みんなすてなんじょにがするべ!

今なすべきは意見を持ち発言すること。どうも心配な雲行きのこの国、言うべきことを静かにしっかりと言い続けたい。。

道徳を「特別の教科」にすることについて その-3

2015年01月31日 | 憲法守るべし

「自主的判断」について

佐貫教授によれば勝田氏は、自分の中で対立する価値を比べ、正しいと思う価値を選択することが自主的に行われなければ、責任ある道徳的判断が成り立たないから、道徳(性)も成り立たないとも述べている。
子ども自身に自主的判断をさせるかどうかが、「道徳教育」が本当の道徳教育と言えるかどうかの分岐点ということになる。徳目を示して子どもの考え方や行動をその方向に“誘導”しようとするのは道徳教育ではないということだ。


「人間の尊厳」について

「人間の尊厳」は、「人間を大事にする」「基本的な人間の権利を尊重する」「平和を求める」など、人間にもともと備わっている“人間性の要求”というべき意識に根差している。
長い間“人間性の要求”を抑圧する時代が続く中で、人間は正義を実現する闘いによって少しずつ“人間性の要求”を実現しその内容を豊かにしてきた。日本国憲法が「不断の努力によって」人権を守りなさいと国民に呼びかけているように、今もその闘いは続いている。


望まれる道徳教育について

道徳教育にとって最も大事なことは、
※「自主的判断」ができるように、教科の学習などを通してしっかりした「科学的認識」能力が育てられること
※ 生活指導など学校生活全体で、日々の生活の中で直面する課題や困難にたいして、“人間性の要求”を態度や方法として具体化し実現していくことによって、子どもたち自身に新たな人間関係を発見・創造  させることを通して「人間の尊厳」という価値を探し求めること

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沖縄・辺野古で起きていること

2015年01月30日 | 憲法守るべし
安倍政権は、翁長沖縄県知事との面会を拒否し、沖縄振興予算を一方的に削減したうえ、1月27日早朝から辺野古で新基地建設に向けて海上作業を再開した。前日の26日に、翁長県知事が「埋め立て承認の検証」が終わるまで作業を自粛するよう要請したばかりだった。

28日からはボーリング調査のためとして、コンクリートブロックを海中に沈める作業を強行した。
フロートを固定する数十トンもある巨大なコンクリートの塊を大型クレーン船からワイヤでつりさげて、ハマサンゴ群落やジュゴンのえさになる海草類が群生している大浦湾に次々落としている。
辺野古の米軍基地ゲート前には県内外から駆け付けた人々が集まって「作業船の工事やめろ」「サンゴの破壊は許さないぞ」などと抗議の唱和をくりかえした。


以前の沖縄は、生活やその他を考えると基地があることはやむを得ないと考える県民が多かったようだが、昨年、基地撤去を求める県民が完全に多数ということが繰り返しの選挙によって示された。その県民意志を踏みつけにし、政権の意思をゴリ押しする安倍政権とはなんだろうか。
私らは本気で考えるべきときだ。

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道徳を「特別の教科」にすることについて その-2

2015年01月30日 | 憲法守るべし
佐貫教授は、戦後の道徳教育のありかたを深く考えた教育学者の勝田守一氏は、道徳性の核心にあるべき価値は「自己に忠実に生きながら、同時に他の人々がそれぞれ同じように自分に忠実に生きられる、そういう関係をできるだけ広いかかわりで作りあげていく行為を導く価値」と言ったことを紹介して、それは「人間の尊厳」という価値の実現といい換えてよいだろうと述べている。
さらに「あくまで自主的に自己の責任において行動を選択するということ」、「複雑な社会についての知識、遠い将来の見通しの形成とそれを実現する技術」が道徳性の要素として必要であると勝田氏が指摘していることを紹介して、それは、「自主的判断(力)」と「科学的認識」といい換えられると説明している。


