「弘法にも筆の誤り」はよく知られていることわざですが、「弘法は筆を選ばず」って、皆さま、普通に使うことわざでしょうか。私はよく使われることわざと思っていました。
父は貧乏人でしたが、当時は筆で書くのが当たりまえ、書くことが好きだったようで、書道は上手でした。父は、地方市の公務員だった頃、市の橋の名前などを頼まれて筆で書いていました。
正月2日は毎年書初めの日で、私は、下手で、父の指導が厳しくて最後はいつも泣いていました。筆が悪いと言おうものならすかざす「弘法は筆を選ばず」と来ました。確かに父が使っていた筆は安物でした。
そんな父が、私が家から独立するとき、高価な筆と硯石をくれたので「弘法は筆を選ばず」ではなかったのかと、父の心の複雑さに驚きました。
社会人になって筆で書くことを依頼されることが多く、父からもらった筆は今は先がかなり短くなっています。今でも十分使えます。
最近、講演会の表題などを紙に書くことを頼まれました。ちょっと細字で書く必要があったので、小学校か中学校で使い、娘が残していったやや細字用の安物の筆で書きました。別に高価な筆と変わらないと思いました。「弘法は筆を撰ばず」は筆については正しいと思います。
しかし、西洗公園での草刈りや草取りに使う鎌は安物の家庭用鎌でいいとは言えません。「強い雑草」が多いからです。私は70代は、公園では手打ち厚片刃信州鎌を使っていました。重い鎌です。80代の今、厚刃は重すぎて手が疲れてしまいます。そこで84歳の今は、手打ち中厚片刃信州鎌を使っています。これは軽くて丈夫でマジックのような使い勝手のいい鎌です。
西洗公園にある倉庫に、数年前、4本、手打ちではない、中厚両刃鎌が入りました。これは「強い雑草」に使えます。しかし、自治会が昔買ったものはほとんど家庭用薄両刃鎌です。
そんな公園倉庫の古い鎌の中で、薄両刃ですが、手打ちで非常に丈夫な鎌が1本だけあります。かなり使いこまれている鎌です。
西洗公園倉庫にある唯一の「手打ち」薄両刃鎌
西洗公園を昔の村の神社に相当すると見ると、この鎌は私には神器に見えます。公園に自分の鎌を持って行かなかったときはこの鎌を使っています。私が知らない、昔の雑草取りの先輩が私を助けてくれていると感じます。
昔、西洗自治会に公園の草刈り・草取りに熱心な人がいた証拠でしょう。誰かまったくわかりません。もちろん亡くなっているでしょう。ご一緒に草刈り・草取りがしたかったと思います。
今、西洗公園愛護会事務局をやっていて心から望むことは、第二世代に、公園の雑草取りを運動感覚で楽しむような町のボランティアが現れることです。現代横浜っ子には無理ですかねえ・・・。
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