歴史と旅と少しのグルメ

ぐんまを中心とし、日常の気ままな話題を書き込みます。

ぐんまの歴史探訪2011.2(三国街道:下新田宿~猿ヶ京関所)

2011年02月27日 | まち歩き

前回に引き続き、三国街道のぶらり旅をご紹介します。中山道の高崎から別れ、越後(新潟県)に向かうこの街道は最短距離ではありますが、勾配が厳しい難所がいくつもあります。今回は中山新宿をすぎ、下新田に向かいます。この付近には、群馬県の上毛カルタで有名な塩原太助の生まれた所です。ここには、本陣などは設置されず小規模な宿場町でしたが、塩原太助は苦労して江戸に出て、炭商に奉公し、勤倹貯蓄し群馬榛名への常夜灯整備や群馬高山村の中山峠の茶店など公益事業に巨費を投じた郷土の偉人です。生家の隣には塩原太助記念公園があります。このまま国道17号線を北上し、左手の高台を登ると、須川宿があります。ここには、本陣と脇本陣がおかれました。現在はたくみの里として水路や町並みも整備され、陶芸や竹細工などをつくる体験の家が多くあり、多くの観光客でにぎわいます。観光地は単に見せるだけでなく、何かを作ってもらうなど、少しでも滞在してもらい、リピーターにつながる仕掛けも必要ですね。たくみの里を過ぎ、赤谷湖を過ぎると猿ヶ京温泉があります。このホテルの一角に猿ヶ京関所跡があります。17世紀前半に設置され、重要な街道の取り締まり拠点として重要視されました。今の建物は役宅跡で、当時の雰囲気を伝えています。

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塩原太助と愛馬の像。江戸に奉公に向かう時に姿を現しています

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須川宿の町並み。かつての雰囲気が復元され、多くの人が訪れます

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猿ヶ京関所跡。当時の役宅が公開されています


ぐんまの歴史探訪2011.2(三国街道(横堀宿~中山宿)

2011年02月12日 | まち歩き

昨日に続き、三国街道をご紹介します。昨日は北牧宿(渋川市)までご紹介しました。今日は、さらに北上し、横堀宿・中山宿をご紹介します。北牧宿を北上すると、三差路があり、ここに石仏の道しるべがあります。これは明和3年(1766)に建立され、仏の右に「右江戸道」と彫ってありました。これは越後方面から南下してくる旅人への目印として大いに役だったに違いありません。この道しるべからさらに上っていくと1kほどで横堀宿に着きます。今は当時の面影はあまり残っていませんが、かつて本陣であった飯塚家(現佐藤家)があり、石垣に囲まれた屋敷は当時の景観を伝えています。それにしても、この宿から中山峠までの街道の勾配はきつく、当時の旅人にとって1つの難所であったことは容易に想像できます。この峠越えのあと、左手の小野子山の雄大さは旅の疲れを癒したことと思います。(当時とは景観が変わっているかもしれませんが?)次に向かった中山宿は慶長17年(1612)に開かれた宿場町です。最初は南側の本宿に本陣があり、栄えていましたが、すぐ北の新田に宿を造り、遠回りとなった本宿は寂れていき、訴訟が両地域でおこり、江戸幕府まで及んだそうです。当時の人たちにとっては、往来の増減は死活問題であり、今の静かなたたずまいからは想像できない大問題でありました。現在は本宿には本陣跡に門が残り、新田宿の本陣跡には門屋や大名が泊まった棟が当時のまま現存しているそうです。

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石仏の道しるべ。左の石仏の右に「右江戸道」と彫ってあります。

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横堀宿本陣のあった飯塚家(現佐藤家)、石垣に囲まれた大屋敷は当時を偲ばせてくれます。

それにしてもこの街道は急勾配ですね。この先中山峠まで続きます。

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中山宿本宿の本陣跡。本陣は火事で焼け、門のみ当時のままだそうです。すぐ北の新田に本陣ができたことにより、ここはルートから外れ、廃れていったそうです。