《解釈》こういうことを言っているのだと解釈したがどうだろうか。正解とは言えなくても全くの間違ではないと思う。

人間は、一人ひとりが自由でありながら、しかも互いにかかわりあって生きるとき、人間らしく生きている喜びを感じる。自分を大事にし他者もまた大事にして生きられる関係は、「人間の尊厳」が一人ひとりの生き方の価値として形成されていなければ築くことができない。人間を人間にする道徳性の核心にあるべきは「人間の尊厳」という価値なのだ。
さらに、道徳性を成り立たせる大事なものが二つある。それは「自主的判断」と「科学的認識」である。
自分の中で対立する価値の比較や選択(何が正しく、どうすべきなのか決めること)が自主的に行われたときに道徳は成立する。
そして、社会を科学的、知的に洞察して正しい社会のあり方を見抜く力が必要であり、知的な力が子どもたちの生活のなかに生きて社会への責任と結びつくように導くのが道徳教育だ。


















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ただ、守銭奴に守銭奴といっても

2015年01月27日 | 憲法守るべし
道徳教育を考えるときの参考になると感じたコラムがあったので記しておきたい。1月27日のしんぶん赤旗に、共産党の大門美紀史参議院議員が書いたものだ。


1月の初めに麻生財務大臣がひたすら内部留保をため込み続ける大企業を「守銭奴」と批判しました。たまには的を射たことを言うと思いました。
先日、ある全国紙のY記者とアベノミクスについて意見交換。そのときYさんが麻生発言についてどう思うかと聞くので、「ただ、守銭奴に守銭奴といっても守銭奴はなおらない」と答えました。
大企業の内部留保を賃金や雇用にまわすには、、各経営者に心がけを説くだけではダメです。なぜなら、いまの資本主義は働く従業員より株主の利益を優先するゆがんだ『株主資本主義』に陥っている。賃金を上げた企業の株価は下がり、反対ににリストラ、賃下げをした企業の株価は上がるのです。したがって個々の企業まかせではなく、「みんなで(内部留保を)とり崩せばこわくない」式で、非正規雇用を正規に転換していく法的措置、最低賃金引き上げの制度的措置などに踏み出すしかありません。
Y記者は私の説明にうなずきながら、「異常な内部留保の溜め込みは共産党が数年前から指摘してきたが、いまや政府や学者たちも問題視するようになりましたね」といいました。
それにしても、資本の側が資本主義のあり方をゆがめ、共産党がそれをさとして、まともな資本主義のあり方を示すというおかしな時代になってしまったものだと思いました。

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道徳を「特別の教科」にすることについて その-1

2015年01月26日 | 憲法守るべし
中教審答申が道徳を「特別の教科」にして、道徳の教科書を使って授業をするようにと答申し、文科大臣は2018年度から実施する意向のようだ。


答申は現行道徳教育にいくつも課題があるため「教科化」や「教科書」が必要だというのだが、課題としてたとえば「その特質を生かした授業が行われていない場合がある」とか「発達の段階が上がるにつれ、授業に対する児童生徒の受け止めがよくない状況にある」などをあげているが、このようなことは国語や算数・数学ほかの教科についても言えることで、道徳を教科にしたからといって改善・充実がなされるとい打ような単純な問題ではない。

むしろ、教科にして、教科書を使って授業をし、評価もするとなれば、今まで以上に先生は、道徳的価値・徳目を子どもに伝えようとし(押しつけて)、それに従わせることに一生懸命になるのではないだろうか。これまでよりもっと児童生徒の受け止めがよくない状況になるのではないだろうか。

しかも、教科書は文科省の検定に合格したものでなければならないから、文科省(安倍政権)が示す方向での道徳教育になる危険は大きい。国(文科省)が道徳の先生になるのだ。
なぜならば、安倍首相は、自らの主張である「先の大戦は自存自衛の戦争」「従軍慰安婦は強制されたものではなかった」「南京大虐殺はなかった」等々と同じような記述をした社会科教科書を採択させる運動の中心人物だ。この教科書を採択しなかった沖縄県竹富町に政権が採択を迫って圧力をかけたのはついこの前だった。
首相は自分らの考えに沿った道徳教科書をつくらせようと頑張るに違いない。


