信州山里だより

大阪弁しか話せないの信州人10年目。限界集落から発信している「山里からのたより」です。

『八ヶ岳倶楽部』③から秋まで  その8 軽井沢

2010年11月15日 10時40分37秒 | Weblog

2010.11.14(日) 記

区民運動会の翌日、11日の体育の日に軽井沢へ行きました。そう、あの軽井沢へ。それもよりによって季節のいい秋の、連休の、一番混雑する、ミニ原宿、ミニ渋谷となるこの時期に。
私を知っている人から見れば、「うそー」「へぇー」「意外」と思われるかもしれませんね。でも、一度は行ってみたかったところでした。

ずっとずっ~と昔の40年以上も前、歴史学を勉強していた若い頃に『満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)』のことを知りました(たしか岩波新書にもあるはず。蔵書は大阪にあるので確認できず、です)。

戦時中、国策(国の政策)に応じて内地(日本の本土)から満州や蒙古へ入植した農民たち(長野県からが1番多かった)が、敗戦となってその半分以上が亡くなったり、引き揚げ時に親子離れ離れや子どもを現地人に預けたり(これが中国残留孤児)、その他今の私たちには想像もつかない凄惨な体験をしてやっと帰ってきたのでした。

しかし、国策に協力し悲惨な犠牲を払った農民たちが政府から与えられたのは、それまで誰も入らない未開地だったのです。
その一つが、浅間山麓の軽井沢。現在の軽井沢町大日向。
鍬(くわ)一丁で生い茂る森林を開き、火山灰の堆積した痩せ地を耕し、変えていかねば生きていけない。

農民たちは国家をうらみ、天皇をうらんでいた。
そして戦後まもなく始まった(昭和)天皇の全国巡幸の時にここを訪れ、「申し訳なかった」と農民たちに詫びた結果、農民にもそのわだかまりが徐々に徐々に解けていった、という。

今上天皇(きんじょうてんのう。今の天皇のこと。ちなみに平成天皇とは今はいわない)も折に触れ、ここを訪れたそうだ。皇太子時代には3人の小さなこどもたちを連れて知り合いの田舎を訪れるような、一番下の女の子はある農家で昼寝までしたとのエピソードが残っている。

まさに国家の犠牲になった人たちが、血を吐きながら切り開いた土地がどんなのか、今はどうなっているのか、一目みたかった。
探し探し、土地の子どもたちに聞きながらやっとたどり着いた開拓農地。目を見張る光景でした。ここまでしたか、ここまでできるのか。それが見た瞬間の印象でした。
写真は浅間山が目の前の農地。その一角に昭和天皇の歌碑が建っていました。



動機はそれだけではありません。NHKの教育テレビに『美の壺』という番組があります。
今年だったか、この番組で「軽井沢」をやっていました。軽井沢といっても軽井沢特有の別荘建築について、でした。特に私なんぞ家屋についても興味があるので、番組で紹介されたことをこの目で見たい、ということもありました。

別荘、というと「特別なもの」と私はとらえてしまいます。この番組を見るまではそうでした。特に庶民でなおかつ貧乏人出の私にとっては、無関係の、接点のない別世界のもの、ましてや「軽井沢」なんですぞ。
財界人、政治家、芸能・スポーツ界、学者、文化人……要するにその世界で頂点を行く人たちの豪華な別荘地帯。それが「軽井沢」。しかし、それが全てではない、のでした。

二人でほんのわずか、旧軽井沢を散策したのですが、まるで掘っ立て小屋のようなものもあれば、戦後の住宅不足で物資のない頃に建てられた市営・県営住宅のような粗末な家屋も少なからず散見するのです。
で、それらが番組で紹介されていたように外壁が杉皮で覆われ、玄関もなく、軽井沢様式(?)。
ま、見ていておもしろい。なにか、別荘でありながら生活のにおいも感ぜられ、軽井沢に対する偏見が薄れるとともに興味が沸いてきました。
今度は混まない時期にゆっくりと散策したい、と思ったものです。

なおこれだけは漏らさず書いておきますね。
「旧軽銀座」では、乳母車を押す少々歳を召した、おしゃれで上品な女性が少なからずいました。なにげなくその乳母車を覗いてみると、なんとなんとワンちゃんばっかり。出会う乳母車すべてにワンちゃんが入っている。まるで人間のこども。二人で顔を見合わせて驚くというかあきれるばかりでした。
それにリードをつけて自力で(?)歩いているワンちゃんは、どれもこれも純血種ばかりで、「ロクを連れてこずによかった。ここにきたらいじけてしまいよる」と、口数少ない夫婦の会話の一つになりました。

