Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

ツイン・ピークス シーズン2 vol.1

2008-02-13 | TVドラマ(海外)
★★★ 1989年/アメリカ 監督/デヴィッド・リンチ
<episode8~episode10>

「さらなる混沌に突入」

episode7までに提示された多くの謎が一つずつ回収されていくのかと思いきや、物語はますます混沌としていく。個性的なツイン・ピークスの人々も、ドラマの人気上昇と視聴者の期待の高まりからか、手を替え品を買え、より個性的に描かれようとしているが、調子っぱずれのオルゴールのように何だか心許ないただの変キャラへと移行しているだけのよう。そんな中、ハリーとは犬猿の仲のアルバートの嫌味がだんだん冴えてくる。ダラダラし始めた物語のツッコミのような役割を果たしている。

しかし、この期に及んで、「宇宙からの信号」なんてものを持ってくるのは、大阪弁で言うところの「いらんことしー」。本来は「クーパーの夢」と「人々が見るボブの幻想」というこの2つで、十分非現実的な面白さは表現できているはずで、そこに新たな超常現象を持ち込むのは、明らかに面白さが拡散してしまったと思う。そろそろ何か一つでも解決しないと、という差し迫った状況でようやくリーランドの逮捕を持って来たんじゃなかろうか。

人気が出たから物語が増えてしまったんだろうが、このepisode8~10で、ジョシー、ハンク、ホーンたちの裏の顔を一気に暴いていれば、物語としては絶対面白くなったと思う。つまり、日本のドラマでもよくある1クール分でしっかり結論を出していれば、全10話で実に質の高いドラマとして終われたことだろう。

この引き延ばし作戦にこれからまだまだおつきあいせねばならんのか、と思うとちょっとツライ。

ツイン・ピークス シーズン1 vol.3

2008-02-12 | TVドラマ(海外)
★★★★★ 1989年/アメリカ 監督/デヴィッド・リンチ
<episode5~episode7>

「道化師、リーランド」


ツイン・ピークスの登場人物全員に「裏の顔」がある、という事実が明らかになるvol.3。とりわけ、香港美女ジョシー・パッカードの正体がだんだんわかってきて、パッカード製材所の火災をもって、シーズン1終了。膿を出すだけ出しておいて、さあシーズン2でどう処置する?と期待も高まるのだが、実はシーズン2に入ってもなかなか処置は進まない(笑)。その分、リンチワールドをたっぷり楽しむとしましょう。

vol.3で印象的なのは、ローラの父親、リーランドのキレっぷり。本来、娘を殺された当事者であり、普通の価値観で言えば、娘の仇を取るとか、妻をいたわるとか、父親としての役割があるんだけれども、リンチはこの殺された娘の父親をとことん狂わせていく。リーランドがしがみついた娘の棺が墓穴の中でぎっこんばったんとアップダウンする様子はどう見ても笑うしかなく、以降リーランドは物語のピエロとしての役割を担うことになる。

陽気にステップを踏み、歌を歌う狂ったリーランドと、常にしかめっ面でキラーボブの幻影を見ては叫び声をあげるローラの母セーラ。この夫婦ふたりの対比が実に面白い。娘が殺されたわけだから、面白いという言葉は道徳的には正しくないが、名コンビぶりが見ものと言っても過言ではないほど、ふたりの演技がキレている。セーラの叫ぶ時のあの顔。あれは、誰にも真似できるものではありません。リーランドは躁、セーラは鬱。人が精神的に不安になる局面の表と裏を、リンチはこの夫婦に分担させているのではないだろうか。

ツイン・ピークス シーズン1 vol.2

2008-02-11 | TVドラマ(海外)
★★★★★ 1989年/アメリカ 監督/デヴィッド・リンチ
<episode2~episode4>

「小人のダンスに魅せられて」

vol.1で、リンチワールドの幕が開き、どいつもこいつもクセ者だぜ!って言う怒濤の展開が見られて、いよいよ捜査はどうなる?ってことでvol.2。

ところが、クーパー捜査官は自分の見た夢を手がかりに捜査するわ、チベット密教の夢からヒントを得たという占いみたいな捜査法は取り入れるわ、FBIのくせに実に非科学的なやり方で犯人を捜し始める。このトンチンカンぶりに引いてしまう人もいるに違いない。しかしながら、ローラを殺した犯人を母親がフラッシュバックで見たり、森に潜む悪魔という伏線がしっかり張ってあるから、人智を超える何かがこの事件に絡んでいるってことを受け止めて見続けるしかない。まあ、私はその作業を困難とは全く思わないのですけれど。

