日限山4丁目日記

横浜市港南区日限山4丁目は美しい町です。美しい庭・家は町を美しくし、人々を幸福にします。まちびと

新町の初代の人々はほとんど故郷を異にしている

2023年09月03日 | 社会

日限山4丁目は50年前にできた新町です。初代の人々で生き残っている人はすべてほかの町から来た人です。また故郷を異にしています。このことが多少の町の人々の文化の違いになっていると思います。

私は東京からここへ来ましたが、故郷は静岡県磐田市です。遠州です。

昨日、84歳・83歳の中学3年同級会が磐田市の料亭と喫茶店であったので出席しました。行きかえりの電車での印象ですが、電車(含新幹線)に乗っていた人はほとんど若い人で、80代に見えるような人は一人も見かけませんでした。別世界にいるような気がしました。

11:00、磐田市の料亭で9人(男3、女6)の同級生が会い、おっ、我らの世界が戻ったと思いました。足腰が痛くて、座敷に座れず、低目の椅子を使った人が3人いました。残りの6人はまだ大丈夫でした。私も大丈夫の方でした。席を喫茶店に変えてからもお話は盛り上がりっぱなしで、16:30になって店から時間と言われるまでおしゃべりしていました。

従来は核になっていた担任の先生だった人が亡くなってしまったので先生不在で同級会をやったが、今回は、先生も話題の種になってしまい、先生の悪口まで飛出す始末でした。

ここから本論ですが、入った喫茶店のすぐ南側に私が卒業した磐田西小があります。私の人生に大きな影響を与えた学校です。今は校舎、プールは新しくなっているが、グランドの東沿のセンダンの並木はそのままで、幹の径が太いもので1mぐらいになっています。樹高は限界があるようで幹だけ太っていくので今は樹形はずんぐりむっくりになっています。

磐田西小グランド東沿のセンダンの並木

私が小学生の頃の校舎は1929年上棟の木造2階で、松ではなかったかと思うが、遠州北部の木材をふんだんに使った豪壮な建物でした。玄関の屋根の上に大きな鬼瓦がのっていて風格のある建造物でした。この校舎は幸い戦禍を免れました。

正門は南側、正門を入ると両側が美しい庭園、玄関に向かって左側に百葉箱、そのちょっと奥に二宮尊徳が薪を背負いながら本を読んで歩いている石像がありました。顔は正門の方を向いているので生徒は尊徳の顔を見ながら玄関に入りました。

尊徳像の台座に「一心」と刻まれており、この「一心」は磐田西小の精神だったと思います。一心とは、単純に生きる、一つのことに集中する、みんなが心を一つにしてまとまるという意味です。

私が卒業後、長い年数がたった1978年、校舎が老朽化したということで、安っぽい鉄筋コンクリートの箱もの校舎になりました。その時、尊徳像は、同じ南側ですが、新しく設けた正門、入って右側に置かれました。しかも、尊徳の顔は門の方ではなく、グランドの方を向いています。尊徳像を廃棄したという学校があるくらいですから、磐田西小も、現代の価値観に配慮し、廃棄はしなかったが、反対向きにしたのかもしれません。

磐田西小の現在の二宮尊徳像

玄関の屋根の上の鬼瓦ですが、德川家康の城づくりと関係がありますが、遠州では鬼瓦づくりが盛んでした。1929年、木造校舎建築のとき、若干20歳の鬼秀こと名倉秀三という人が、遠州では鬼瓦づくりで有名で、鬼瓦は彼が制作を担当しました。今も、その鬼瓦が校庭に展示されています。100年弱、風雨にさらされてきたが、表面の色つやがよく、浸食はまったくありません。遠州の太田川の両側の田の床土の微細な粘土を使い、さらに表面を丁寧にへらでなで固めることで緻密な黒灰色の光沢のある表面を実現したそうです。

磐田西小 旧木造校舎玄関の屋根の鬼瓦 大きいですね

鬼秀は遠州だけでなく、広く関東から鬼瓦の制作を依頼されました。磐田市福王寺本堂、袋井市可睡斎本堂と山門、鎌倉市あじさい寺本堂、東京都泉岳寺本堂、池上本門寺本堂と鐘楼などの、数多くの鬼瓦を手掛けました。

遠州は私を育てた地と改めて思いながら、21時過ぎ、横浜に帰ってきました。


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