Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

いつか晴れた日に

2011-03-28 | 外国映画(あ行)
★★★★☆ 1995年/イギリス・アメリカ 監督/アン・リー

「愚かで愛しい女たち」

もしかして、私ジェーン・オースティン好きなのかも-。「つぐない」同様、伝えたいのに伝えられない、じれったい恋愛模様にどっぷりハマってしまいました。

仕事もできない、財産も相続できない。女の一生はまさに結婚相手で決まってしまうという当時のイギリス社会。全てが男次第という環境の中での女たちの立ち居振る舞いは現代女性から見れば、滑稽なことも多々あります。時には愚かに見える女たちですが、この「愚かさ」が彼女たちの謙虚さから生まれるものであるため、彼女たちが実に愛おしく、かわいらしい存在に思われて仕方ありません。

人間の感情とは複雑なもので、日頃男性に対しては「言いたいことはハッキリ言う!」「女だからと甘えない!」と息巻いているワタシなのですが、この時代の女性にはひどく共感してしまう。言いたいことも言えない時代の中で、どこまでも謙虚さを美徳とする彼女たちにもの凄く共鳴してしまうのです。自分でも不思議です。

物語の核となるのは、2つのラブストーリー。長女エリノアとエドワードの純愛と、次女マリアンヌをめぐる中年の大佐と若く逞しい青年の恋のさや当て。いずれもじれったい進行ながら、どうなるのかしらん?といい年して、ドキドキしながら見守ってしまいます。ジェーン・オースティンがハーレクイン物と一線を画するのは、こうしたじれったい恋愛を軸としながらも、彼らを取り巻く人々の人物描写が実に細やかなところにあると感じます。最も顕著なのは、若い女性と好対照に描かれる中年女性、オバサマたちです。

「つぐない」でも娘を何とか嫁がせようとそればかりに注力する母親は、振る舞いが田舎者まるだしで目を覆いたくなる時もありますが、その愛の深さを感じさせます。今回は、何かと世話を焼く後見人のオバサマが出てくるのですが、彼女は一貫しておしゃべりで、噂話が大好き、やかましい存在のように見えるのですが、終盤ふと見せる優しさにほっとさせられます。他にも、終始むすっとしているお婿さんが何気ないひと言で娘たちをいたわるなど、人間の心の奥に大切にしまわれている大事なものをそっと見せられたようで、実に温かい気持ちになるのです。

さて、出演者たちもみなステキです。ダメ男を演じさせれば右に出る者なしのヒュー・グラントですが、本作はダメ男というより「ぼんやり君」とでもいいましょうか。かなりトホホですけど、その度を超えた悪気のなさに完敗。アンタだから、許されるんだからね。不器用で実直な中年大佐のアラン・リックマンも適役。ケイト・ウィンスレットも初々しくてカワイイです。

ソーシャル・ネットワーク

2011-03-26 | 外国映画(さ行)
★★★★★ 2010年/アメリカ 監督/デヴィッド・フィンチャー
<TOHOシネマズ二条にて観賞>

「道具を生むのも人間、使うのも人間」

すいぶん前に映画館にて観賞。間違いなくアカデミー最優秀作品賞&監督賞だと思ったけどね。アカデミーの会員はやっぱり爺さん、婆さんばっかりだってのが、ようくわかった。おぼろげにアカデミー賞の選考なんて適当なんじゃないかと思ってたけど、今回の件でちょっとその権威が失墜したように感じてしまう。

さて、時代を切り取るという点において、こんなによくできた作品はないと思う。2時間があっという間で、気づいたらエンドクレジット。それくらい作品の持つ疾走感がすばらしかった。のべつまくなしに人物、とりわけ主人公のマークはしゃべりっぱなしなんだけど、全くウザく感じることがない。カット割りもめちゃくちゃ多いんだけど、目も疲れなかった。驚異的なセリフの多さとカットの多さがありながら、作品全体がガチャガチャしてないってのは、紛れもなくデヴィッド・フィンチャーの巧さだと思う。前作「ベンジャミン・バトン」が実にスローで静謐な画面作りに徹していたことを考えると、彼の映画監督としての懐の深さが伺われる。テムズ川でのカヌー大会のシーンではトイカメラ風の映像も盛り込んだりしていて、とにかく様々なチャレンジスピリットにあふれた作品だった。

映像、演出のすばらしさに加えて、この作品の底力となっているのは、人物造形の巧さ。マーク・ザッカーバーグという若き天才の描写が実に魅力的だ。彼は鼻持ちならないイヤな奴(実際、本人がそうかどうかは置いておいて)として描かれているわけだが、彼が持つ劣等感や寂しさも含めて、社会にうまく適応できない人間のひずみのようなものが実にうまく描かれていたと思う。冒頭のガールフレンドとの噛み合わない会話でマークの性格を観客に知らしめてしまう演出もいい。

