バーチャルリアリティ奥儀皆伝(3)

2019-08-08 | バーチャルリアリティ解説
 「VRの真実。 AS-1のトリビア」

「奥儀皆伝(1)(2)」 では、私たちが、日本派遣組の『バック・トゥ・ザ・フューチャー・ザ・ライド』開発チームと仲良くなって、彼らから学んだ体感劇場のノウハウを中心に、バーチャル・リアリティ(VR)の奥義、特に「テーマパークVRアトラクション」の概要を、お話しました。出典を書き忘れましたが、視野の3分の2、秒60コマの「しきい値」や、揺動デザインのテクニックについては、『AM Business No.12』( 月刊レジャー産業資料別冊 1995.07.12 )に掲載された、<SFXとシミュレーターアトラクションの巨匠 ダグラス・トランブル氏 特別インタビュー> 新システム「ライドフィルム」の世界展開によりシミュレーターライドのスタンダード化を目指す、という取材記事からの引用でした。なお筆者は、トランブルさんやジャロン・ラニアーさんとは面識があり、長時間、いろいろなお話をしたことがありますので、本Blogでは「さん」付けで書いています。
でも、VRって言うのは、HMD( Head Mounted Display )をヘルメットのように装着して DataGloveをはめるもの、だったじゃないかね、と「昔のVR」をご記憶の方は思っておられるかも知れません。実際は、少し違うんです。

NASAのエイムズ研究所での、HMDとDataGloveの「奇跡の出会い」については、改めて、その経緯を詳しく書くつもりでいます。 元アタリ社のスコット・フィッシャーという方が、宇宙から信号として届いた風景写真を、3D画像によるVirtual Environmentに復元して、そこでいろいろなシミュレーション研究を行なうこと、そして、そのためのコマンド入力装置(ナビゲーション装置)として(ジャロン・ラニアーさんの発明した)DataGloveを使うことを思いつきました。その研究所で、HMDとDataGloveが人類史初の記念すべき出会いを果たしたのは、1986年のことでした。フィッシャーたちは、かわるがわるバーチャル・ワールドで手を動かしてみて、「感動のあまり 言葉も みつからなかった」と語ったそうです。

その3年後の1989年6月7日に、ラニアーさんの会社VPLリサーチ社と3Dソフト開発のAutodesk社は、共同で、あるデモの公開を計画していました。そのデモの日を(ラニアーさんが) Virtual Reality Dayと命名したのです。この時に、バーチャル・リアリティという言葉が誕生しました。そして、両社の遠く離れた展示会場でVRによる通信実験が試みられたのでした。
ただ、しかし、ラニアーさんは(その当時、自社だけが販売していた)EyePhoneという名前のHMDとDataSuitを販促するための(おそらく)キャッチ―な宣伝用の名前として、「これは(耳新しい)Virtual Realityを体験できる装置です」と説明していたのだと私は思います。ともあれ、世界中のVR研究者が、その当時、2万5400ドルをVPLリサーチ社(ラニアーさんの会社)に支払って、DataGlove、EyePhoneと、その駆動ソフトなどのPC周辺装置を競うようにして購入していました。(DataSuitというのは、全身用の DataGloveでした。)
こうしたVPLリサーチ社の研究から発展して、多くの作品が生まれました。例えば、二人の体験者がHMDを着けて互いに相手の視点・聴音の情報を交換して、互いを探しあうマルチメディア・グランプリ審査員特別賞受賞作『視聴覚交換マシン』(八谷和彦作、1993年)や、触覚を全身に拡張するウェアラブルスーツ『シナスタジア・スーツ』(水口哲也作、2016年、The Game Awards 2016のBest VR Game受賞作)などのVR作品が誕生しています。

