Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

監督、ばんざい!

2008-02-09 | 日本映画(か行)
★★★★ 2007年/日本 監督/北野武
「徹底的な自己破壊は全ての映画監督への挑戦状」



「小津的空間で首を吊る」
「TAKESHI’S」で分裂させた自己を、徹底的に破壊するのが目的で作られた本作。何を撮っても駄目な北野監督が続く序盤。その駄目な作品群は、全てが「○○モノ」というジャンルで称されるものばかりだ。「悲恋モノ」「忍者モノ」「昭和モノ」…etc。それらが撮れないと自虐的に嘆いてみせるものの、これは明らかな「○○モノ」とイージーにカテゴライズされてしまう映画への徹底的な批判。そして、それは同時に「○○モノ」という冠がつけばヒットする映画を撮っている監督たちへの批判であり、挑戦状ではないだろうか。ここまで、同業者をこてんぱんに批判して大丈夫なのかと心配するのは、私だけだろうか。面白いのは、そのようなジャンル別作品の中で、小津安二郎の作品だけが固有名詞で挙げられていること。しかも、この小津的空間で北野監督の分身人形は首を吊っている。映画ファンなら、この一瞬のカットにドキリとしないわけがない。果たして、このカットが意味するものは何か。小津作品について語るものを持っていない私など、このカットをどう理解していいのかお手上げだ。小津作品には叶わないという白旗なのか、それとも小津的なるものを追いかけることは、すなわち己の首を絞めることであるという日本映画への示唆か。

「脱線しまくる映画は、一体誰のものか」
脱線に脱線を重ね、物語としては全く破綻してしまう後半部。その破綻ぶりを岸本佳代子と鈴木杏が嘆くシーンにおいて、「そんなのコイツに聞きなさいよ」と分身人形は何度も殴られる。そして、延々と続く笑えないベタなギャグ。果たして、ここに「観客」という概念が存在しているのかどうかすら疑わしい。北野監督が試みているのは、「映画」と「観客」の断絶なのだろうか。己を否定し、観客との関係性を断ち切った上で、最終作にとりかかる。本作はそのための準備作品のような気がしてならない。首をくくっても、殴られても、ラストの宣言は「監督、ばんざい!」。好調と言われる今の日本映画界において、映画監督たるものを見つめることに徹する北野監督。そもそもタイトルは、「OPUS 19/31」だったとか。そう言えば、フェリーニの「81/2」は、スランプの映画監督が現実と妄想を行ったり来たりする話だったけ。こりゃ、完結編をじっと待つしかないのかな。