Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

追悼のざわめき

2008-09-30 | 日本映画(た行)
★★★★★ 1988年/日本 監督/松井良彦
「私たちは同じ世界に生きている」




女を殺し生殖器を切り取る殺人犯、彼を愛する小人の女とその兄、幼い妹を愛する青年、女性性器に似た切り株をひきずる乞食、公園で物乞いをする傷痍軍人。異形なものたちによる孤独と狂気をまとった行進。もっと散文的な作品かと思ったが違った。地を這うように生きる社会のはみ出し者たちの情念が廃ビルの屋上に捧げられた一体のマネキン人形に向けて引き寄せられ、全てが破滅してゆく物語。泥臭く、血なまぐさいストーリィ。吐き気を催すようなリアルで汚らしいカットが続く。そこに、ふと静謐なムードを感じる方もいるようだが、私は違った。私が強く感じたこと。それは、私たちと彼らは同じ世界に生きている、ということ。

彼らは今、どこにいるのだろう。空き地や山がどんどん整備され、区画整備された土地で同じ顔の家々が並び、人々の生活はどんどん清潔になっていく。醜いものや汚いものが、どんどん「初めからないようなもの」と見なされてゆく。いや、彼らは今でもいるのに、彼らの息づかいすら感じられぬ遠いところに私が来てしまったのだろうか。

道徳や常識を飛び越えて、作り手の熱情がびしびしと伝わる作品が好き。そういう作品を目の当たりにした時の私の気持ちはまさに「受けて立つ」。これは、久しぶりに受けて立つと言う気持ちにさせられた。そして、果たして、もしこれがカラー作品なら私は最後まで見られただろうかとも思うのだ。グロテスクで汚らしい描写が続く中、もし、この作品の中に“美”を発見することができたのなら、それはまさしくモノクロームの力ではないか。兄に犯された妹の体から溢れ出る止めどない鮮血も、行く先を失った難破船を呑み込む海に見える。モノクロームの力強さをひしひしと感じた。

パンズ・ラビリンス

2008-09-29 | 外国映画(は行)
★★★★☆ 2006年/メキシコ・スペイン・アメリカ 監督/ギレルモ・デル・トロ
「これこそ、ダーク・ファンタジーの名にふさわしい」



ハリー・ポッターやダレン・シャンなど、昨今ダークファンタジーと呼ばれるものが多いが、本作は子供向けではない、と言うことを差し引いても、結末のあまりの残酷さに、これぞ真の「ダーク・ファンタジー」だと感動した。オフェリアが夢見たラビリンスの女王が母親であったのを見るに、全ては恐怖の海に漂う娘が描いた幻想、いや幻想というオブラートに包んだ言葉などではなく、幻覚だったのではないかと思わせるエンディング。年端も行かぬ少女を恐怖のどん底まで叩きのめし、狂わせてしまう。なんと、恐ろしい作品か。

パン(牧神)とは、西洋の神話によく出てくる神らしいが、彼が何のシンボルでどのような役割を果たしているのか、私は知らない。この作品を通じて見るパンは、その容貌も醜く、王女を座に導くものとしては、あまりに居丈高である。全くもって好ましくない。もし、これが少女の幻想ならば、その世界はもっと美しく雅で、心の逃げ場として描かれるであろう。しかし、パンは一方的に彼女を脅かす存在であり、過酷な試練を乗り越えねばならないという展開が、まさしく幻覚ではないかと思わせるのだ。

何度も流産しそうになるオフェリアの母の血を始め、そこかしこで血を流す人々。オフェリアが直面する現実世界の描写もすさまじい。目を背けたくなる暴力シーンの中に人間のエゴイズムと戦争の狂気が宿る。現実も悪夢、そしてラビリンスを目指す道も悪夢。しかし、スクリーンから全く目が離せない。悪夢だからこそ発せられる、蠱惑の世界。毒だとわかっていても、その鮮やかな色合いについ人々が手を伸ばしてしまう毒キノコのように。

中国の植物学者の娘たち

2008-09-28 | 外国映画(た行)
★★★☆ 2005年/カナダ・フランス 監督/ダイ・シージエ
「映像の美しさは必見」





孤独な魂がたとえようもなく美しいものに出会えば、おのずとそれを愛するようになるもの。これ、必然なり。ふたりが愛し合っていることに微塵の疑いもないが、発端は孤児として簡素な生活を送っていたミンが、初めて圧倒的な美を目の前にし、ひざまづきたい衝動にかられたことではないだろうか。それほど、蒸した薬草の上でまどろむアンの裸体は美しかった。それゆえ、あの薬草が幻覚を引き起こすという話は、余計なものとすら感じられたのだが。