ところで、実は、現在の2019年の世界では、(a) ラニアーさんが提唱した狭義のVR研究( それは、主にDataSuitとEyePhoneを装着した複数の人がCyberspace上で協労作業をする研究でした )よりも、むしろ(b) 広義のVR、観客に深いリアリティを大画面によるVR技法によって提供しつつ、画面の奥に描かれた世界に観客が没入して、その世界をインタラクティブに操作できる、というVR研究の必要性が高まってきています。なぜなら、世界最大の家電見本市CESの2018年度の基調講演で、「大画面没入型VRシステム」の重要性が強調されたからでした。( CES2018基調講演については、また改めて詳しくご紹介します。)ここでは、『バック・トゥ・ザ・フューチャー・ザ・ライド』が、研究の出発点になると私は思っています。
普及が始まった大画面の4Kテレビを家電量販店の店頭で観て、「迫力( 没入感 )が違う」と感じた方も多いと思いますが、CES2018の基調講演では、各家庭の8Kの大画面テレビが近未来には代表的なVR端末になります、と専門家が名指ししたのです。これは、ある意味では、近未来にVRが華開くための「先祖がえり」でした。つまり、VR技法の中でも、テーマパークVRアトラクションに代表される「大画面没入型のVR」が見直される必要がある、ということです。もちろん、(a)のHMDの研究の成果も非常に重要で、(b)の研究にその技法が大きく生かされています。

と、私が断言するのも、ラニアーさんの名づけた「Virtual Reality」は、1986年から89年まで、全く別の名前で、NASAのエイムズ研究所では呼ばれていたからでした。それは、上記の(a)と(b)の二つのVRの方向性から言えば、(b)の大画面VRに近い研究です。Artificial Reality(人工現実感)という名前だったのですけれど、最近のVR研究者には、AR(人工現実)についてご存じない方もおられるかも知れません。

AR(人工現実)については、命名者マイロン・クルーガー著『人工現実』(トッパン、1991年)という本を参考文献として挙げておきますが、それは、壁全体をスクリーンとして活用した大画面の没入感によるアナログで実現されたVR作品、「インタラクティブ・メディア」についての名称でした。
ラニアーさんがVRという言葉を発明する2年前に、「SCIENTIFIC AMERICAN」誌(1987 October号)という雑誌にJames D. Foleyという有名なコンピュータ科学者が書いた記事が掲載されました。この記事をきっかけに、HMDやDataGloveなどの「Advanced ComputingのためのInterface」が世界的に注目されてVRが話題になるきっかけとなったのですけれど、ここでFoleyは、後にラニアーさんがVirtual Realityと名づけるシステムの全てを、「Artificial Reality 人工現実の一例です」と呼んで紹介しているのです。
SCIENTIFIC AMERICAN October 1987 https://www.scientificamerican.com/magazine/sa/1987/10-01/
このあたりの、 Artificial Reality → VRの詳しい経緯は、また改めてお話するつもりです。Augmented Relity( AR、拡張現実 )、Mixed Relity( MR、複合現実 )、Substitutional Reality( SR、代替現実 )についても、そのとき解説します。

1983年 マイロン・クルーガが著書『Artificial Reality(人工現実)』を出版。記述した作品は、1970年代の双方向アート作品。
1987年 James D. Foleyの記事「Interfaces for Advanced Computing」が、SCIENTIFIC AMERICAN(1987 October)に掲載される。HMDやDataGloveの写真が評判になり、そのシステムがArtificial Realityとして紹介された。
1989年6月7日 ジャロン・ラニアーが、遠隔地の二人がCyberspaceに合流して、HMDやDataGloveを使用して介護の共労作業をするデモを計画。そのちらしに Virtual Realityという名称を掲載。
2018年 CES基調講演で、Intel社 Brian Krzanich CEOが大画面VRの重要性を「データがイノベーションの源泉になることの例証」として強調。つまり、今後4K 8Kの大画面テレビが各家庭に普及すると、これを端末にしたVR機能付きのセットトップ・ボックスが販売されて「スポーツVR中継」などが日常当たり前の番組になる、ということ。