ツイン・ピークスは「町には木しかない」と言われるほどの田舎町として描かれている。人々も昔からの知り合いばかりで、平和に暮らしている。しかし、その裏では、日頃の妬みそねみがあって、意外な人物同士の繋がりがある。そこへ、都会からひとりの捜査官がやってくる。FBIの切れ者だ。本来ならば、よそ者として疎まれる立場の彼が、町の人を敬い、町に溶け込むことを最優先とし、やがて、人々は彼に全幅の信頼を寄せる…。

と、こういう展開。どっかで見たことあるよなあ…。で、最近気づいた。これって「金田一シリーズ」も一緒じゃん!よそ者としての視点って結局観客の視点でもあるわけです。だから、よそ者である主人公がどんどん裏に隠されたものを暴き出すプロセスって、見ている私たちも実にスリリングに感じられる。こういう構図は探偵物では王道のパターンなのかしら。

そして、episode2のラストシーンについに来ました。「小人と赤いカーテンの部屋」。私は、このシーンが「ツイン・ピークス」にどっぷりハマった人と、去ってしまった人を分けたボーダーラインではないかと思う。episode2と言えば、物語はまだ始まったばかり。その段階で、早くもリンチワールドが最高潮に達する。それは「俺の撮りたいように撮るから」という宣言のようにも見える。小人のダンスに魅せられ、カーテンの向こう側を覗いて見たいと感じた人は、さらに深みにハマっていくこととなる。

ツイン・ピークス シーズン1 vol.1

2008-02-10 | TVドラマ(海外)
★★★★★ 1989年/アメリカ 監督/デヴィッド・リンチ
<プロローグ&episode1>

「類い希なる才能。リンチの“焼き付ける力"」


ようやくレンタルでリリースされた「ツイン・ピークス」。あれから15年以上たっているというのに、プロローグでの名場面をことごとく覚えているということに驚く。ビニールにくるまれたローラの死体を始め、暗い階段とシーリングファン、暗闇に揺れる信号機、不気味なふくろうなど、それらの映像はそっくりそのまま記憶の中のものと符合する。まるでローラの母親が叫び出す瞬間に見るフラッシュバック現象のようだ。

改めて感じるのは、リンチの映像は一連のシークエンスというのではなく、「ストップモーションの強烈なイメージ」として、脳内に流れ込んでくるような衝撃を持っているということ。先にあげた印象的なシーンにおいても、まるで私の網膜に焼き付けられていたような感じだ。そこで、ふと思い出すのがデヴィッド・リンチは画家を目指していたと言うエピソード。今でも個展など開いたりしているが、彼の絵描きとしての才能がこの独特の“絵力”に結びついているのではないかと思うのだ。

また、彼はツイン・ピークスシリーズで多くの印象的な「アイコン」を作りだしている。ドーナツ、剥製の鹿の頭部、ボイスレコーダー、ローラのポートレート…。数え上げるときりがない。これらの「小道具」は犯人は誰かという本筋とは関係ないが故に妙な違和感と共に我々の記憶の中にぶら下がっている。リンチはストーリーをないがしろにする作家ではないが、やはり我々に「イメージを焼き付ける」ということにおいて、類い希なる才能を持っていることをひしひしと感じる。語ったり、説得したりすることは訓練すれば上昇するスキルのように感じられるが、イメージを提示するということは、やはり天賦の才だろう。

そして何より、彼のすばらしさは、人を不快にさせないということ。カルト作家と呼ばれる人たちは、時に人間の見たくもない部分を無理矢理見せ、観客に不快感を与えることがある。しかし、リンチは観客を不安にさせても、不快にはさせない。確かにドキッとする映像には違いないが、嫌悪感を催すことはない。リンチワールドとは、とことん魅惑的で甘美な世界であるからだ。

アメリカのドラマ界を一変させ、多くのフリークを生み出した「ツイン・ピークス」だけども、今見てもリンチ印いっぱいの幻想ワールド。新作「インランド・エンパイア」までに、何とか全部見ておこうと思う。

監督、ばんざい!