ダイ・シージエ監督は中国で生まれ、フランスで映画を勉強したとのこと。だからだろうか、観客が期待するアジアン・エキゾチックなムード作りがあまりにツボを得ていて、どのシーンもため息が出るほど美しい。中国人監督ゆえ、その描写は誇大表現ではないのだろうと、安心してこの世界に入り込むことができた。ハリウッドがさんざん犯してきたジャパニーズ・エキゾチズムの間違いを、誰か日本人監督が正してくれないものだろうかと思わされる。「さくらん」じゃダメなんだよ。

アンの虜となったミンの心の移り変わりをもっと感じたかった。ふたりの間に肉体関係はあるが、それもまた孤独なもの同士が体を温め合っていることの延長線上の行為のように思える。ならば、ふたりの結びつきは肉欲ではなく魂。しかしラスト、悲劇に向かいながらもふたりの様子のあまりにもさばさばとしたあっけなさが物足りない。あくまでも清らかな心根にこだわりたいのはわかるが、ふたりの純粋な愛を前にして感極まって涙あふれる、そんな感情も残念ながら湧いてこないのだ。しかし、この映像美は必見。ふたりの愛の形よりも、ふたりの愛を彩る植物園に心奪われた。

僕のピアノコンチェルト

2008-09-27 | 外国映画(は行)
★★★★☆ 2006年/スイス 監督/フレディ・M・ムーラー
「どんな人にもお勧めできる秀作」



こんなに良心的な佳作に出会ったのは久しぶりな気がします。視点が実に客観的。全くべったりしていないのです。それがとても見ていて心地いい。子育ての佳作でちょっと突き放した見せ方、韓国映画の「マラソン」を思い浮かべました。

わざと転落して事故に見せかけるその後の展開がとてもユーモラスで軽やかなのがいいのです。苦悩の末の決断と言う重苦しさはほとんどなく、まるで親を困らせたいためのイタズラのようにすら感じられます。本当は事態は深刻なんですけどね。おじいちゃんちの山小屋で伸び伸びと過ごすヴィトス。でも持って生まれた才能を封じ込めておくのもいかがなものか?と言う思いが頭をよぎります。また「普通で元気な子ども」と言われて、肩を落とす母親。このシーンも同じ。親の存在、子育ての在り方を観客に問うています。しかし、そのどれもがさりげないやり方なのがいいのです。

ずば抜けたIQを利用して株式市場で一攫千金。確かに、現実離れした展開かもしれません。でも、いいじゃないですか、これくらいのファンタジー。あまりにヴィトスとおじいちゃんが楽しそうなので、見ているこちらもウキウキさせられました。ヴィトスを演じたテオ・ゲオルギューくん。9歳にして天才ピアニストと言わしめた実力とのこと。いわば、本物が演じているわけですから、説得力があります。そして、ブルーノ・ガンツがいいですね。大金が転がり込んでも、雨漏りは自分で直す。男はそうですとも。「決心がつかなければ、大事な物を手放してみることだ」いいセリフです。ピアノと飛行機という意外性のある対比も素敵です。見終わって、本当に温かい気持ちになりました。じわーんと来ますよ、大プッシュします。



ファンタスティック・フォー:銀河の危機

2008-09-26 | 外国映画(は行)
★★★ 2007年/アメリカ 監督/ティム・ストーリー
「この次も一緒なら、見ない」



「おかあさん、ヒマやわぁ」と子どもがごねた時に格好の1品。何も考えなくていい!結構笑える!そして、サクッっと終わる!と三拍子揃った作品。

原作では有名、人気のあるキャラと言うシルバーサーファー。んなこと、全く知らない人間にとっては、宇宙からやってきた生命体が、なんで、サーファーやねん!?アメリカ人のセンスは、わからん…と首を傾げるばかり。しかも、エネルギー源はサーフボードにあるから、切り離せばいいのだ!だってさあ。このぶっ飛んだアイデアがいかにもアメコミって感じ。互いのスーパーパワーが入れ替わるって現象もよく考えるとなんか変。

