Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

ソナチネ

2008-02-24 | 日本映画(さ行)
★★★★★ 1993年/日本 監督/北野武
「死に向かう美しい舞踏」


およそ映画作家であるならば、物語の起伏や役者の演技に頼らず、「映像の力」だけで、とめどないイメージの喚起を呼び起こせる、映画にしかなし得ない力強くも美しい瞬間を創りたいと誰しも願うはず。「ソナチネ」における浜辺での相撲シーンはまさにそれでしょう。私は、このシーンを見るというだけでも、この作品をお薦めできる。

浜辺に打ち上げた藻で土俵を作り、シコを踏む男たち。一糸乱れぬ相撲の所作は様式的な美しさを見せるし、これから死にゆく男たちの儀式のようにも見える。映像が醸し出すイメージに胸を打たれるということほど、映画鑑賞における至高の体験はなく、北野武は、4作目にしてその至高の瞬間を作ってしまった。

間違いなく俺たちは死ぬ。その確信を目の前にして繰り広げられる男たちのお遊び。それは、時におかしく、時に切なく、時に美しい。私は、この作品を見てなぜだか一遍の舞踏を見たような感慨に見舞われた。人間は誰でも死ぬのだとするなら、この作品は全ての人に訪れる死の前のダンス。無音の舞台の上でしなやかな体の男が静かに粛々と踊り続け、そしてまた静かに舞台の上で死んでいく。そんな映像が頭から離れない。

北野武は決して「そのもの」を描かない。銃声が響き、血しぶきが湧いている場面でも、画面に映し出されるのはそれを傍観している男たちの顔だ。殴り込みに出かけすさまじい殺し合いが起きても、そこに映っているのは明滅する弾丸の火花。それらの静かな映像は常に「死」と隣り合わせであるからこそ、切なくリリカルに映る。

また本作では武ならではのユーモアも非常に冴えている。殺し合いに行くのに遠足バスのように見せたり、スコールの中シャンプーをしていたら雨が突然止んでしまったり。これらの「笑い」は何かの対比として描かれているのではなく、もしろ「死」そのものが「笑い」を内包しているから描かれている。つまり、人は誰でも死ぬ、そして死にゆくことは滑稽なことである、という武独特のニヒリズムがそこに横たわっている。

繰り返すが、浜辺での一連のシークエンスは本当にすばらしい。北野武以外の誰も思いつかない、誰にも描けない映像だと思う。