2008-02-09 | 日本映画(か行)
★★★★ 2007年/日本 監督/北野武
「徹底的な自己破壊は全ての映画監督への挑戦状」



「小津的空間で首を吊る」
「TAKESHI’S」で分裂させた自己を、徹底的に破壊するのが目的で作られた本作。何を撮っても駄目な北野監督が続く序盤。その駄目な作品群は、全てが「○○モノ」というジャンルで称されるものばかりだ。「悲恋モノ」「忍者モノ」「昭和モノ」…etc。それらが撮れないと自虐的に嘆いてみせるものの、これは明らかな「○○モノ」とイージーにカテゴライズされてしまう映画への徹底的な批判。そして、それは同時に「○○モノ」という冠がつけばヒットする映画を撮っている監督たちへの批判であり、挑戦状ではないだろうか。ここまで、同業者をこてんぱんに批判して大丈夫なのかと心配するのは、私だけだろうか。面白いのは、そのようなジャンル別作品の中で、小津安二郎の作品だけが固有名詞で挙げられていること。しかも、この小津的空間で北野監督の分身人形は首を吊っている。映画ファンなら、この一瞬のカットにドキリとしないわけがない。果たして、このカットが意味するものは何か。小津作品について語るものを持っていない私など、このカットをどう理解していいのかお手上げだ。小津作品には叶わないという白旗なのか、それとも小津的なるものを追いかけることは、すなわち己の首を絞めることであるという日本映画への示唆か。

「脱線しまくる映画は、一体誰のものか」
脱線に脱線を重ね、物語としては全く破綻してしまう後半部。その破綻ぶりを岸本佳代子と鈴木杏が嘆くシーンにおいて、「そんなのコイツに聞きなさいよ」と分身人形は何度も殴られる。そして、延々と続く笑えないベタなギャグ。果たして、ここに「観客」という概念が存在しているのかどうかすら疑わしい。北野監督が試みているのは、「映画」と「観客」の断絶なのだろうか。己を否定し、観客との関係性を断ち切った上で、最終作にとりかかる。本作はそのための準備作品のような気がしてならない。首をくくっても、殴られても、ラストの宣言は「監督、ばんざい!」。好調と言われる今の日本映画界において、映画監督たるものを見つめることに徹する北野監督。そもそもタイトルは、「OPUS 19/31」だったとか。そう言えば、フェリーニの「81/2」は、スランプの映画監督が現実と妄想を行ったり来たりする話だったけ。こりゃ、完結編をじっと待つしかないのかな。

もしも昨日が選べたら

2008-02-08 | 外国映画(ま行)
★★★ 2006年/アメリカ 監督/フランク・コラチ
「いらん下ネタが多すぎる」


本作、確かミニシアターでかかっていたのを覚えていてついレンタルしてしまった。割と名画座的な雰囲気を持つ映画館だったもので、そういう趣もあるのかと思いきや、エライ違いでガッカリ。おそらく最近、ミニシアター系でかかる作品までもがシネコンで上映されてしまうため、ミニシアターはシネコンから「漏れた」作品を上映しているんだと思う。日本での上映そのものが見送られる作品も多くなってきていると言うし、映画館の二極化構造は最終的には上映できる映画の受け皿を減らすだけだよね。とまあ、そんな話はさておき。

これ、邦題が全く作品内容と合ってない。もしももへったくれもなく、昨日なんて選べません。自分の人生を早送りしたり、巻き戻って見ることができる、ということ。つまり本人は傍観者であり、選択するということは全くない。どうなのよ、このタイトル付けた人。

前半、退屈で、退屈で困りました。主人公自身が仕事一筋で家庭を顧みないって設定ですけれども、それなりに仕事で成功しているし、あんなに美人の奥さんもいるし、別に不満なんかないじゃん!と思ってしまいました。明日の朝まで仕上げなければならないプランがあるなら、家族はキャンプなんぞ我慢するべきでしょうと、逆に思ってしまいましたよ。しかも、寝具売り場に入ったところで、オチがわかってしまった私。このまま見続けるのか、とつらかったです。

それがラスト30分あたりから、両親のエピソードが絡んできて、ようやく面白くなりました。はあ、良かった。このマイケルという男には何も共感できませんけど、親子の繋がりという普遍的なテーマを見せられてようやく物語のテーマが迫ってきました。今を大切に生きること、自分の周りの人を大事にすること。でもねー、最終的に自動制御状態だったマイケルは孤独な老年になっているんですが、周りの家族はそんなには不幸ではないですよ。だから、急にみんなにやさしくなるってのもえらい自己中心的な男だなあ。と、いろいろひっかかりはあるのですが、まあ堅いことは言わずに気軽に見るコメディってことで許すとしますか。