リードは天才科学者と言う設定なのに、ちゃんと科学的な検証をしているようで全然してない!これが、かなり笑える。ご都合主義的展開と言うよりも、まじでこれは中学生が本を書いているのでは?というヌケっぷりですが、大人だから笑って許してあげる。しかし、パート3がもし出たら、借りるかと言うと微妙。ジェシカ・アルバ頼みではない、別の大きな吸引力が必要じゃないかな。物語性にそれを求めるのは本シリーズでは無理そうなので、新しいメンバーが入るなど、根本的なところで物語を揺り動かさないと、毎回敵が違うだけじゃ、もうたぶん見ないなあ。最近の小学生も目が肥えてますからね。そう毎回食い付いてはくれませんよ。


明日へのチケット

2008-09-25 | 外国映画(あ行)
★★★★☆2005年/イタリア・イギリス 監督/エルマンノ・オルミ、アッバス・キアロスタミ、ケン・ローチ
「甲乙つけがたいオムニバス」


有名監督による3部作ですが、どれも甲乙つけがたいほどいいですね。もう随分昔の話ですがユーレイルパスでヨーロッパを列車で旅すること、3回。「パリ、ジュテーム」に引き続き「ヨーロッパ行きたい病」に胸を掻きむしられる思いです。それにほとんど列車内の映像なのですが、あの揺れまくる列車の中で一体どうやって撮影したのだろうと驚くばかりです。通路は狭いし、機材の持ち込みも大変だったでしょう。また、あれだけ窓があれば、撮影スタッフは映り込みそうなものです。これは編集段階で処理するようなことがあったのでしょうか。いずれにしろ、その撮影の苦労を微塵も感じさせないような、軽やかで爽やかな作品に仕上がっているのが本当に素晴らしいと思います。

エルマンノ・オルミ監督による第一話
女性秘書に思いを馳せる老教授の食堂車でのほんのひと時のお話。ただ、彼女を思い出してあれこれ想像を膨らませるというだけですが、なんとまあ豊穣な世界が広がっていること。私はこの作品が一番好き。初恋の思い出も交えながら、回想と妄想が交錯する様が絶妙です。別れの後、揺れる列車内で、あれやこれやと思いを巡らせる経験は誰にでもあるはず。老人の妄想は控え目でありながら、彼女に触れられたいという欲望もちらりと覗かせます。そして、ヴァレリア・ブルーニ・テデスキの何と麗しい表情。彼女の作品は結構観ているのですが、実に印象的な佇まいで魅了されました。

アッバス・キアロスタミ監督による第二話
窓に映り込む景色がとても美しいのです。青年兵士がうつろな表情で窓外を見やる。その背景に流れゆく木々の緑。老婦人に翻弄される彼の心情の揺れと見事にオーバーラップしていきます。この老婦人と青年は一体どういう関係なのかを推察したり、携帯を取られたと喧嘩になったその行く末にハラハラしたり、他の2作に比べて様々な不安が呼び起こされます。しかし、この車内の一角という限られたシチュエーションで、気持ちのすれ違いが起こす人情の機微を鮮やかに切り取っています。実に味わい深い作品。

ケン・ローチ監督による第三話
切符がない。よくあることです。そこから、まさかこんな心温まる物語に集結するとは思いもしませんでした。切符は盗まれたのだと主張する赤毛の青年の何と腹立たしいこと(笑)。そんな彼が勇気を出せたのは、難民たちが同じ車両の乗客だったからと考えるのは言い過ぎでしょうか。同じ空間の中で、同じ方向に向かって、同じ揺れを感じて旅をすることで生まれる連帯感。しかし、列車を降りれば、もうその繋がりは消えてなくなる。その刹那的な出会いに列車の旅の醍醐味が詰まっています。セルティックの応援歌は、そのまま旅ってすばらしいと言う賛歌に聞こえた、実に鮮やかなエンディングでした。

ビデオドローム

2008-09-24 | 外国映画(は行)
★★★★☆ 1983年/カナダ 監督/デビッド・クローネンバーグ
「モラルを吹っ飛ばす気味悪さの面白さ」



殺人フィルム、幻覚、マインドコントロールと、飛び道具てんこ盛りのカルトムービー。ビデオばっかり見てたら、現実と幻覚が曖昧になってしまうというモチーフは、今見ても十分にリアリティがあって面白い。例えば、リングのビデオは、ビデオに貞子の怨念が焼き付いていてそれを見ることで体内にウィルスのようなものが発生して、最終的には心臓麻痺を起こさせるって言うロジックがあったけど、これはそういう理屈は全然ない。今こういう映画を作ろうとすると、現象についてもっと理論や理屈をこねくりつけるでしょうね。