写真は、軽井沢を避暑地として初めて紹介したカナダ人宣教師ショーの家です。表もシンプル、中もシンプルです。


もう一つの動機。文学です。
こう見えても私は文学青年だった。結核にかかればいい小説が書けるのに、なんで親はこんなガッチリ体型に生んだのだろう、真面目にそう思ったものです。
結核─痩身(そうしん)─長身─小説家というイメージ。それに反し、学校代表にまでなる健康優良児─少々小太り─短足・短身。こりゃ間逆ですね。でも小説を初め文学書はよく読んだ。ただ軽井沢に縁の深い堀辰雄は『風立ちぬ』しか読まなかった。ある文学大系本の堀辰雄篇には『菜穂子』とか数編が収められているにもかかわらず。

以前にもこのお便りに書いたと思うが、信州には出版社が多い。従って信州に関連する書籍の出版も実に多い。で、ここに居を構えてから松本の「郷土出版社」が出している『長野県文学全集 第三期 現代作家編』を購入した。
(実はこの郷土出版社、私がまだ大阪にいて歴史学研究に熱意を持っている頃、ずっと出版案内を送ってきてもらった出版社だった。この本を購入するまで気がつかなかった)
この『全集』をいつもの性癖のとおり、何の順番も考えず行き当たりばったりに読んでいると軽井沢関連が実に多いことに気がつきました。

そこで『第10巻 資料編』の総索引《地域別》があるので見てみると、まあ、軽井沢関連の随筆、紀行、小説、日記のあることあること。
芥川龍之介「病牀雑記」「軽井沢で」「軽井沢日記」などから始まって、若山牧水の「落葉松林の中の湯」まで細かい字で6ページにも及んでいます。1ページに90作品の紹介、従ってこの全集には約540の作品がある、ということです。ちなみに軽井沢に続くものは北アルプス関連が3ページ、松本、木曾の2ページ強でした。

この軽井沢関連の随筆を読むと、独特の「雰囲気」を感じます。何故か「大和のふる道」を呼び起こすのです。
文中、「軽井沢の木漏れ日」と接すると、誰の詩だったか忘れたが自然と「あはれ、花びらながれ」と口にでてくる。
追分の「油屋旅館」は、文人墨客がよく利用した法隆寺に近い某旅館が(名前、忘れた)と重なる。


「旧軽」はすぐ引き上げたのですが、大日向で随分時間をとってしまった。
夕方4時半過ぎに『追分宿郷土館』に入って、「あれ、追分宿には欠かせなかった飯盛り女についての資料が全く無い」と思いつつざっと眺め、そこの事務員さんが親切にも、2人連れがこれから『堀辰雄文学記念館』に行くので閉館時間を延ばすように連絡してくれて、『記念館』をも見てきました。

軽井沢のバスやその他に「美しい村」のロゴがよく見られました。これは堀辰雄の小説『美しい村』から採ったのかもしれない。

とにかく、もう一度ゆっくりと行かなくては。
「雪は少ないのだが、たまに降ると雪かきも自分でせねばならない。友人や知人の話しによると、軽井沢が一番いいのは冬だという。観光客もいず、静けさを取り戻す。雪の上に点々とつく足跡はタヌキかキツネか、テンか…。」(元NHKアナウンサーの下重暁子さん。古い人にとっては懐かしい人でしょうね)
とあるから、冬に行くことにしよう。そのときは軽井沢の住人を装って。

(いやいや長くなってしまいましたが、蛇足を)
私は分岐点がなぜか大好きです。
「お前は北へ、オレは西へ。ここで分かれりゃ二度と会えねえかもしれねえ」という分岐点。
あるいは「信心は一大事じゃ。真剣勝負じゃ。地獄と極楽との追分じゃ」(倉田百三『出家とその弟子』。高校時代の愛読書でした)。
ここは北国街道と中山道の追分。全国の街道の、追分の中の追分。追分の代表格。
写真を撮られるのが嫌いな私も、ここ「追分分去れ」で1枚撮ってもらいました。(お目汚しでスイマセン)


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