ですから、本Blogは懐古趣味でなく、無駄撃ちなくVRの近未来を実現するための指南書として書いています。

□ AS-1についてのトリビア

時計の針を、少し戻します。そもそも、AS-1の公式第1作 『MUGGO!』(1992年)が開発されたきっかけというのは、こうでした。映像の魔術師、ダグラス・トランブルさんは、数十億円の開発費を貰って、アメリカの Universal Studioのために『バック・トゥ・ザ・フューチャー・ザ・ライド』(1991年)を製作しました。その作品の撮影もほとんど終わり、システム開発にも目処が付いたころに、製作チームの大半を当面の作業が終わったとして解雇するか、どうするか、という問題が生じたようなのです。
結果的に、セガから『MUGGO!』の契約がとれたことが非常に幸運だったことは、その後になって分かるのですが、その話は少し後に致しましょう。

なお、体感劇場は、トランブルさんが1976年の Park Attractionsの国際見本市(IAAPA 76)で初めて展示して Best New Idea賞を得たことは、先にお話しました。その製作は、1974年頃から始めていたそうです。それから、IAAPA繋がりのまったくの余談ですが、 IAAPA 90には、セガ社が「R360」を出展しました。ディズニー・イマジニアリング社のF副社長ら大勢がブースまで走ってこられて「全世界でのR360 の独占販売権をディズニーに売ってくれ!」と興奮して話した時は、Sega of Americaの役員全員が本社S本部長のお見送りで不在でしたから、AM1研のNさんと私とで、なぜそれが無理なのか、理由を説明して差し上げました。ゲームセンターについては、余りご存じ無かったようです。これが縁で、イマジニアリング社の企画担当がAM5研に研修に来て、東京Joypolisにあった植村比呂志さん企画の『TIME FALL』のエレベータの演出を参考にして『タワー・オブ・テラー』が2006年に作られました。副部長が許可しました。本当の話です。

ところで、体感劇場が世界的な話題になったのは、(トランブルさんも利用していた)レディフュージョン社製の揺動装置を使ったディズニーランドの『スターツアーズ』(1987年)が大評判になったからですけれど、この作品に、トランブルさんは係わっていません。でも、先行して体感劇場を作り続けてきたのは、トランブルさんです。最高の映像、最高の揺動の作品を見せてやる。おそらく、『バック・トゥ・ザ・フューチャー・ザ・ライド』を製作していたときのトランブルさんには、そんな気持ちがあったのでしょう。
マイケル J フォックスが出演しませんでしたから、主人公の役は観客が演じます。観客たちがエメット・ブラウン博士(「ドク」)の研究室を見学中に、悪漢のビフがデロリアンを盗んで逃げたことから、「ドク」が観客を呼びに来ます。「大変だ。デロリアンが盗まれた。君たちも試作機のデロリアンに乗り込んで、一緒に悪漢を追ってくれ。」( この場面は、2016-18年の米国のテレビドラマ『タイムレス』に引用されて、そのドラマでも実機が盗まれ、試作機が悪漢を追いかけました。)

それで観客が8人乗りの12台のライドに一斉に乗り込むのですが、観客が主人公なので作品の中で追いかけているデロリアンは一台だけです。ドクの研究室から飛び出たデロリアンは、1989年公開の Part.2 に登場した未来世界を通り抜け、過去に戻って恐竜に食べられそうになって、最後には「現在」のドクの研究室に帰ってきます。また、その揺動については、実写するより先に未来世界などのミニチュア模型の中でモーションコントロール・カメラで数パターンを撮り、すぐにフィルムを現像して30フィート径スクリーンの試作機で上映して、それに動きを付けました。自然な動きが見つかったら、記録されたカメラの動きにあわせて本番を撮影。こうして、ハリウッド・クオリティの映像に最適な揺動が付けられました。