でも、お腹がいきなり裂けたり、画面から唇がびよよ~んと飛び出したり。こういうグロい描写が面白くて「なんじゃ、こりゃ~」とのけぞりながらすっかりクローネンバーグのやりたい放題に乗せられてしまう。スナッフフィルムが題材だから、ほんとは楽しんじゃいけないとか、私の中の小さなモラルが叫んだりするんだけど、抗えない。手と拳銃が一体化する描写なんて、気持ち悪いことこの上ないけど、このメカ+グロの映像のオリジナリティはすごい。

生命体としての命は途絶えても、ビデオの世界で永遠の命が与えられる。ビデオをのぞき込んでいた人間がビデオに出演する側に廻り、と延々と続くビデオドロームの世界は、まるで、合わせ鏡の連続空間のよう。こちらの世界とあちらの世界がだんだん曖昧となってくる様子を見ているに、観客もビデオドロームに毒された気分になってしまう。鑑賞後このままベッドに入ったら、悪夢を見そうな余韻が残る怪作。

サラエボの花

2008-09-23 | 外国映画(さ行)
★★★★ 2006年/ボスニア・ヘルツェゴビナ 監督/ヤスミラ・ジュバニッチ
「不器用な母と娘の踏み出した一歩」




母エスマの背負った過去はあまりにもつらいから、彼女は自分の感情に蓋をすることが習慣になっている。そんな何かを隠しているような佇まいが娘を不安にさせる。身も心もずたずたにされた過去の傷をさらけ出さないと、親子としてわかりあえない。その事実が胸を撃つ。しかし、この作品は彼らが戦争のせいで不幸だと言う、短絡的な伝え方は決してしていない。血を分け合った親子だからこそ、互いの傷を分かち合い、理解し合えるのだと伝える。戦争がもたらした悲惨な境遇。放っておけばどんどん不幸と言う名のレールを走ってしまいかねない列車。そのレールの行く先が変わる瞬間を見事に描き出している。

娘の修学旅行のお金を納めるまでの、ほんの1週間ほどの期間の中で、母娘の絆はもちろん、戦争の傷跡、同じ境遇を乗り越えてきた仲間たちの思いやり、再び人を愛せるかも知れないという希望など、多様なメッセージが盛り込まれているのがすばらしい。女性的な視点に偏りすぎでは、と言う意見も見受けられるけれども、若い女性監督のデビュー作と言う点からすれば、むしろこれだけ生々しさを排除して、市井の人々の慎ましやかな暮らしと戦争の裏に隠された思いをじっくりと引き出していることは、凄いことだと素直に思う。

父の呪縛を振り払った娘がバスの中で同級生と共に歌い始めるラストシーンに温かい気持ちがこみ上げる。しかし一方、全てを話してしまったエスマを見るに、彼女はまたもう一つ重い十字架を背負ったような気もしてしまうのだ。不安と安堵の入り交じった表情で去りゆくバスに手を振るエスマ。母と娘の間に横たわる溝が埋まっても、彼らが手と手を取り合って乗り越えねばならない苦難は、きっとまだまだ続くのだと気づかされ、何とも言えない感傷的な気持ちになった。

エスマと言う女性が抱えるバックボーンは確かに特殊なんだけれども、自分の気持ちを素直に伝えることがとても不器用な母娘の物語としても十分に堪能できる作品だと思う。特に思春期の子供を持つ親なら、なおさら。鑑賞後に自分と子供の関係を見つめ直したくなる、そんな味わい深い逸品だと思う。

アキレスと亀

2008-09-22 | 日本映画(あ行)
★★★★☆ 2008年/日本 監督/北野武
<TOHOシネマズ二条にて鑑賞>
「自虐の三部作、最終章。そして出発」


てっきりみなみ会館での上映だと思ってたら、驚きのTOHO系シネコン上映でした。本作は、途切れることなく絵画が出てきますので、大きなスクリーンで鮮やかな色彩を堪能できて、これはこれで良かったです。日曜日の昼間の鑑賞でしたが、(私の)予想以上にお客さんは入っていました。6割程度でしょうか。これまた、驚き。これは、樋口可南子効果なのでしょうか。よくわかりません。

