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ぐんまの歴史訪問記 1

2009年02月28日 | まち歩き

最近花粉が多く飛んでいていやな季節に突入してしまいました。

今年は、昨年より飛散量が多いということで、少し落ち込んでいます。

さて、あまり外には出ない時期ですが、先日高崎市群馬町にある保渡田古墳群に行ってきました。群馬県は古墳が

10,000基以上あったとされ、中央朝廷と密接な上毛野氏が支配した地域といわれています。

太田の天神山古墳は墳丘の全長は210m、さらに中堤をはさんだ二重の周堀をふくめると、長さ360m、幅280mという広大な面積となります。

この天神山古墳は5世紀中葉頃の築造ですが、保渡田古墳群の3つの前方後円墳(井出二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳)は、5世紀後半に築造されたと考えられています。

大きさは100メートル級ですが、この古墳群は全国的にも有名で、特に八幡塚古墳の中堤上の埴輪列は、、王の就任の様子を表したとする「王権継承儀礼説」が唱えられ考古学ではよく取り上げられています。

私も学生の頃は、古墳や埴輪などの時代に興味を持ち、この付近で発掘を手伝っていたこともあり、懐かしい場所です。

八幡塚古墳は古墳の表面に当時のように葺石を施し、埴輪列を復元していることは知っていたのですが、久しぶりに訪れて驚いたのは、井出二子山古墳がすっかり整備されて綺麗になっていたことです。20年前は、畑に囲まれていたのですが、今では後円部の舟形石棺も写真で展示されて、訪れた人にとっては、わかりやすいなと思いました。

全国の古墳の現状は木や草に囲まれ、昔の面影は在りませんが、古墳の築造当時の姿を知るには、八幡塚古墳は最適です。

また、近くにある上越新幹線の高架下からは三ツ寺Ⅰという豪族の屋敷跡も発見され、その構造が明確となり、全国的にも反響を呼びました。今は、この遺跡は保渡田古墳群埋葬者の屋敷であったとする説が有力となっています。

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八幡塚古墳。表面が葺石で覆われ、円筒埴輪が配列されています。築造当時の姿で、有力者の権威の象徴として目立っていたことがうかがえます。

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八幡塚古墳の中堤上の埴輪列、王の就任の様子を表したとする「王権継承儀礼説」が有力。

王や巫女、武人や動物など多くの埴輪が配列されています。

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井出二子塚古墳の模型。墳丘は3段で築造され、周囲には中島という丸い形をした場所が4つ見つかりました。ここでは、須恵器や家形埴輪が発見され、葬送儀式が行われたと考えられています。

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八幡塚古墳の後円部にある舟形石棺。蓋は破損し、盗掘を受けていました。

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整備された井出二子塚古墳。この古墳も当時は葺石で覆われていました。八幡塚古墳と対比すると、おもしろいですね。

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