道徳の教科化を絶対やめさせなければならない。

佐貫浩法政大学教授が書いた、《安倍政権がねらう国家主義的、新自由主義的な道徳教育を批判するとともに、道徳教育を学校教育の課題にしっかり位置づけなければならない》と主張する論文を最近読んだ。
難しいことを書いているがこれは良いことを言っていると思った。

佐貫さんは論文の中で、論文の“柱”をおよそ次のようにまとめている。
「今の道徳性の危機とは何か、それに対処する道徳性、道徳的価値の核心とは何か、それを子どもに獲得させる道徳教育の方法とその学習と教育の場をどこに置くのかを明確にすることによって道徳の教科化を批判する。」

道徳の教科化に反対するとともに、道徳教育をどのようにすすめるべきかを佐貫さんの論文の要点を拝借して記すことにする。



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道徳を「特別の教科」にすることについて その-2

2015年01月24日 | 憲法守るべし
昨日の投稿は作成中の原稿でした。続きを書きます。


道徳(的価値)は人間どおしの関係を律する社会規範だが、同じく社会規範の法律や習慣とはちがって、個人の良心や自己責任の意識によって保たれるという特別の性格を持っている。
「勇気」、「責任」など道徳の内容を項目的に示したものを徳目といい、徳目や道徳的価値について自覚して、それらを自主的に選択して実践する能力を道徳性という。
道徳性の発達を目指す働きかけが道徳教育である。


道徳教育には、諸々の道徳的価値を子どもたちに伝える面をもっているが、そこには既成の価値を子どもに押し付ける危険もある。
現在小中学校で行われている「道徳の時間」も含め、これまでは道徳的価値を子どもに伝えて内面化することが道徳教育であると考える傾向が強く、実際そのように行われている(ことが多い)。

たとえば、文科省が全生徒に配っている道徳副読本「私たちの道徳」には実業家や医者、スポーツ選手など多くの偉人が登場する。多くの場合人のため、世のための高い同胞愛、努力、誠実な態度などの抽象的なエキスとしての道徳性が抽出されすぐれた道徳性の持ち主のモデルとして、生徒に繰り返しくりかえし注ぎ込まれている。


道徳性とは、徳目や道徳的価値を自覚し「自主的に選択して実践する能力」だから、繰り返しくりかえし徳目を注ぎ込んで内面化をはかっても、道徳性の発達にはつながらないことの方が多いと思われる。ことが起きるたびに道徳教育の強化が叫ばれ、それを繰り返してきたのではないのか。

それでは、道徳教育をどのようにとらえ直せばよいのか次に考えてみたい。






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道徳を「特別な教科」にすることについて その-1

2015年01月23日 | 憲法守るべし
「道徳」、「道徳教育」とはなにかについては、いろいろな考えや言い方があって、こうだと簡単に言うことはなかなか難しいが、ここをはっきりさせないと先にすすめない。これまでに知ったことをもとにまとめたところを記す。


道徳は一般的には「社会生活の秩序を維持するために個人が守らなければならない規範」「他者と交わる際に従うべき、社会で広く習慣となるなどして認められている規範」のように考えられている。
子どもたちが乱暴な言葉遣いをしていたり、電車の中に寝っ転がったり、学校にいじめ事件が起きたりすると「今の子供たちには道徳が欠けている」「道徳が低下している」と言われたりするのがこれにあたる。政治家が道徳を言うとき、多くはこうした考え方に立っていると思われる。
しかし、これが「道徳」とすれば、「躾」の傾向が強く「こうするのが正しい」、「ああしなさい」と押し付けるのが道徳教育となりかねない。


今回の中教審答申は道徳教育を「民主的社会の持続的発展のために、自立した一人の人間として人生を他者とともによりよく生きていくことを目指すもの」と説明している。
これは一見まっとうな定義といえそうだ。