完成までには、18ヶ月掛かったそうです。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー・ザ・ライド』を上演する劇場には、80フィート径の大ドーム型のスクリーンが用意されていて、アルミ蒸着(?)のドームには背面からのスピーカー音を通すための細かい穴がたくさん開いていたそうです。そこに70mmフィルムが、秒60コマで投影されました。トランブルさんが見つけた、大画面への没入感を観客に感じさせる仕様です。この上映設備については、担当したオムニマックス社の技術者が「80フィートなんていう大きさのドームに投影するための、こんなに巨大なランプは、生まれてこの方、見た事なかったよ!」と驚いていたそうです。

それで、話は最初に戻ります。1990年の4月に、ライド製作のヤマ場を越えたダグラス・トランブルさんの会社からSEGA of Americaに連絡が入りました。「当社ではムービーライド用のとても良いコンテンツが作れるのだけれど、要らないかい?」 それが、全ての始まりでした。ちなみに、アメリカでのSEGAは「ジェネシス」(米国版「メガドライブ」)を 1989年9月に発売して、知名度が上がりつつある時期でした。ビデオゲーム『ソニック・ザ・へツジホック』の発売で一気に有名になるのは、翌年1991年の5月です。

AS-1の筺体については先行しての開発が進んでおり、全くの故障知らずで、セガの包括保険のT社の担当者の方からも褒められる高性能の製品(ハードウェア)が出来あがっていたのですけれど、試作してみた国内撮影コンテンツの製作に行き詰って、さて、どうしようか、というのが、その当時の我々の実情でした。そこに世界最高の Rideの専門家から、話が降って来たのです。当方にとっての渡りに船でしたが、実は、先方にとっても渡りに船で、『MUGGO!』の受注で製作チームが解散をまぬがれたことで、次の注文、ラスベガス・カジノホテル「ルクソール」の体感劇場アトラクションのスムーズな受注につながったようでした。

ルクソール・ホテルが完成した1993年の話になりますが、開業時のホテルにはトランブルさんのご紹介で、セガのAS-1 『MUGOO!』を始め、セガのゲーム機器が大量に並びました。AS-1については搬入する経路が無かったので、AM5研のT課長がホテルの外壁に大きな穴を開けて貰って AS-1を設置したそうです。このときの出来事が、今ではセガ社のカジノ事業の実績の一つであると高く評価されています。
というように、最後は、めでたしめでたしで終わった『MUGGO!』の開発だったのですが、

しかしながら、その製作は、いきなりライドフィルム社から A4サイズで34頁もあった英文の開発委託契約書が送りつけられたことで、難航を極めました。だって、向こうの会社に都合の良い事しか書かれていなかったのです。
この契約書については、セガ法務部のOさんと私の二人で(手書き FAX通信の時代なのでアメリカ側と非常に長い時間を掛けて)修正して、どうにか契約にこぎつけたり、試作機を揺動デザイン作成のためアメリカに送ったところ調整が必要になって、WさんTさんと筆者で再度Ridefilm社まで出張したりと、途中では、いろいろの難関があったものの、ようやく『MUGOO!』が完成して公開できたのが、前回記した1992年2月の AOUショーでした。

ところで、AS-1の開発には、本当に多くの方々が努力して下さいました。機器販売の皆さんにもポスター製作やパンフレットの作成でお世話になりましたし(「まんだらけ」や「ヤフオク」では、それなりの値段がパンフレットには付くことでしょう)、研究開発の多くの皆さん(主にAM5研とAM4研)には大変ご尽力を頂きました。AM5研について言えば当初から係わっていたのは、筆者とWさん、Hさん、Tさんの 4人です。Hさんが筺体を、そしてTさんが駆動ソフトを設計してAS-1は完成しました。Tさんは、モーション・デザインの技術伝承においても優れた才能を示しました。それから、モーションベース(揺動装置)については、セガとして初めての大手社外企業との共同開発作品となりましたから、セガから提案した4軸の油圧駆動の素晴らしい揺動装置 を製造して頂いたN社との会社間の「秘密保持契約」も、筆者が神保町の三省堂で参考書を探してきて作りました。名称も、とりあえずセガの社内で稟議書に書くプロジェクト名が必要だったことから、N社の担当係長のKさんと筆者の二人がN社の会議室の片隅で、「じゃあ、Amusement Simulatorの1号機ですから、AS-1にしましょう」と筆者が言って、試作機の型番としても使えるように仮に決めた名前だったのですけれど、S本部長が「それで良いじゃないか」と仰ったことから、AS-1に決まってしまったのでした。