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新田宿の本陣跡。当時の門屋や大名が泊まった棟が現存しています。

風情がありますね。


ぐんまの歴史探訪2011.2(三国街道その1(杢ヶ橋関所・北牧宿)

2011年02月11日 | まち歩き

今日は朝から全国的に雪模様です。休みで外出を計画されていた方には残念な週末になりそうです。さて、最近は江戸時代の旧街道に興味があり、特に三国街道はきちんと訪ねたことがなかったので、群馬県内の旧宿場町をいくつか回ってきました。本来は、きちんと自分の足で踏破すべきですが、車を利用し駆け足で行ってきました。もう少し余裕ができたら群馬県内だけでなく、全国の各街道を巡りたいと思います。さて、三国街道は、中山道の高崎宿から群馬県のほぼ中央を南から北へ貫き、三国峠を越えて新潟県の寺泊へ至る街道です。長岡藩などの参勤交代で利用されただけでなく佐渡金山から江戸まで金を運ぶ街道として江戸幕府からも重要視されました。群馬県内には金古宿、渋川宿、金井宿、北牧宿、横堀宿、中山宿、塚原宿、下新田宿、布施宿、今宿、須川宿、相俣宿、猿ヶ京宿、吹路宿、永井宿の15宿がありました。今回まず訪ねたのは、金井宿と北牧宿の間にある杢ヶ橋関所です。ここは吾妻川右岸にあり当時の上州(群馬)では重要な場所でした。江戸幕府は、江戸方面への鉄砲の持ち込みや、人質として江戸にいる各大名の正室が逃げないように、関所を各地において「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まりました。現在でも関守の子孫である田中家の役宅が現存しており、当時の面影を伝えています。このあと、吾妻川の渡しを渡った対岸の北牧宿に行きました。ここは、越後から来た人でにぎわい、8軒の旅籠を含め160余軒の家屋が軒を連ねていました。当時の水路も復元されわずかながら当時の町並みをとどめています。この北牧宿から北に上ると興福寺があります。ここの入り口には、振貸感恩碑(しんたいかんおんひ)があります。これは、天明3年(1783年)の浅間山の大噴火による吾妻川の氾濫で大きな被害が出た北牧宿の悲惨さと復興に尽力した代官への感謝をわすれないように村人を戒めたものだそうです。このように地域に残された文化財は1つ1つに理由や経緯があるということが改めて感じます。当時の人々の生活、文化、思いが分かる文化財は後生の人々にとっても必ず教訓やヒントを与えてくれると思います。

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杢ヶ橋関所跡、現在も関守の子孫の方が住んでいます。

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杢ヶ橋関所と北牧宿の間を流れる吾妻川。1783年、上流にある浅間山の噴火の際は氾濫し、多くの被害をもたらしました。

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北牧宿の町並み。この宿は、芝宿・古宿・新田宿・中宿・道場宿に分かれ多くの旅人でにぎわいました。

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興福寺の振貸感恩碑(しんたいかんおんひ)


ぐんまぶらり旅2011.2(草津温泉)

2011年02月05日 | まち歩き

少し寒さも緩みましたね。しかし、花粉症がそろそろ始まりそうです。さて先日は久しぶりに草津温泉に行ってきました。前橋からのアクセス時は雪はありませんでしたが、草津にいくとさすがにありました。湯畑は水蒸気をあげており、温かい温泉が恋しくなりました。温泉街奥の「西の河原」には温泉がわき出た池が多数あります。手を入れると場所によって温度も違い、とても温まりました。雪をかぶった景色は風情があり、しばし見とれていました。草津スキー場もコンディションが良いようです。皆さんもスキー・温泉を楽しみに出かけてみてはいかがですか。

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草津温泉湯畑、自噴湧出量は日本一

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見ているだけで温まります。

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雪化粧の「西の河原」、幻想的な風景です。