しかし、道徳に限らず教育は「人格の完成をめざし、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」(現行教育基本法第1条)に照らして考えると正しいと言えなくなる。
安倍内閣が強行した教育基本法でも、それまでの教育基本法とほぼ同じ条文である。変えられなかったのである。日本国憲法第26条に定める「普通教育」の考え方を反映したもので、教育は「人格の完成を目指して」つまり「人間を人間として育てる」ことを目指して行われる。その結果として、国民は「民主的社会の持続的発展」のために生きていくこともできるようになるのだ。目的と結果を入れ替えてはならない。

ましてや、国民世論を無視して積極的平和主義と称して、集団的自衛権行使容認や武器の輸出、武器の国際共同開発もすすめる安倍政権が思い描く「民主的社会」とはどんな社会だろうかと考えると不安が広がる。




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安倍首相はスピーチを本物にしてほしい

2015年01月21日 | 憲法守るべし
中東を訪問している安倍首相は1月19日、ナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺の記録を収めたイスラエル国立ホロコースト記念館「ヤド・バシェム」を訪れ、視察後次のようなスピーチを行った。朝日新聞が伝えた全文から抜粋して記す。


ユダヤの人々がくぐった苦難を、全人類の遺産として残そうとする皆様の努力に、心からなる敬意を抱きます。深い悲しみを乗り越え、イスラエルの建国に尽くした人たちを前に、厳かな気持ちになりました。
特定の民族を差別し、憎悪の対象とすることが、人間をどれほど残酷にするのか、そのことを学ぶことができました。・・・ホロコーストを二度と繰り返してはならぬ。
私たちの先人には、杉原千畝がいます。彼のビザで日本に向かったユダヤ難民を助けた人々も、少なからずいました。彼らの勇気に私たちは倣いたいと思います。
ヤド・バシェムに灯る「永劫の火」を導きのともしびとして、差別と戦争のない世界、人権の守られる世界に実現に向け、働き続けなければなりません。・・・


素晴らしいスピーチだ。これが国内では「あの戦争が侵略戦争だったかどうかは後世の歴史家が評価すること」と繰り返している安倍首相の話とは思えない。在日韓国・朝鮮人や中国人に対するヘイトスピーチを規制することには、「言論の自由もある」と消極的な安倍首相が話したとは思えない「誠実」なスピーチではないか!

イスラエルでナチス・ドイツがやったホロコーストを「二度と繰り返してはならぬ」と言いながら、日本がアジアでやった数々のことは「やってない」というのでは誠実とは言えない。


ナチス・ドイツとも組んで、アジアから太平洋へと侵略した事実を認めて、日本が戦後の国際社会に復帰したことをもとに今の世界は成り立っているのだから、そこを否定したら歴史を修正する行為として世界から非難される。
この首相スピーチは立派だが、アジア、特に中国、韓国の人々に向けてもこのような誠実な語りかけをしてほしい。そうすれば、東アジアの安定に大きな役割を果たすことになるにちがいない。












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道徳を「特別の教科」にすることについて その

2015年01月20日 | 憲法守るべし
安倍政権誕生によって道徳の教科化に向かう動きが加速された。

第1次安倍内閣が発足すると真っ先に教育基本法「改正」を強行した(2006年12月)。「改正」というよりも、別の教育基本法を定めたような大転換を強行した。


そのとき、いくつもの問題点が指摘された中に、道徳の教科化へと導くような二つの「改正」があった。
一つは、教育の根本としての法律・教育基本法に教育の目標として「国を愛する態度を養う」などと書き込んだこと。もう一つは、政府や首長などの権力が制限なく教育に介入することを可能にする文言を新たに設けたことであった。

