みんなしてなんじょにがするべ!

今なすべきは意見を持ち発言すること。どうも心配な雲行きのこの国、言うべきことを静かにしっかりと言い続けたい。。

      自民党・安倍政権による教科書統制   第四回

2014年06月13日 | 憲法守るべし
 公明党よ、しっかりしろ!自称平和の党の船体が傾き始めた。「条件付き」は政治の世界では国民をごまかす方便だということはいくつもの例がある。「国旗・国歌法」が強制するものではないとして成立するや、教育支配の強力な「武器」となっているのもその一つである。公明党よ平和の党と称するのであれば集団的自衛権はダメと断言して頑張れ。

 ここで、自民党政権がどのように教科書統制を行ってきたかに移る。


           3 教科書採択を通じた教科書統制の変遷


① 初めは学校ごとの採択だった

 採択制度が教科書統制の武器として積極的に利用されるようになったのは1990年頃からだ。
 1948年に制定された教育委員会法第7条は「二 第三項に規定する委員を除く委員は、日本国民たる地方公共団体の住民が公職選挙法の定めるところにより、これを選挙する。 三 委員のうち一人は、当該地方公共団体の議会の議員の内から、議会においてこれを選挙する。」と、そして第49条では教科書採択は教育委員会の権限と定めていた。当時の日本では戦前戦中の反省に立って小・中・高校とも学校ごとに使用する教科書を教員が話し合って決めた。
 ところが1956年、「地方教育行政の組織及び運営に関する法」が国会に警官隊を導入する混乱の中で成立し、「教育委員は選挙で選ばれる」と定めた教育委員会法はわずか8年で廃止された。しかし、「地行法」でも教科書の採択は教育委員会がおこなうとされ、それまでと同じようなやり方が続けられた。
 1963年、「教科書無償措置法」が定められると、教科書は採択地区ごとに教育委員会が採択する現行制度が実施されることになった。しかし、地方教育行政法の定めもそのまま残り、実際にはいろいろな方法で学校現場の意見を聞いて教育委員会が判断をしていた。


② 教科書採択権者の責任を明確にせよ

 1990年代に入ると日本を守る国民会議などの活動により、文科省は「教職員の投票によって採択教科書が決定される等採択権者の責任が不明確になることのないように」と通知し(1990年)、教科書採択から教員などを排除するよう教育委員会に求めた。
 ところが政府は、1997年になると通知とまったく反対の決定をする。行政改革委員会の意見書を受けての閣議決定は「将来的には学校単位の採択に向けて検討していく必要があるとの観点に立ち、当面の措置として、教科書採択の調査研究により多くの教員の意向が反映されるよう、現行採択地区の小規模化や採択方法の工夫改善についての都道府県の取り組みを促す」とした。文科省はこれに沿って、通知「教科書制度の改善について」を出し、都道府県に「行革委意見の趣旨を踏まえて採択のあり方を改善すること、市町村教委にも同様の改善を図る指導をすることを促した。
 2001年、新しい歴史教科書をつくる会の教科書「新しい歴史教科書」「新しい公民教科書」(扶桑社版)が採択に参入したことで文科省の姿勢はまた逆戻りする。
 2001年度、扶桑社版教科書を採択した市区村立学校はゼロ。2005年度、同教科書の採択は東京都杉並区、栃木県大田原市だけだった。「つくる会」などは「教科書の採択権は教育委員会にあるから、採択について現場の意見を聞くことなく、教委独自の判断で行え」と要求したため、文科省は90年通知を引き合いに「採択権者としての自覚と責任のもと、適正かつ公正な採択の確保」をするよう指示した。
 これによって、教育委員会は学校票の廃止、教職員が作成する調査研究資料や採択のための委員会による教委への答申などでの順位づけ及び一種類への絞り込みなどの禁止等の措置をした。
 こうして小中学校教科書については、教員などの意見を排除して教育委員会が独自に判断して採択する方向に大きく流れが変わった。   (つづく)