「好きではないけど、自分にしかできないものなら全うすべき」という仕事論にいたく感動した「デトロイト・メタル・シティ」と対極の作品。こちらは「好きなことなら、何が何でも続けるべき」という主張です。これはこれで、とても感動しました。敢えて言うなら「絵を描くのが好き」ではなく「絵を描くことしかできない」男の物語。

主人公、真知須の周りでは、ばったばったと人が死んでいきます。まるで、疫病神のようです。その中には、その人の死が明らかにトラウマになるようなものも多数あるのですが、真知須は絵を書くことを止めません。 それらの死が彼にどんな影響を与え、また、その死を彼がどう受け止め、乗り越えていくのかに物語をクローズアップさせれば、これはもっともっと感動的なストーリィに仕上げられることは、間違いありません。しかし、ご存じのように北野武は、そのような感傷的に物語を進行させることは一切しません。実に飄々と何事もなかったかのように、ただただひたすらに真知須は絵を描き続けるのです。

さて、「TAKESHI’S」「監督、ばんざい!」と三部作だと考えるのならば、真知須はやはり「好きな映画を撮り続ける北野監督自身」だと言えるでしょう。そうすると、親子二代に渡って彼の絵をけちょんけちょんにけなしたり、あれこれ文句を言っては売り飛ばしてこっそり儲けている悪徳画商の存在は、さしずめ映画プロデューサーになるのでしょうか。大森南朋が嫌味な男を演じていますが、バッチリはまってます。 基礎を勉強しろだの、流行を知らないだの、言いたい放題です。映画の勉強をせずにいきなり監督デビューした北野監督に浴びせられたこれまでの罵詈雑言を彼に言わせているのかとこれまたオーバーラップします。

映画の中盤では、真知須が仕事を抜け出しては仲間たちとアート活動に興じるのですが、ここがとても楽しいんですね。スクリーンには常に鮮やかな色彩が踊っていますし、若いからこそできる無茶ばっかりやって、アートとは何ぞや!と青臭く息巻いている様子が観ていて微笑ましい。この、中盤の高揚感こそ、北野マニアではなく、一般的な観客からもこの映画が支持される(とするならば)ポイントではないかと私は思いました。

本作では、それまでの多数の死も含め、人々の目を楽しませ、心豊かにさせるという芸術が持つ良い側面は、一切描かれません。真知須の志す芸術はただ周りを不幸にし、己に何の見返りももたらさない。真知須自身絵を書くことで、心が満たされているかというと全くそんなことはない。最終的には狂気をまとい、遺影の中に収まる自分をアートに見立てて、死と隣り合わせの時を過ごす。それでも、描かずにはいられない。そんな心境を北野監督は、「ようやくアキレスは亀に追いついたのだ」と自ら終結させた。これにて、いったん己を見つめる作業は終了、ということになるのでしょう。次回作は何になるのか楽しみです。

カフカの城

2008-09-21 | 外国映画(か行)
★★★★ 1997年/オーストリア 監督/ミヒャエル・ハネケ
「私にはコメディでした」




私の感性が変なのでしょうか。可笑しくて可笑しくてしょうがありませんでした。笑いのツボとなったのは、「ふたりの助手」であります。まず、その登場シーン。「君たちはそっくりだね」って、画面が切り替わると全く似ていないふたり。女と寝て、ふと見やると一部始終を見ていたであろうニヤつくふたり。帰れと言われても、どんどんとドアを叩き続けるふたり。どこにでも現れる神出鬼没ぶりが可笑しくてたまりません。

書類を探すシーン。戸棚には書類の山。探せば探すほど山が崩れてきて、挙げ句の果てには、戸棚から書類がドサーンと落ちる。ほら、これじゃ見つからないよねって、どこかで見たことあるようなベタなギャグシーン。一時が万事、K氏が猛吹雪の中を歩くシーンから始まるショートコントの連作のようなのです。

私にとって不条理とは、解決不能な苦悩ではなく、笑い飛ばしてやるシロモノと言うことでしょうか。なんて、自己分析。

「城」が何を意味するのかと言うことに明確な答などなく、もがいても辿り着けない物としての対象物は、観賞する人によっていろいろ想像できるのではないでしょうか。ゆえに、「城」を何と捉えるかは、観賞者の現在の心境を如実に反映する物語のような気がします。私の場合、「城」など実在しておらず、よそ者を困らせてやりたい村人たちの意地悪、なんてことも考えたりするわけです。何せ、わたくし都会からのIターン人間ですから。あの助手ふたりは、精神的に追い込まれたK氏が生み出した想像の産物かな、と思ったりもします。怒りの矛先を自分に向けると心が参ってしまうので、その対象物を架空の人物として創り上げたのでは、なんてね。