日本国憲法は、すべての国民に対して「思想、良心の自由」を保障している。
日本国憲法の立場で考えれば、子どもだからといって誰かが「これが愛国心だ」と押し付けてよいものではない。子どもは(おとなも同じだが)いろいろな考えがあることを知り、学んだり経験する中で価値を見分ける能力を高めながら、自由に判断して自分の「愛国心」をつくっていく。それは誰かと同じである必要はないし、また違っていなければならないものでもない。成長とともに変わっても構わない。
ところが、法律などに書かれ、全国の学校で「養う」「育てる」となれば、「愛国心」は特定の「愛国心」にならざるを得ないのではないだろうか。
しかも、これまでの教育基本法にはなかった、教育は「この法律および他の法律の定めるところにより行われるべきものであり」(19条)と定めれば、文科省の裁量で決める学習指導要領などによって安倍政権の「愛国心」を“本当の”(国定の)「愛国心」にすることができる。


教育基本法「改正」案は、憲法に違反するという当然の指摘・強い批判があったが、安倍政権はまともに答えることなく、例によって聞く耳持たずで強行してしまった。
とはいえ、教育の目的は「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者」の育成を期して行われることを消し去ることはできなかった。







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道徳を「特別の教科」にすることについて その

2015年01月17日 | 憲法守るべし
今回の中教審答申の最大の“目玉”は、道徳を教科にする、規則を変えて「『特別の教科 道徳』を設け、道徳教科書を使うことにする」ところだ。
いじめ問題に端を発して、現行の「道徳の時間」を「道徳教科」にするという結論に至るところが理解しがたいが、実は「道徳の教科化」は初めからあった結論で、そのために「いじめ問題」を上手に利用したというところだろう。「道徳教育」をめぐる教育政策の変遷をたどればそれが見えてくる。


戦争直後は文部省も民主主義的な道徳を真剣に考えていた。戦前の「修身科」や「教育勅語」などによって、封建的な徳目を押し付け、臣民にふさわしい「道徳」を植え付け、戦争にに駆り出したことへの反省に基いていたのだ。

「民主的社会の建設を目ざして、新たに出発したわが国においては、学校教育においても、新しい立場に立って民主的社会の建設にふさわしいじゅうぶんな道徳の指導が行われねばならない」(1951年「学習指導要領」)「人権を何よりもまして尊ぶことが根本」(同年、「道徳教育のための手引書要綱」)「道徳教育の方法は、児童、生徒に一定の教説を上から与えていくやり方よりは、むしろそれを児童、生徒に自ら考えさせ、実践の過程において体得させていくやり方をとるべきである」(同年、教育課程審議会)


ところが、その後教育政策は急速に“反動化”をはじめる。転機となったのが1953年に行われた池田・ロバートソン会談だった。アメリカからの兵器、経済の援助と引き換えに日本は防衛力増強と再軍備促進を約束した。教育については「日本政府は教育及び広報によって、日本に愛国心と自衛のための自発的精神が成長するような空気を助長することに第1の責任を持つ」と確約した。

道徳教育も大きく変えられ、1958年には小中学校に「道徳の時間」が設けられた。また、この年から、学習指導要領は「拘束力」があるものとされ、教師を縛ることになった。文部省は、道徳教育の内容を学習指導要領に詳しく書き込み、全国の学校でこの通り教えることを求めた。徹底するために教師用の資料を作成して配ることもした。上から徳目を与える戦前の「修身」への逆戻りが始まった。
1966年、中教審答申(別記)「期待される人間像」は国家を中心とした国民のまとまりを求め、「天皇への敬愛」と結びついた「愛国心」「宗教的情操」の育成などを提言し、その後の道徳教育政策に引き継がれた。
2002年には、教師用資料を配るだけでは物足りないというわけか、直接子どもに道徳資料「心のノート」を配ることにしたが、現在の法律では使わなければならない義務はないため、下村文科大臣が「学校に置きっぱなしになっていないか調査する」と発言してちょっとした話題になった。国が定めた「徳目」を国が定めた「教科書」で全国の学校で「教える」。教科化は最も確実な「成果」を上げると考えられているのだ。
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