それより気になるのは、いらん下ネタが多いってこと。コメディだから笑わせたいのはわかるけど、ちょっとそれを下ネタに頼りすぎ。子供と一緒に見たいとは言わないけど、女性が男性と一緒に見てこの下ネタシーンでガハハと笑えるかと言うと、どうでしょう。少なくとも一連の犬ネタには閉口。やはり同じ下ネタでもイギリスのコメディなど、クスリと笑える程度の方が上品でよろしい。やっぱ、私にはアメリカンホームコメディタッチが合わない、ということがつくづくわかりました。

オペレッタ狸御殿

2008-02-07 | 日本映画(あ行)
★★★ 2005年/日本 監督/鈴木清順
「爺様の壮大なるお遊び」


見終わってすぐさま浮かんだのは「じさま演出による学芸会」。私は敬老会に呼ばれたような気分だった。いえいえ、何も鈴木清順氏をバカにしているわけではありません。とにかく壮大なお金のかかった学芸会だな、と。人を食ったかのような開き直りと、大人の大真面目なバカ騒ぎについていければ楽しめます。お気楽に手拍子でも打ちながら鑑賞すれば、堪能できるかも知れない。

しかしながら、わたくしはこの清順ワールドを呑み込み、堪能するところまで到達できなかった。と、いいますのも、オダギリくんの雨千代というキャラへのなりきり度が気になって、気になって仕方なかったから。やはりこの手の映画は役者のなりきり度が観客に伝わるもの。きっとオダギリくんは、この演技が恥ずかしいんじゃないだろうか。鈴木清順だからと、即返事したものの本当は後悔しているのではないか。そんなことばかり考えてしまった(笑)。実は「嫌われ松子」の中谷美紀を見ていても同じことを考えていたんだよなあ。

その点、チャン・ツィイーはさすが母国を出てアメリカくんだりまで飛び出しただけあって、根性が座っている。うろ覚えの日本語に臆することなく、お姫様になりきっている。墨絵や尾形光琳など日本の美術セットにしっかりおさまって、美しい表情を見せるのはさすがプロ。オダギリくんは、今この役のオファーが来たら断るだろうなあ…。

これを斬新と言うことに異存はないけど、やっぱり観る者を選ぶ作品。残念ながら私は全くついていけなかった。

新宿泥棒日記

2008-02-06 | 日本映画(さ行)
★★★★ 1969年/日本 監督/大島渚

「盗まれる言葉たち」


これはとても詩的で実験的な作品。紀伊國屋書店でジュネの「泥棒日記」を万引きをした青年、横尾忠則が彼を捕まえた女性店員、横山リエと性をめぐる観念の世界へ逃避行に出る。そんな感じでしょうか。
本を盗むということは、言葉を盗むということ。故に、言葉の洪水のような作品でもある。言葉によって喚起される数々のイメージを頭に思い描きながら、新宿の街を泥棒気分で逃げ回るのだ。

性科学権威の高橋鉄によるカウンセリングシーンや佐藤慶や渡辺文雄がセックスについて大まじめに語り合うシーンなどのドキュメンタリー的なシーンと、様々な文学の一節を朗読するシーンや唐十郎率いる状況劇場の舞台などの観念的なシーン、それらが虚実ないまぜ、渾然一体となって進んでいく。

ひと言で言うと「映画は自由だ!」ってことかしら。物語とか、辻褄とか、わかる、わからないとか、そういうところから一切解放されて映像を紡ぐこともこれまた映画なり。わかるかと聞かれると全くわからんのですけど、面白いかと聞かれると間違いなく面白い。この面白さっていうのは、やっぱり作り手の「自由にやってやる」という意気込みがこっちに伝わってくるから。その鼻息が通じたのか、ラストは撮影中に出くわした新宿の本物の乱闘騒ぎの映像が入っており、当時の生々しい空気感が感じられる。

シーンとシーンの間に、時折文字のみの映像が差し込まれるのだが、冒頭は確か「パリ、午後二時」とかそんなんなのね。その中で「ウメ子は犯された」って文字がでかでかと出てくるシーンがあるんだけど、つい吹き出してしまった。犯されたことが可笑しいとか、そういう不謹慎なことではなく、そんなことわざわざ文字にするなよ、見てりゃわかるじゃんってこと。とことん性に対して大真面目に突進していく様子が何だかおかしいのだ。

