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邪馬台国はいづこに?

2009年02月08日 | まち歩き

先日前橋市で開催された水野正好・奈良大名誉教授(考古学)の「倭国、女王国、邪馬台国」倭国女王卑弥呼の政治の講演を聞きにいきました。500人のホールが満席で立ち見の方が出るほどで、邪馬台国への人々の興味は尽きないことを改めて実感させられました。
 また水野先生は、話がおもしろく、ときにはエピソードを交え、わかりやすくお話になり、説は疑問符な面もありますが、ファンが多いことを実感しました。
 邪馬台国については、長年、魏志倭人伝の記述の解釈を巡って、九州説と畿内説が対立していますが、先生は、畿内説の代表として、九州にも乗り込み、論陣を張っているということでした。
  先生によると、倭国は、北九州から南東北までのほぼ現在の日本の大部分を占めており、それより北は「侏儒国」で、女王国は、山口県の本州から四国を含み、北関東までの範囲であったそうです。(ほかにこうした学説を唱える人はいないそうです)
 また邪馬台国の所在地については、中国の歴史書「隋書」で「則ち魏志の所謂(いうところの)邪馬台なるものなり」の一文、「大和が邪馬台国」と記された記述を根拠に、畿内説(大和説)を展開。この記述は、推古天皇の608年に遣隋使小野妹子と来日した隋使の見聞が根拠となっており、魏志倭人伝の記述を修正するものだということです。
 すなわち、随書は北部九州の東に投馬(岡山)、邪馬台国(大和)が所在することを記述しているとし、もし、魏志倭人伝の記述の通り、北部九州の不弥国(宇美)から南に水行30日も行ったら、鹿児島のはるか南となり、つじつまが合わない。また、魏志倭人伝には不弥国から水行20日の投馬国は戸数50,000戸、邪馬台国は70,000戸とあり、南九州ではその候補となるような地域はないとしました。
  九州説は90年代の佐賀県の吉野ヶ里遺跡の発見などで卑弥呼の王宮ではないかと盛り上がったり、畿内説では、奈良県桜井市の纒向遺跡に卑弥呼の墓と推測される後円部直径が160メートルに及ぶ箸墓古墳があり、「魏志倭人伝」の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」の記述にも一致しているという説は以前からあります。
 確かに、考古学の発掘事例の増加により、3世紀に前方後円墳が造営されていたこともわかってきており、3世紀半ばになくなったとされる卑弥呼の墓であるとの主張もわかります。
 また、実在する最初の天皇といわれる10代崇神天皇は伝承にある彼女を助けていた弟という説もあり、三輪山地域で政治を司っていたと考えられています。
  纒向遺跡は住人がいた痕跡が少なく、政治、儀式的な施設ではなかったかということもいわれており、私は畿内、もっというと大和説に共感をもっています。
学生時代、奈良にはよく行きましたが、三輪山周辺には、大神神社や古墳などかつて政治、祭祀の中心地であることを示す痕跡が数多く残っています。
  邪馬台国の場所及び大和朝廷との関連は議論があるにせよ、3世紀では列島最大級の規模をもつ前方後円墳が存在する大和という地域は、ヤマト朝廷の中心であったことは間違いなく、各地にも纏向型前方後円墳が築造され、政治的関係で結ばれていたとも考えられます。
 私は、文献の研究には限界があり、今後は考古学の分野で事実を解明していく必要があると思います。現在はほんの5%しか発掘が進んでいないという纒向遺跡の解明、天皇陵として発掘が進まない古墳の解明により、この論争にも終止符が打たれる時がくることを願っています。

水野 正好
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■プロフィール
   1934年大阪市生まれ。大阪学芸大学卒業。
   奈良大学学長(2期6年)、現在奈良大学名誉教授
        (財)大阪府化財センタ-理事長。
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