エンディングがどのようなものかは、何となく知っていたので、ハネケ作品でも後回しにして見てしまいました。さて、みなさんは「城」は何だとお感じになったのでしょうか。

クラッシュ

2008-09-20 | 外国映画(か行)
★★★★☆ 1996年/カナダ 監督/デビッド・クローネンバーグ
「ガチンコ変態映画」



1人で映画館に行くのは何とも思いませんが、これは初めて1人なのが恥ずかしいと思った作品。どんなセックスシーンが出てこようと受けて立つ私ですが、ここまで真の変態道を見せつけられると、たじろぎ、まごつくばかりです。

変態映画は面白いです。その変態っぷりに人間臭さやおかしみ、悲哀が感じられますから。フェチと言ってすぐに思い浮かべるのはブニュエルの「小間使いの日記」の靴フェチです。靴にほおずりする中年男は、私も理解できます。恐らくSMに根ざした変態道は、それらに足を踏み入れたことのない人間でも、ある程度の想像は付くのだろうと思います。なぜなら、SM的人間関係というのは、私たちの日常にも潜んでいますから、そこからイメージを広げればいい。しかし、「交通事故フェチ」となると話は別です。

死ぬかも知れないほどの事故の衝撃が性的興奮をもたらす。死と性は隣り合わせですから、それはまあ、理解の範疇です。しかし、事故シーンのビデオをみんなで見て興奮したり、事故現場で舐め回すように被害者の血みどろの顔をビデオで回したり、車のへこみを手でなぞり悦にいる様子は、人間的なものを超越しています。また、クローネンバーグらしい映像美は氷の世界。あまりの冷たさに火傷するような感じ。次から次へと相手を変えて倒錯したセックスにふけるけど、誰も汗をかかない。湿度がないんですよ。濡れてない。また、夫婦が寝室でセックスするシーンが何度か出てきますが、スクリーンの半分、二人の下半身をわざと暗くして映している。これが凄くエロティックなんですよね。これでもかと変態道を堂々と見せきるカメラの力強さにもう目が釘付け。

ジェームズ・スペイダーは面白い俳優。「セックスと嘘とビデオテープ」から7年後の作品ですが、気味悪さは健在。本当は主人公ジェームスが事故フェチの世界に嵌り込んでいくその心情、脚本としては明確に書かれていません。気づいたらずるずるとカリスマ、ヴォーンの相方になっている印象です。ヴォーンの片棒を担いでいる最中も、これと言って事故フェチの世界で何が何でも快感を得たいという意思も見せることはありません。ところが、ラストシーン。妻の車をクラッシュさせた後、「この次はきっと…」という意味深なセリフにはっとします。ジェームスが自分の強い意思を示す最初で最後のセリフではないでしょうか。

「この次はきっと…」一体何でしょう?君を怪我させてあげる?もっとすごい快楽を与えてあげる?それとも殺してあげる?このラストのセリフを考えていると、ジェームスとキャサリンと言う夫婦の関係性を一から検証してみたくなります。冒頭、キャサリンが飛行場で見知らぬ男とセックスするシーンから始まることから、この夫婦は浮気公認であることがわかります。むしろ、第三者を介入させることで性的興奮を得ている。しかし、このセリフから察するにジェームスは、誰の力も借りずに自分とキャサリン、ふたりきりの関係において彼女に快楽を与えてあげられる存在になりたかったのではないか?もしかしたら、キャサリンは不感症だったんだろうか。それを示唆させるセリフは冒頭のやりとりにも感じられます。そうすると、これは妻に究極のエクスタシーを与えようとした男の愛の物語なんでしょうか。事故後に交わる彼らをだんだんカメラが引いていく。その映像は、映画館で感じたバツの悪さと共に何年経っても頭から離れません。