それにしても、この時代の作品は大島渚だけでなく、女と言うのは、常に「犯される存在」だ。今で言うともちろんレイプということになるのだけど、この時代はやはり「犯される」という言葉が一番ぴったりくる。それは、征服するための行為というよりは、むしろ「聖なるものを穢すことで何かを乗り越える。そのための儀式」に感じられる。

それだけのリスクを冒さなければ、向こう側に行けない。手に入れたいものが見えない。そんな時代の鬱屈感を表現する一つの方法。それが女を犯すという描写ではないかと感じるのだ。このように言葉にすれば、女をコケにしたとんでもない表現方法に感じるかも知れないが、逆の視点で見れば、当時の女という概念はそれだけ聖なるものであり、乗り越えなければならない高みを示していたのかも知れない。

犯し、乗り越えていくためのシンボルとして女性が描かれることは、今やほとんどなくなってしまった。それは果たして、喜ぶべきことなのだろうか、それとも悲しむべきことなのだろうか。横山リエの妖しげな表情を見ながら、ふとそんなことを考えてしまった。

新宿マッド

2008-02-05 | 日本映画(さ行)
★★★★1970年/日本 監督/若松孝二

「新宿の“中"と“外"」


私が映画ファンになったのは、学生時代「大毎地下劇場」という御堂筋に面した小さな地下劇場で、日本やヨーロッパの古い作品をたくさん見たのがきっかけだ。今は子供も小学生になりハリウッド映画も見るけれど、個人的には60年代後半から70年代のATG作品が大好きだ。

モノクロームのATG作品を見て強く感じるのは、私もこの時代の息吹をリアルに感じてみたかった、というストレートな願望だ。この時代をリアルに生きた人が羨ましい。体制への反抗、あふれ出る創作意欲、表現することが生きることと同じ価値を持っていた時代が放つ圧倒的なエネルギー。それを、この自分の肌で感じてみたかった。

本作「新宿マッド」は、新宿で劇団員をしていて殺された男の父親が、息子が殺された理由を知りたいと、九州の田舎町から上京し、新宿をさすらう物語である。前衛的な作品も多いATG作品の中では、この「新宿マッド」は比較的わかりやすい物語だと思う。

息子の父親は田舎で郵便配達夫をしている。地方都市の郵便配達夫というのは、おそらく「自分の意思もなく体制に呑み込まれてしまった人間」の象徴ではないか、という気がする。なぜ、息子は殺されなければならなかったのか、息子の友人を訪ねまわり、新宿の街を徘徊し、新宿の狂気を目の当たりにするに従い、真面目に生きることだけが取り柄のような田舎の中年男の価値観が崩れてゆく。

すぐ誰とでも寝る女、麻薬に溺れ働かない男たち。新宿の人々は、真面目な田舎者の父親を嘲笑する。しかし、彼らが繰り返し叫ぶ観念的な言葉は、最終的には田舎者の父親の生きた言葉の前に屈する。映画の冒頭に出てくる新宿の街で横たわる若者たちの死体、そして新宿マッドなんてカリスマはいない、とする結末を見ても、新宿的なる世界の終焉を見事に切り取った作品と言えるだろう。

しかしながら、目の前で繰り広げられる退廃的でけだるい新宿の街の描写は、私を惹きつけて離さない。およそ、この時代に生きる人々は、新宿の“中にいる者"と“外にいる者"。その二通りしかいなかったのではないかと思わせる。「あいつは、この街を裏切った。新宿を売ってしまったから殺された。」父親が息子の友人から聞き出したこのセリフがそれを物語っているように感じるのだ。

パニック・フライト

2008-02-04 | 外国映画(は行)
★★★☆ 2005年/アメリカ 監督/ウェス・クレイヴン

「悪くないけど、テロの結末自体はありきたり」


ジョディ・フォスターの「フライトプラン」と同じ飛行機サスペンスで、かつ公開時期がかぶるということで、日本公開を見送られた本作。「プルートで朝食を」のキリアン・マーフィが謎めいたテロリストを好演しています。さて原題は「Red Eye」なのに邦題はパニック・フライト。公開を見送ったくせに紛らわしい邦題。これいかに?

