旅してマドモアゼル

Heart of Yogaを人生のコンパスに
ときどき旅、いつでも変わらぬジャニーズ愛

東北の力を学ぶスタディ・バスツアー

2012-05-01 | ほかの話

もう5月ですね。
すみません。本当に最近ブログ更新してないですね。
でも、元気でやってます。
新しい職場にもようやく馴染んできて、やっと自分の仕事の道筋も見えてきて、そろそろ本格的に動き出さないとと思ったり。
プライベートでは、今月12日に渋谷で開催する「横山&大倉バースデー会」の幹事やってまして、その準備やら打ち合わせやら、ええと、はい、楽しくやってます。
バースデー会はまだ人数に若干の余裕があります。あれ?ちょっと、るるりん。私、誘われてないんだけど?どういうこと?という方がおられましたら、ご連絡ください。


さて、それはさておき。先月、14日(土)~15日(日)で、岩手県北観光と雑誌「ソトコト」主催の「東北の力を学ぶスタディ・バスツアー」に参加してきました。

盛岡駅10時30分に出発ということもあって、前日の金曜夜から盛岡入り。
土曜日比較的のんびりと起床して、10時30分より10分前に集合場所の盛岡駅西口へ。
参加者は私を含めて24名。
夫婦や友人同士で参加という方もいましたが、男性も女性も一人参加という方も思っていたより多かった。
後で、参加者同士で話をしていた時に、やはり旅行とは違うので誘いにくかったというのが、一人参加されている方の理由でしたね。私もそうだったし。

バスガイドさんもいて、盛岡市内を通って、宮古へと向かう間はどことなく観光ツアー的な雰囲気もあったけれど、県北観光のガイドの今井さんから震災時や被災地の話などを聞いたり、震災の時の映像などを見ていると、これが観光ではないと認識をあらたにさせられました。

宮古の魚菜市場に着く前に、津波が乗り越えた防波堤を見ながら、観光バスの高さでも防波堤越しでは海面が見えないことに、それほどの高さを持ってしても、圧倒的な強さで津波は越えてきたのかと、ショックを覚えました。
魚菜市場でお昼を取ってから、市場で少しお買いものをしながら、震災で牡蠣や海鼠の養殖所が津波でダメになってしまった話などをお店の方から聞いたりしました。

宮古市内から北上して、田老へ。
昔、三陸鉄道を八戸からめぐる旅をして訪れたこともある田老。
テレビでもその映像が何度も映された、万里の長城にも例えられた田老の防波堤が、津波で破壊された状態を、実際に防波堤の上に立って眺めました。


破壊された防波堤。


かつてはここに田老の街がありました。


防波堤の上から眺めた光景。

がれきは撤去され、今は完全に更地となった場所に、かつては人が住み、働いていたことが信じられない。私の中にある田老の景色と、いま目の前にある光景がどうしても一致しませんでした。
ここはすでに人が住む場所としては市の条例で禁止されているそうです。
それでも、ポツポツと非居住区である場所に家が建っているのも散見しました。ここではない場所へ、と言われても、そう簡単に移転先など見つからない、福島から避難している方々の現状と同じことなのかもしれません。

田老から宮古へ戻り、宮古の浄土ヶ浜へ。

昔旅した、三陸鉄道の旅の最後が浄土ヶ浜で、当時ここの美しさに息を飲んだ記憶があります。
なので、震災後にテレビを通して見た浄土ヶ浜の惨状に涙が止まりませんでした。
美しかった白い海岸は陥没し、悲しくなるほど汚泥や瓦礫で汚れていました。
ただ、浄土ヶ浜の岩そのものがまったく破壊されていなかったことに驚きを感じました。
それは、場所を違えど松島も同じで。
人間が作った頑丈な防波堤は津波の威力に粉砕されても、自然の造形である浄土ヶ浜や松島はそのままの姿で残っている。
自然の驚異的な底力を見せつけられると同時に、人工物の脆さに虚しさを感じました。