始皇帝暗殺

2008-09-19 | 外国映画(さ行)
★★★★☆ 1998年/日・中・仏・米 監督/チェン・カイコー
「様式美を凌ぐ人間ドラマ」



始皇帝の物語は、日本で言うとさしずめ忠臣蔵のようなものでしょうか。いろんな解釈を加えたりして、様々なスタイルで映像化されている歴史物語なんでしょう。すぐに思いつくのは、チャン・イーモウの「HERO」なんですが、あちらはとことん様式美に徹した作品。特に独創的なアクションシーンが鮮烈な印象を残します。これはこれで、徹底的に映像を楽しむ、ということで面白い作品です。対して、チェン・カイコーは、すさまじい予算とエキストラを動員してこれまた圧倒的な様式美を生み出していますが、それ以上に人間ドラマとしての面白さが圧巻です。数十億円かけて作った宮殿のセットにひけを取りません。

始皇帝と言いますと血も涙もない鉄のような男を思い浮かべますが、本作の始皇帝は駄々をこねたり、喜んで飛び跳ねたり、実に人間味あふれる様が描かれています。「さらば、わが愛」同様、血の通ったキャラクターを描き出すのがチェン・カイコーは実に巧い。また、セリフの中には格言や隠喩が数多く盛り込まれ、それぞれの人物の思慮深さ、品格が見事に表現されています。とりわけ感動するのは、いわゆる大陸的な物の捉え方、鷹揚さの部分です。目の前の出来事に対処するのではなく、ずっと先を見越して行動する。「人間ひとりでできることなどちっぽけなもの」と言う諦観と、「人間ひとりの考えや行動で国をも動かせる」と言う強い意志、その対極的な物事の捉え方を同時に併せ持っている。なんとも、懐の深い人物ばかりです。

一番の見どころは、趙姫と始皇帝の駆け引きでしょう。こういうシーンを見ていると、そりゃ中国との外交は難しいよな、なんて妙にしんみりしてしまいます。相手の裏をかくということが全ての大前提になっていますから。趙姫を演じるコン・リーが本当に美しい。お飾り美人ではなく、強い意志を秘めた凛々しさが際だっています。ただ、最新作「王妃の紋章」(未見ですが)でも、女帝のような役をしていたと思います。どうも、彼女未だにこの手の役が多いのは、いかがなものか。「ハンニバル・ライジング」はレディ・ムラサキだし。たまには、等身大の年相応の役もやって欲しいなあと思います。


パビリオン山椒魚

2008-09-18 | 日本映画(は行)
★★☆ 2006年/日本 監督/冨永昌敬
「ここまでつまらないのも、ある意味すごいのか」



あんまりつまらなくてビックリしました。オダギリくんと香椎由宇の馴れ初め映画ということで、しょーがねーなあ、やっぱ見なきゃダメかぁ~と自問自答しつつ観賞。ここまでつまらないと、この2人の行く末すら心配になってきました。

これは、鈴木清順を今っぽくアレンジした感じでしょうか。テイストとしては決して嫌いじゃないです。ただ、どうにもこうにもノリが中途半端です。はっとさせる映像美があるわけでもなし、内輪ノリでとことん盛り上がっているわけでもなし。また、光石研や麻生祐未など妙にこなれた俳優陣ばかり配しているのが、完全に裏目に出てしまった気がします。高田純次も悪くないですが、やはり狙いすぎのキャスティングでさぶい。何が悲しいって「ハイ、ドーンッ!」のオダジョーの空回りっぷりです。あなたがテンション高い役をするのは、とても無理があります。もう、日本の小品はいったん休憩して、どんどん海外作品に出てください。

だいたい評判を漏れ聞いていたので、こんなものかなとは思っていました。むしろ、残念だったのが音楽面。ジャズミュージシャン、菊地成孔の音楽は結構好きなものですから、期待していました。恐らくこれ、サントラだけ聞いたらなかなかにCOOLな感じじゃないかと思います。が、いかんせん作品と合わせると、1+1=3になるどころか、0になってる。ちょっと音楽が頭良すぎますね。もっと、グルーブ感出して映画を引っ張るくらいでも良かった。BGMとしての映画音楽にこだわりすぎたんでしょうか。つまんないのに、スカした音楽かけてんじゃねーよ、なんて気持ちになったりして。菊地さん、すいません。映画音楽は難しいですね。

オール・アバウト・マイ・マザー

2008-09-17 | 外国映画(あ行)
★★★★★ 1999年/スペイン 監督/ペドロ・アルモドバル
「地球上に存在する愛の見本市」



子から親への愛、親から子への愛、男と女の愛、女同士の愛、男同士の愛…エトセトラ、エトセトラ。そして最終的には「人間愛」までを豊かに描き出す傑作。とにかく、この地球上のありとあらゆる「愛のバリエーション」がこの作品で提示されているのではないでしょうか。そのバリエーションを生み出しているのは、「性」を超えた関係性。これぞ、アルモドバルにしか描けない境地だと思います。ガタイの大きなスペイン人男性が巨乳となって闊歩するようなシーンに惑わされてしまいますが、そういうキワモノ表現の裏に深いメッセージを隠す。このバランスキープ力というのが、アルモドバル監督の凄さでしょう。