マークが様々な試みを行うのは、要は「ふられた彼女を見返したい」ってことなワケ。その歪んだ、ねじ曲がった根性が(笑)、思いも寄らぬ金を生んだり、社会現象になったり、使用者によってはメリットを生んだり、喜びや幸福をもたらしたりする。それが、実に今っぽいんだ。道具を作るのに高邁な精神なんて、必要ないんだ。現にFacebookのおかげでエジプトでは民主化運動が起きたんだけど、その道具はもともとふられた女を見返すために作られたんだよ。滑稽というか、皮肉というか。これが今なんだってこと。

ハーバードという閉ざされた社会の裏情報もとても興味深かった。
それにしても、ウィンクルボス兄弟ってえのは、アイデア盗まれたか知らんが、結局600億ドル勝ち取ったって、上流社会の人間にしては、えげつないよなあ。


バッシング

2011-03-08 | 日本映画(は行)
★★★★ 2005年/日本 監督/小林政広

「想像のスタートライン」

「誰も守ってくれない」を見て、いい比較になると思い、この作品を思い出しました。あちらで疑問なり、煮え切らないものを持たれた方にお勧めします。本作は一時期社会的にも大きな問題となった、イラク人質事件が題材になっています。ボランティアとしてイラクに赴くも、テロ組織の人質となり、日本政府が身代金を支払うことで解放されたあの事件です。当時「自己責任」という言葉がクローズアップされたことを多くの方が覚えているでしょう。

さて、本作はとても特異な映画です。それは、主人公の境遇が全く説明されないまま、物語が始まるということです。しかも、人質事件以降、ある程度の月日(それも、どれくらい経っているのか全く不明)が経っており、主人公の暮らしも性格も相当すさんでいる。すさみ切っている。のっけから、全く同情できないシチュエーションで物語が進むのです。

マスコミにどんな報道のされ方をしたのか、正義感を気取った大衆がどんな仕打ちをしたのか。彼女自身、どんな思いでイラクに旅立ったのか。映画の中では、全く描かれない。だから、我々は想像するしかないんです。なぜこの女性がこんな風になってしまったのかを。これは、なかなか厳しい作業です。だって、目の前の女性の第一印象は最悪なんですもの。

だからこそ、観客にとっては彼女の来し方を想像しようという意欲を問う踏み絵のような作品。
想像できますか?ではなく、想像しようというスタートラインに立てますか?ということなんですね。

コンビニでぶっきらぼうにおでんを買うシーンが印象的。もし、私が店員ならこんな客には間違いなく不快感を覚えるでしょう。このお客の人生の裏側を想像しようなんて、決して思わないでしょう。だからこのシークエンスは、観客に対する挑戦、問いかけなのです。

マスコミの視点も、大衆の視点も、政府の視点もない。すさんだ環境の中でぶつける先のない怒りと矛盾を己の中に溜め込む女性主人公の日々が淡々と描かれるだけ。その視点の偏りが是か非か、というのは、これはもう、観る人の価値観次第なのですが、彼女の絶望的なまでの人間不信は間違いなく伝わるのです。

誰も守ってくれない

2011-03-07 | 日本映画(た行)
★★★ 2008年/日本 監督/君塚良一

「多すぎる視点」


重いテーマですけど、フジテレビ制作ですから、何とかエンタメにしなければなりません。その点について考慮すれば、前半部は作品としての力強さがあり、展開もスピーディで大変引き込まれるものでした。多くの方がご指摘するように、犯人逮捕の瞬間から実に手際よく加害者家族がバラバラにされていく様子は作品のツカミとしては最高の滑り出しです。

しかし、次第にテンポも悪くなり、何が言いたい映画なのか、よくわからなくなっていきます。率直に言うと、こんなにいろんな視点を盛り込む必要があるのか?ということです。加害者家族、刑事、かつての事件の被害者家族、マスコミ、ネット社会、妹の恋人…。視点の多さというのは、物事を一面的には考えられない、ということを示しているのですが、却ってポイントが絞りきれずどっちつかずになってしまうという危うさがあります。つまり、出すなら最後まで責任を持てよってことだし、この視点は入ってませんけど、というツッコミどころを生んでしまう。

最も合点がいかないのは、柳葉敏郎と石田ゆり子演じる夫婦がこの逃亡者の受け入れることに葛藤するも、一晩経ったらすんなり関係が修復されていることです。彼らが何を根拠に刑事の暴挙を受け入れようと決心したのか何の説明もなされていないし、演出から想像することもできません。「刑事と加害者家族の娘」だけの物語にすればいいものを、被害者家族、しかもその原因が刑事にありというややこしい人物登場により、三者それぞれがそれぞれに対して見せなければならない感情の起伏が描ききれず、鑑賞者は物足りないことこの上ありません。柳葉夫妻と志田未来ちゃんは、全然語り合うシーンがありませんよね。これはおかしい。