更に、そもそもの始まりを言えば、揺動装置を製造していただいたN社のO部長(後に社長)が、同社の社員たちが試作した1人乗り6軸のモーション・シミュレータについて、セガに飛び込みの電話を掛けて来られ、「どなたか、こんなシミュレータに関心のある人、いませんか?」と売り込みをされたことが最初でした。筆者のデスクにその電話がつながるまでに、何箇所か、たらい廻しにされていたそうですが、電話オペレータの困った声は今でも忘れません。もし私がそのとき外出していて、電話を受けていなければ、『MUGOO!』も作られず、マイケル・ジャクソンのAS-1への出演も無く、もしかするとJoypolisさえも、あれほど評判の仕上がりには、なっていなかったかも知れません。
92年2月にAS-1が幕張メッセで公開されたときに、N社で最初に6軸のモーション・ベースを(趣味のサークルで)試作されたSさんやWさんは、本当に感慨深そうにAS-1を眺めていらっしゃいました。

繰り返しになりますが、AS-1は、たいへん幸せな離陸を経験した大型VRアトラクションとなりました。
 1992年、AS-1 『MUGOO!』公開。
 1993年、AS-1 『スクランブル・トレーニング』公開。
 1993年、AS-1 『メガロポリス』公開。
 1993年、ラスベガスにLuxor Hotel開業。AS-1 『MUGOO!』と、大量のゲーム機をセガ社がホテルに設置。

そして、故障知らずのAS-1の優れた揺動装置は、他の企画でも大活躍しました。
1994年、フジテレビのLIVE UFO '94というイベントのためにセガが協力して共同開発した『米米ミュージックライド』、そして、1994年の横浜ジョイポリス開業を代表するアトラクションである『VR-1』の揺動装置としてでした。
これらについては、稿を改めてお聞かせしましょう。

なお、大画面スクリーンの映像とHMDの画像、更にはテーマパークの演出された風景が「等価」である、ことについて追記しておきます。AS-1のスクリーンとVR-1(後述します)のHMDがVRの構成図中では等価である、ということについて私は講演して、研究者の方々から大変に歓迎されました。それは1995年の「電気・情報関連学会連合大会」(京都大学、8月8‐9日)での出来事で、「アミューズメントの画像処理」と題した筆者の講演は、講演後に会場から長いとても暖かい拍手を頂きました。その予稿は、そのうちどこかに掲示します。また、視野の3分の2を超える大画面による没入感は、トランブル氏によれば「現実の光景」と等価ですので、VRには元来、大画面映像の没入感が構成要素に含まれると定義できます。なお、「電気・情報関連学会連合大会 1995」での講演をご依頼下さったのは、名著、講談社ブルーバックス『マイ・コンピュータ入門』の著者、安田寿明先生でした。

バーチャルリアリティ奥儀皆伝(2)は、こちら。→ こちら

バーチャルリアリティ奥儀皆伝(4)に続きます。→ こちら

♯画像借用元 :
https://themeparkuniversity.com/universal/5-reasons-why-back-to-the-future-the-ride-was-the-best-simulator-ever/
https://www.slideshare.net/StanfordComputationalImaging/build-your-own-vr-display-course-siggraph-2017-part-1

2019.08.08     武田lemon六八六八