ガイドの今井さんは、実は震災前まではこの浄土ヶ浜にあるレストハウスで働いていました。
でも、震災で職を失い、今の盛岡北観光のガイドになったそうです。
以前の姿を取り戻し始めた浄土ヶ浜で、今井さんは震災当時の体験を話してくれました。
一度は高台に逃げたにも関わらず、職場の通帳と印鑑が気になって取りに戻ったところ、海の異変に気づいて、でも気づいた時には、津波が浄土ヶ浜の岩を超えて襲いかかってきたそうです。
慌てて元来た道を戻り、息が止まるほど苦しい思いをしながら、高台へと駆け上った話を語る今井さんの表情は、バスの道中で冗談を言ったりする時とは打って変わって、笑顔すら見られませんでした。
その真剣な表情に、あらためて津波を実際に体験された方が抱える心の痛みを感じました。

浄土ヶ浜の遊覧船は、震災前は3艘あったのですが、2艘は津波にやられて使えなくなってしまいました。ただ唯一、1艘だけが、寄港して観光客を降ろした直後に地震にあい、急いで沖合に逃げたので、津波の被害を逃れることができたそうです。
その唯一残った遊覧船に乗って、浄土ヶ浜の遊覧へ。

これこれ。
昔乗った時も、海ネコに100円の海藻パンをあげましたよ。
船に一生懸命ついてくる姿がなかなか、なかなか・・・(笑)
昔と変わらない名所を巡りながら、船内ガイドさんの説明を聞くのですが、そこに震災の話が盛り込まれていました。
でも、海岸沿いにある防波堤はすべて壊されていても、やはり自然に出来たものは、しっかりと立っている。本当に自然ってすごい。

楽しい遊覧を終えた後、バスは一路釜石へ。
釜石の周辺でもまだ海など見えない場所なのにもかかわらず、津波が押し寄せた痕跡がくっきりと残されていました。
学校のまわりにいくつも出来ている瓦礫の、いや、瓦礫と言っては申し訳ないですよね。ここにあるのは瓦礫などではなく、家や家具や家財や、とにかく人々が今まで持っていた大切なものばかりなのに。
でも、それを瓦礫と呼ばなければならないのを悲しく思いながら、いくつも出来た瓦礫の山が、まだこれだけ残っているという現実にまたもやショックを覚えました。

そして、釜石の根浜海岸に建つ旅館「宝来館」が、本日の宿。
男女別々に4~5人に分かれて相部屋なのですが、なんだか懐かしい合宿状態。
はるか昔となった学生時代の修学旅行を思い出す楽しさ。
夕食もみんなでバラバラの席に座って、お互いに自己紹介とかしながら、でも夕食後は気づいたら一つのテーブルにみんな集まって、ガイドの今井さんを中心に他愛もない話で盛り上がったりしました。
最後に、世界中から寄せられた日本への励ましのメッセージDVDをみんなで見て。
今も世界の人は、日本の被災地のことを心配してくれているのかな。

翌朝、ちょっと早めに起きて、旅館の周りを散策しました。

宝来館。津波は3階ギリギリまで来たそうです。
私たちが宿泊した場所は2階。津波をかぶった階ですが、綺麗に改装されていて、快適なお部屋でした。

旅館の前に広がる根浜海岸。
この穏やかな内海が…と穏やかに寄せては返す波の音に信じられない思いがしました。
ちなみに、この根浜海岸に津波がくるまでは、砂浜があって、波が砂浜を洗う音が静かに聞こえていたそうです。津波によって砂浜が地盤沈下を起こし、今は波が防波堤を叩く音だけが聞こえています。

海岸に建つ鎮魂の碑。
碑の下部に書かれたメッセージの重さに胸をつかれます。

とにかく地震がきたら上へ上へ逃げろと。
ばらばらでいいから逃げろと。
まずは己の身を救えと。
津波に対する備えのメッセージが、確実に後世の人に伝わることを願ってやみません。


