりに体験済みで……周囲から「いいご夫婦ですね」と祝福される状況を夢見なかった訳ではなかったが。
まだまだ女性にとって、結婚・退職の選択は人生の賭けだ。男は生活を変えずにすむけれど。
離婚は……男性にも影響はあるだろう。が。
「妻が悪妻で」という言い訳に対して、世間は「それは気の毒に、別れられてよかったですなあ」と言うのだから、「夫が悪夫で」という理由に対しても、同じように答えるのが、これからの「普通」であってほしい。
今回のお話は、かなり痛いところの核心を突いてる。
離婚という選択の裏に「勝ち組からの転落」という意味合いがあると、ここまで赤裸々に書ける人は、まだ少ないと思った。勇気があると思った。
まっち~さんが、「離婚もいい経験よぉ☆」と明るく言える日が来ればいいなぁ、と思った。
※ところで、デザイン一新しましたね♪
http://mbs.jp/jyonetsu/2004/20041212/goroku.html
ここ来る人はバラのトゲじゃなく、刃物傷で重症ですが・・・
(先回の村瀬明道尼さんはこんな人)
http://mbs.jp/portraits/portraits/2005/2005_2/m_murase.html
私のほうは裁判と面接交渉の調停が同時にあって精神的にギリギリのところをなんとか歩いています。子供はまだ小さいしまだまだ解決には時間がかかりそうです。まっち~さんのように自分の相手の子供の成長を願いながら本当の幸せを探して生きたいとおもいます。
私は、今になって言うのもなんですが、
「旦那の何処が好きですか?」と言う質問に、
?????とつまったのですから(披露宴での事)
旦那が好きだったのかどうなのか、結婚当時から分らなかったのです。
(優しくもない、楽しくもない、お金の事しか言わない…)
結局『妻の座』に憧れていたとしか言いようがないのかな?
>離婚というのは、結婚までの人生と、結婚から離婚までの人生を失うことだと思う。
まだ離婚は出来てない、妻の座を持ってる私ですが、
最近は失ったもの・・・と言うより、何度も生まれ変われて・・・
って思おうと、思っています。
>幸せに向かって生きる。
そうです!そうです!そうですよ!
読み進めていくうちに同調できる部分が多くて涙が出そうになりました。
私もとある場所で自分の状況を相談しているうちにこの言葉に出会い、そして悩み、考え、この4月に離婚へとつながりました。
何度も揺れたのも同じです、きっかけもほぼ同時期ではなかったかと思います(2004年はじめでしたから・・・)
悪いのは全て「他者」である。自分がそうなったのはほかの自分ではないものの所為であると・・・そして自分自身の抱えていたAC、共依存。
嫌になるくらい当てはまり、途中経過もほぼ同様でした。
良かった時期も無かったとは言わないし、過去を憂いても戻らないので今はようやく前を見て歩いています。
まだ時折揺れますが「自分がいなくてはだめだなんて相手は自分がいてもだめなんだ」という言葉で自分を奮い立たせています。
ようやく過去にしようとがんばらないで生きていこうとしている、30代前半の者です。
(PS私も関西の住人です、尼崎の事故はその路線を使用していたことがあるのでとても痛ましく、辛いです)
私の考えすぎかもしれませんが、「○×の妻」というのは、社会から安定した人間のように扱われるんだってことに。
何かの手続きをするときも、配偶者の欄が空白であるとか、既婚・未婚の欄に、どちらに丸をしていいのか考えるとか・・・とにかく心許無くて(爆)
でも、以前の生活よりも、今の生活の方が、誇れるし惨めじゃない!
周りの評価は知らないが、やっぱり一番大事なのは、自分から自分への評価だ!
と思う今日この頃です
私も、勝ち組から脱落しようとしています。
結局、肩書き、世間体なんてものは、まっちーさん、私にとって、意味のないものです。
一流企業のモラハラ夫に吸い尽くされる。それよりは、一人でいたほうが余程自分でいられる。
どうのこうの言って、世間はまだ古い価値観。
これからバツイチになる私にも向かい風が来るとは思います。でも、モラに服従しているよりは、誇りを持って生きていける。そう思っています。
まっちーさんのお子様も背中を見てきっと育ってくれるでしょう。
幸せを祈ります。
夫がどんなに立派な会社で働きどんなに偉い地位にいたとしても、私とはあまり関係がないと思ってしまいます。
単に、普通以上と人から見られることが、現実的に自分の得にならないと考える、即物的な人間なのかも。
同じく、よその人がどれだけお金を稼ごうと偉かろうと、それで私に何か奢ってくれるというわけでないですから(笑)、そういうことって単なるインフォメーションなんですよね、私にとっては。
まっち~さんがおっしゃるように、離婚が結婚までの人生と、結婚から離婚までの人生を失うことだとしても、まっち~さんが1人の人間として、そこで学んだことを失うことはないですよね。
辛い結婚生活やしんどい離婚を経験して初めてわかることもあるし、実際に経験がないことにも人の気持ちを考える余地が私の中に生まれたとすれば、あの結婚も離婚もムダじゃなかった。
私は私、他のいろんな立派な人やダメな人と比べる必要もない、たったひとりの私。
まっち~さんと同じく、誰に大事にされなくても私は自分を大切にしていきたいし、娘にも同じように生きていって欲しいと思っています。
宇砂子さん(ブログ読ませていただいてます)の
>既婚・未婚の欄に、どちらに丸をしていいのか
は、わたしも同じ事を思いました。海外に行った時に、既婚・未婚の他に離別・死別があって、なるほどと思ったものです。
「普通」って人によって、国によって、時代によって変わるものじゃないかしら。そんな「普通」に縛られることはないのでは。どうか「幸せに向かって真っ直ぐに歩いて」下さいね。
まっち~さんと私の違う点‥「妻の座」に誇りを持たれていたこと
かなと気づきました。私、結婚しても極力旧姓を残しておきたかった
んですよね。その一環として、会社では別姓を申\請しようとしたら、
夫が激怒して。そのとき初めて離婚を言い渡され、以来「出てけ」と
一緒に夫の口癖になっていました。今思えば、夫が離婚を言い出した
時点で応じておくべきでした(苦笑)。
別姓に反対する男性を「自信のない人」と、どこか見下すようだった
のは、実は私が最後まで「妻の座」に誇りを持てなかったのかも‥
と、まっち~さんのブログを拝読して思いました。