しかし、邦題が変というよりも、いっそのことジョディ・フォスター主演の「フライトプラン」とタイトルを交換した方が良いのでは?だって、主人公のリサはちっともパニックなんかになっておりませんもの。むしろ、実に冷静沈着。一方「フライトプラン」のジョディのパニックぶりと言ったら!周囲の人物には八つ当たりするし、機内を走り回るし凄まじかったですからね。

さて、本作ですが大物スターは出ずともコンパクトでスリリングな展開は確かに好感が持てます。ただ、個人的にはテロの結末、犯人確保双方とももう少しひねりが欲しかったというのが正直な感想。父親の家に場面が変わってから、誰が犯人を捕まえるのかすぐに読めてしまいました。また、飛行場を出てから、一転してアクション映画のような展開になりラストに向かって物語はスピードアップしますが、電話で指示してケリつけちゃうって言うのが、なんだかフツー過ぎて…。

ジョディ・フォスターの要望によりアクションシーンを増やしてしまったことで、謎のオチが説明不足となってしまった「フライトプラン」。しかしながら、飛行機の設計士であるジョディが飛行機内のあんなところ、こんなところを縦横無尽に駆けめぐる様子は、結構楽しかった。そこには、驚きと発見がありました。しかし、本作の展開は結構読めちゃう部分が大きく、ラストのホテル内での会話も「ベタやな~」と思ってしまいました。機内の隣り合わせの様子はとてもスリルがあったのですが、そこで二転三転するくらいの物語の起伏が欲しかった。私としてはもうひとひねり足りん、といったところです。

グアンタナモ、僕達が見た真実

2008-02-03 | 外国映画(か行)
★★★★☆ 2006年/イギリス 監督/マイケル・ウィンターボトム 、マット・ホワイトクロス
<イギリス在住のパキスタンの青年たちが、テロリストの容疑者として2年以上もの間、無実の罪でグアンタナモ米軍基地に拘束された事件を基に作られた真実の物語>

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「世界の矛盾と折れない心」


見終わって打ちのめされました。事件そのものにもですが、この作品が提示する問題について、私自身が語る言葉を何も持っていない。そのことに何より打ちのめされました。無知は恥ずべきことでしょうか。YES。この作品を見て、「知ろうとしないこと」と「知らされていないこと」は、ほぼ同義なのではないかとさえ感じるのです。

友人の結婚式に出るため母国に帰ってきたのにテロリストとして拘束され、遙か遠くのキューバのグアンタナモに収監、非人道的な取り調べや尋問を受ける3人。戦場シーンはイラクで撮影され、収容所は本物そっくりのセットを設営したということですが、その徹底的なリアリズムの追求が見事に作品の緊迫感に結びついています。

尋問のシーンなど本物ではないかと錯覚してしまうほどリアルです。適当なテレビ映像を持ってきて「ほら、ここにおまえが映っているだろ!」と強要し、証拠をねつ造しようとするシーンは、怒りよりもやり切れなさが先立ちます。こんなにも無駄なことにアメリカは人も金もつぎ込んでいるのか、と。

しかしながら、この理不尽な環境下においてなお、拘留された3人が「俺は何もしていない!」と前向きに自己を保ち続けるエネルギーにも心打たれます。本作が、グアンタナモの在り方を問うだけなく、「折れない心」をしっかりと描き出していることが、作品としての大きなパワーになっている。これは実に大切なことだと感じるのです。

つまり、世の中には不条理なことはたくさんあって、それを描き出す映画ももちろん多いですが、見終わってむなしさだけが残るのではなく、生きようとする力の強さ、前向きに己を保ち続ける意義を同時に見せるというのは、なかなか困難なことだと思うからです。

私はこの作品を見た後で「グアンタナモ」について調べました。なぜキューバに米軍の基地があるのか、なぜ半永久的に拘束するというような理不尽なことが可能なのか、米軍はここで何をしているのか。どうか、みなさんもこの作品を通じてグアンタナモとは何のシンボルなのか、自分なりの答を見つけて欲しい。

そして誰しもこの3人のような境遇に陥ってしまう可能性はある。だから月並みな言い方ですが、ひとりでも多くの人に見て欲しい。それがこの作品を語るにもっともふさわしい言葉。いや、無知なる私が胸張って言える唯一の言葉なのです。