根浜海岸を散策してみました。
松の木を津波が直撃した後、おそらく折れた木を切り取った跡でしょう。

引き波の恐ろしさが伝わるガードレールの無残な姿。

名勝「根浜海岸」の看板も倒されています。
かつてどんな状態でここに立っていたのかすらわからないほど。

朝食後、2班に分かれて、宝来館の周辺の瓦礫撤去と側溝掃除を約1時間ほどやりました。
私は瓦礫撤去班。瓦礫といっても大きな瓦礫は男性が、私たち女性は塵拾いなどの清掃活動。
ボランティア活動の後、宝来館の女将さんから、震災時とそのあとの話を聞きました。
津波に襲われた時、震災後、電気も届かない状態で何日も過ごした時、備蓄した食糧が底をつきはじめた時、記憶は前に後ろにと時々ぶれながらも、間違いなく恐ろしかったはずの体験を、私たちの目を見ながら語りかける女将さんの堂々たる姿に、目頭が熱くなる思いでした。

最後に女将さんと今井さんと宝来館の前でスリーショット。

女将さんの笑顔が優しくてホンマ素敵でした!

宝来館を後に、釜石の被災地区を巡りながら、バスは気仙沼へ向かいます。



学校の周囲に残る被災の爪痕。
この山を「瓦礫」という一言で済ませたくないという気持ちになります。
いろいろな所で何度も言われている言葉ですが、ここにあるのは決して瓦礫などではなく、一人一人のいろいろな形の「思い出」です。

気仙沼への道中、陸前高田に立ち寄りました。



震災直後、何度もメディアに取り上げられた陸前高田。
当時は町全体が瓦礫に覆われていて、テレビの画面で見ただけでも、目を疑うような惨状に震えが止まらなかったほどでした。
重機が入れない場所だったため、地元の人、ボランティア、自衛隊など、人の手で瓦礫を撤去していく作業をし続けたそうです。そしてこれが、今の陸前高田。



かつてはこの先に町がありました。
何もなくなった土地に、今こうして花を植える活動が陸前高田では広まっています。

吉田さんの花っこ畑。
吉田さんのご自宅も津波の被害にあって全壊しました。
でも、被災地の人や岩手を訪れてくれる人々の癒しになってもらえたらと、1年中花が咲く花畑を作ろうと仲間の方たちと奮闘されています。
吉田さんの笑顔も素敵でした。

バスの車窓から写した陸前高田の一本松。
景勝地だった松林が津波で根こそぎ持っていかれた中、唯一残り、被災地の希望の一本松として、テレビでも取り上げられていた有名な松です。

そして気仙沼へ。

まだ町の中心部に残る船の残骸。
気仙沼の町中をバスで移動しながら、全・半倒壊したビルが残っているのを見て、気仙沼ほどの町でも復興はまだまだなのだと痛烈に感じました。
斉吉商店さんで、復興に向けた前向きな話を聞いたりしながら、復興への道筋の中で、被災地から離れたところから、私に何が出来るだろうと真剣に考えさせられました。
もちろん、見えてきた支援の形もあります。小さなことかもしれないけれど、一つ一つできることから駒を進めるように支援していきたい、そう思いました。

今回、岩手を中心に、被災地を訪れて驚きだったのは、笑顔で私たちを出迎えてくれる方々がたくさんいたことでした。
大したボランティア活動をするわけでもなかったのに、でも、「来てくれるだけでありがたい」という言葉をいろんな方からいただいて、私自身が励まされた感じでした。

スタディツアーという言葉に、ボランティアとは違った、どこか力の抜けた参加のしやすさを感じて、今回初めて行ってみたのですが、実際行ってみて本当によかった、と思いました。
またこういう機会があったら、ぜひ参加してみたいし、こういう形でなくても、東北へ足を運びたいとあらためて思いました。


とりあえず・・・


7月にBUMPのツアーで仙台に行きます!イェーイ!