[個人史] : 全般
例えばこうだ。
<交渉>
ある晴れた日の公園のベンチにボーーっと座っていると 母親の元から一人の女の子が向かって来た。 私の前に立ち 「一緒に遊んでよ」 と云うのだ。 私はその子を知らない。
日本人の子では会った事はないが、外国人の子は 遊び相手 を自分で決め、自分で交渉する。 私が 母親の方を見ても、母親は離れたベンチから自分の娘の行動の様子を見ているだけだ。
いろいろやりとりして 「(公園にある子ども向けの遊具に)私は乗れない」 と云っても、『そばで見てくれているだけで良いから』 ということで話がまとまった。
<判断>
外国人の子どもで共通するのは次の行動だ。
遊び相手が決まると 子どもは初めて母親の様子を確認する。 遠くからであっても 母親から No! のサインが無ければ Agree (了承)と判断して、私を引き連れて遊び始める。 了承を求めるというより 宣言 した上で、親の意向を確認するといった方が近い。
※ もし母親の視界内になくても、私と遊ぶ事を(自分で)決めた子どもは、こっちへ来いとばかりに私の手を引いて連れて行く場所がある。 その場所とは母親の元である。
日本で云えば幼稚園くらいの子どもでも 必ず 母親に私を見せて (話をさせたりして) 反応を確認するのである。 母親の No! が出なければその後は 私はあちらこちらと連れ回される事になる。
<自立心>
日本人の親を見ていると、子ども本人ではなく 先ず先に親からの信頼を得たか否かが 子どもの行動に出ることは ずっと以前から気がついている。 子どもの行動を見れば 親が(自分や人々に)どのような印象を持っているのかが判るほどだ。
親の判断の上に立った 子どもの自立心 と、幼年でありながらも 個人として判断できる自立心 の違いが 子どもたちの行動からよく見えてくる。
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01/24 『じゃじゃ馬ならし』 という言葉が有った
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ある晴れた日の公園のベンチにボーーっと座っていると 母親の元から一人の女の子が向かって来た。 私の前に立ち 「一緒に遊んでよ」 と云うのだ。 私はその子を知らない。
日本人の子では会った事はないが、外国人の子は 遊び相手 を自分で決め、自分で交渉する。 私が 母親の方を見ても、母親は離れたベンチから自分の娘の行動の様子を見ているだけだ。
いろいろやりとりして 「(公園にある子ども向けの遊具に)私は乗れない」 と云っても、『そばで見てくれているだけで良いから』 ということで話がまとまった。
<判断>
外国人の子どもで共通するのは次の行動だ。
遊び相手が決まると 子どもは初めて母親の様子を確認する。 遠くからであっても 母親から No! のサインが無ければ Agree (了承)と判断して、私を引き連れて遊び始める。 了承を求めるというより 宣言 した上で、親の意向を確認するといった方が近い。
※ もし母親の視界内になくても、私と遊ぶ事を(自分で)決めた子どもは、こっちへ来いとばかりに私の手を引いて連れて行く場所がある。 その場所とは母親の元である。
日本で云えば幼稚園くらいの子どもでも 必ず 母親に私を見せて (話をさせたりして) 反応を確認するのである。 母親の No! が出なければその後は 私はあちらこちらと連れ回される事になる。
<自立心>
日本人の親を見ていると、子ども本人ではなく 先ず先に親からの信頼を得たか否かが 子どもの行動に出ることは ずっと以前から気がついている。 子どもの行動を見れば 親が(自分や人々に)どのような印象を持っているのかが判るほどだ。
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