コード・アンノウン

2008-02-02 | 外国映画(か行)
★★★★★ 2000年/フランス・ドイツ・ルーマニア 監督/ミヒャエル・ハネケ

「断片で語る力。ハネケのウルトラC」


まず見終わって、ため息。これはすごい。こういうやり方もあるんだ、と見せ方の斬新さに驚くばかり。物語が時間通りに進行するというごく当たり前の作り方ををぶっ壊すような作品って、最近よくありますね。時間が逆行するとか、複数の話を同時進行させるとか。でもこの「コード・アンノウン」という作品のような作りは、今まで見たことない。

本作は、ほんの5分~10分程度の短いエピソードが次々と展開される。ジュリエット・ビノシュがぼんやりとテレビを見ながら延々とアイロンをかけるといった一見して全く意味の見いだせない短いシーンがあったかと思うと、これだけで1本のショート・フィルムになりうるような完成度を保つシーンもある。そしてラストまで個々のエピソードがどう繋がるのかという観客の好奇心も掴んで話さない。

短いエピソードの中には、ほんの小さな断片が見え隠れしている。その小さな断片で奥に隠れている問題、それも一つや二つではなく幾重にも重なった問題を顕わにする。その断片が登場人物のちょっとした仕草だったり、一見物語とは関係のないようなセリフだったり、画面の隅にぼんやり立っている人だったりするもんだから、いちいち「そういうことか!」と膝を叩きたくなるような面白さがある。何か表現したいものがある時に、水面に一滴のしずくをたらせばそれで良い。そんな感じ。

なので、小難しい作品は嫌、という方にも映画表現の可能性として、こういう方法もあるんだとぜひ知って欲しい。そう思わせるだけの力を持っている作品。この作品の中で語られているテーマで5、6本は映画が作れる。人種差別、戦争、地域格差、児童虐待…。社会が抱える問題がてんこ盛りです。なのに、それらの出来事は物語として語られるのではなく、断片で語られるのです。その分、観客の想像も刺激される。こんな離れ技ができるのは、ハネケしかいない。

ハチミツとクローバー

2008-02-01 | 日本映画(は行)
★★★★☆ 2006年/日本 監督/高田雅博

「舞台あらし、蒼井優」



蒼井優、恐るべしですねえ。「はぐ」としての雰囲気はもちろんですが、あのしゃべり方には度肝を抜かれました。あれは監督による演出なのか、それとも自ら編み出したものなのか。本作の蒼井優を見て、私は「ガラスの仮面」の「舞台あらし」というエピソードを思い出しました。端役でありながらも観客がみんな北島マヤを見てしまうため、座長に「あんたはもう来なくていい」と言われてしまう。「アンタは舞台あらしだよ!」と言わしめてしまう北島マヤの天性。蒼井優も天性の女優ですね。

彼女はまさに「はぐ」としてそこに存在している。個性派と言われる加瀬亮でさえ、本作においては別の俳優がやっても同じじゃなかったのか、と思わせるほど際だっている。つまり他の俳優を「食ってしまう」んです。ですから、本作のような群像劇の場合、ひとりだけ存在感が際だっていることは本来あってはならない。しかし、彼女の放つ魅力はそんな屁理屈をねじ伏せてしまうほど圧倒的。あの儚げな外見に一体どれほどの表現力が潜んでいるのかと本当に驚かされる。

さて、そんな蒼井優に並んで伊勢谷友介が今まで見てきたどの作品よりも光った演技を見せる。そりゃ、東京芸術大学美術学部大学院卒業で、アーティストとしても活動しているだもん。言っちゃあ、そのままの自分ってこと。意地悪く言えば演技じゃないってことだけど、「はぐ」がまさに「はぐ」として存在しているわけで、そのままのアーティスト伊勢谷友介が隣にいてもちっとも違和感ないわけ。まあ、イイ男ぶりがグンと上がりましたね、伊勢谷クン。

上っ面で歯が浮くような物語なんて聞いていたのですけど、いえいえ、なかなか芸大生の悲喜こもごもが丁寧に描写されていて、原作を読んでいなくとも楽しめました。まあ、蒼井優の演技に引っ張られた部分が大きいのですが。

最後に。エンディングがスピッツに続けて、嵐の曲。出演タレントの曲を使わないと出してやんないというジャニーズのごりよしには辟易する。こんなことを続けていたら、事務所のタレントはいつまでもたっても映画俳優として認められない、ということにいいかげん気づくべきじゃないだろうか。