そういうわけで、なんでこの脚本が映画祭で賞を獲ったのか、甚だ疑問に感じてしまいます。君塚良一は好きな脚本家です。一番好きな作品は浅野温子が主演した「コーチ」。九十九里浜のしがない缶詰工場で繰り広げられる人情劇で再放送を含め何度も見ています。「踊る」シリーズも最初のドラマの時は、ホント面白かったなあ。本作は着想してからずいぶん長いこと取材を重ねての脚本ということですが、その長い時期の間に、あれも入れろ、これも入れろとフジテレビから横槍が入ったと考えてしまうのは私だけでしょうか。

佐々木蔵之介演じるイカれた記者が、どんなに自分の足でかけずり回っても、ネットに棲む人々に情報戦で負けてしまい愕然とする、というくだりがありますねえ。これは、面白い着眼点だと思う。でも、他の視点同様深く切り込めずに、中途半端なネタで終わっています。このテーマはこのテーマだけで、1本映画が撮れるくらいの強さを持っていると思う。欲張り過ぎですね。


告白

2011-03-06 | 日本映画(か行)
★★★★☆ 2010年/日本 監督/中島哲也

「狂人たちのダンス」

原作を読んだ時はなんてつまらん、と思いました。最初の女教師の告白が短編で賞をもらったのでしたか(詳細は忘れましたが)、それで何とか後を繋げるために、いじめだの、ネット殺人予告だの流行の暗いネタをぶち込んで、何とか長編に仕上げた、つぎはぎだらけのおそまつな小説だと思いました(原作ファンの人、ごめんなさいよ)。しかも、このあまりに暗い話が本屋大賞とは、世も末だと思った次第です。なので、映画館に行く足も鈍ってしまったわけですが、映画の方は中島監督の離れ技でとんでもないエンタメ作品になっており本当に驚かされました。

エイズ、いじめ、殺人というネガティブモチーフの全てをエンターテイメントにしてしまう。その思い切りの良さに完敗です。世の人々がひそひそと声を潜めて語り合うテーマを、娯楽映画のパーツと見立てる。いや、エイズにしろ、いじめにしろ、我々日本人は、できることなら声高に語りたくない、避けて通りたいという、「逃げ」の精神に対する挑戦状のように感じます。挑戦状を突き付けるのならば、ド派手に相手の度肝を抜くようなやり方でなければ。
いや、小手先の挑戦状では挑戦状と受け取れない。それほど、我々の感覚は弛緩しているということかも知れません。

原作を読み終わった時のもどかしさ、気持ち悪さは、中学生が主人公であることに大きく関係しています。ここで描かれている中学生はみんな自己中心的で、思慮もなく、他人へのいたわりもなく、彼らが大人になるのかと思うだけで絶望的です。彼らを我々大人はどう捉えればよいのか、そういう視点が原作には無い、ただ中学生が殺人を犯すというスキャンダルな側面だけを利用した小説である、という読後感。では、映画はどうか。ガス・ヴァン・サントが少年達に向ける視点とは明らかに違う。私は彼らへの距離感、その冷徹な視点に相米慎二監督を重ねてしまう。

この中学生たちが繰り広げる絶望的な行為の数々から何を感じ取るかということ。それは本当に人それぞれで、そこにはもちろん痛みや悲しみもあるわけですが、もう君たちは狂っているんだよ、ときちんと正面から誰も言わない、言えない世の中なのではないかということ。ちょっと過激かも知れませんが、まだ何とかなる、きっといいことがある、そんなおためごかしを我々大人は何年も何年も言い続けてきて、このザマ。根拠もなく、何とかなるんだ、と言い続けることは、相手をひとりの人間としてみなしていないことに他ならない。
他人を貶め、他人を裏切り、他人の命を奪うことに、中学生としてではなく、ひとりの人間として正面から対峙せよ、ということではないかと感じるのです。

もちろん、正面から対峙することが女教師森口のように「復讐せよ」ということではないですね。大人代表として描かれるのは女教師森口、生徒の母親、後任新人男性教師で、それぞれ「復讐する」「溺愛する「媚びる」というやり方でしか中学生に向き合えない。それらは、中島監督の手腕によって、まるでギャグマンガのごとく描かれており、このギャグテイストこそが痛烈な自己批判を観客に促しているように感じます。
そして、「父親不在」というメッセージも強く込められてはいないでしょうか。

それにしても、KY教師を生徒たちが嘲笑い、担ぎ上げるシーンでKC&the Sunshine Bandの「That’s the way」で踊らせるというブッ飛びアイデア。これは、中島監督にしか出せませんね。次作はどんな驚きが待っているのか。ドラマ「TAROの塔」で岡本太郎がこう言ってましたよ。驚きは感動に他ならない、と。