一方、本作には「映画内ビデオ」「映画内映画」「映画内舞台」などの劇中劇が多数盛り込まれています。そして、エンドクレジットには、名女優たちに捧ぐのメッセージ。そこには、「演じる女」に対するアルモドバル監督の深い愛が見て取れます。女とは我が人生を演じる生き物。幾多の苦難も演じることで乗り越えてゆく、女性の強靱さとしなやかさを見事に描いています。驚くべきは、作中描かれている映画や舞台がそもそも持ち合わせているモチーフを本来のストーリーと見事にリンクさせていることです。息子を失ったマヌエラが、「欲望という名の電車」におけるステラを演じることで悲しみを乗り越えていくというように。

ですから、構造的には意外と複雑な作品と言えるでしょう。冒頭、臓器コーディネーターのマヌエラが、広報用のビデオに仮想のドナー家族として演技をするくだりがありますが、これも後になってマヌエラの実生活と見事にリンクしていくわけですが、きちんと消化しないとやけにモヤモヤの残るシーンになってしまいます。ゆえに、初見ではこの作品の深みを堪能するのは無理なような気もします。正直、私も初めて観た時は、どぎついシーンの印象が強すぎて、息子を失ったマヌエラの再生物語という軸の部分についていくのが精一杯でした。

とにかく、噛めば噛むほど味の出ると言いましょうか、見る度に新しい発見と感動をもたらしてくれる作品。もちろん、いつものアルモドバルらしい色鮮やかな映像も堪能できます。スペイン好きと致しましては、マヌエラが住むバルセロナのマンションのカラフルなインテリアなど、見ているだけでウキウキします。そして、オカマちゃんアグラードの何と愛らしいこと。様々な作品でトランスジェンダーの方の登場作品を見ていますが、私はこのアグラードが一番好きです。

キカ

2008-09-16 | 外国映画(か行)
★★★★ 1993年/スペイン 監督/ペドロ・アルモドバル
「思いつきが物語になるフシギ技」


奇抜な衣装とキャラに目を奪われがちなのですが、私がこの作品で驚いたのはアルモドバルのストーリーテラーとしての技量です。本作、メイクアップ・アーティストのキカ、カメラマンのラモン、ラモンの義理の父で小説家のニコラス、最悪事件の突撃レポーターのアンドレアの4人が主要人物でそれぞれの人物たちの関わり合い方があまりにもヘンテコな設定なのです。普通の人は考えつかないだろうと断言してもいい。

例えば、死に化粧していたら突然生き返っただの、レイプ犯に犯されて盗撮されていただの、連続殺人事件発生だの、「ここでこんなことあったら面白いよね~」と酒場で悪乗りして思いついたようなアイデアの羅列です。しかも、どれもこれもが悪趣味極まりない。この「羅列状態」のキテレツストーリーが、ラストに向けてきちんと収まっていくことが、驚き以外の何物でもないのです。

私は映画の脚本がどういうプロセスを経て完成品になるのか知らないのですが、おそらく誰でも最初は「こういう物語にしよう」と言うプロットがあるはずです。一つの大まかな軸があって、そこから脱線させたり、肉付けさせたりするのではないしょうか。しかし、この「キカ」と言う作品は、そういう発想とは全く違う手法で書かれているような気がしてなりません。さっき言いました「羅列」の繋げ方は、実に強引なんですが、わかったような気にさせて、物語はどんどん進みます。そのわかったような気にさせる、つまり目くらましの役割の一つのがゴルチエの衣装ではないでしょうか。

しかし、騙し騙し話を繋げているという雰囲気は全くなく、最終的には犯人はコイツだったというサスペンスオチにもっていき、一つの物語としての充足感がきちんと味わえる結末となっています。後から考えると、えらく強引でハチャメチャなストーリーだなと思うのに、見ている時はそれを感じさせない。奇妙な人たちの愛憎入り乱れる人間ドラマとして、観客を引っ張り続ける。これぞ、アルモドバルの摩訶不思議パワーです。