会衆に交わっている(出席している)、神権宣教学校に入校した女性と以前こんな会話をしました。
「これから奉仕なんですよ。」
「いいなぁ、私も奉仕に参加して、どんな様子なのか知りたい。」
「奉仕に付いて行って見学したらいいんじゃないですか?」
「付いて行くだけでもダメだって言われたんですよ。」
そんなルールがあったとは知らなかったので、その後にWTLで調べてみました。
その記事は、ものみの塔 1989年12月1日号 31ページにあって、「公の宣教を始める,バプテスマを受けていない人についての新しい情報からすると,研究生を誘ってしばらくの間一緒に宣教に携わり,業がどのように行なわれるかを見学してもらってもよいのでしょうか。」という長ったらしい質問です。
内容が少々分かりにくいですが、要は「バプテスマを受けていない伝道者」として認められていなければ、付いて行くこともできないということだそうです。
二世で幼い頃から野外奉仕に連れ出されていれば分かるのですが、そうではない人は野外はどんな反応なのか分からないと思います。
「奉仕会」での実演や「論じる」の問答集を見ると、家の人と普通に会話ができるかのように思うかもしれませんが、実際は挨拶程度で断られることがほとんどで、質問ができたとしても答えてもらえず、中には罵声を浴びせる人もいます。
僕も「訪問拒否」を作ったことが何度かあります。
見ず知らずの人間が突然やってきて、宗教の話をされても不機嫌になる気持ちは分かりますけどね。
そんな現場の様子を伝道者になる前に見学させ「こんな奉仕をする覚悟はある?」くらいの余裕があってももいんじゃないのかな、と個人的に思います。
伝道者になる人がいなくなっちゃうかもしれませんが。
これはもっとふさわしいと思います。
言われている件ですが、奉仕の経験がないときに罵声を浴びせられたとしても問題ないかと。
イエスがのべ伝えなさいといったわけですから、もう様子見なんてする必要はないと思います。
外国での奉仕も経験しましたが、奉仕したければしたほうがいいですよ、最初から。
結局そうやってクリスチャンも本当の信仰かどうか振り分けられるんですから、最終的に。
では。
経験ある開拓者か、司会者と共に奉仕するコトになります。
家の方から罵声や、分からない質問をされた時に、相方(経験ある開拓者か、司会者)が援助するからです。
ひとりで奉仕出来るのは、経験ある開拓者ぐらいです。大抵は、ペアを組まされて奉仕します。
また書かせて頂きます。
歳は食っていますが聖句は殆ど一桁くらいしか開けません。
こう云う聖句があのあたりにある。どの辺にこう云う事が書いてある。ペテロがこう云うことを言っている。くらいしか言えない情けない姉妹ですが、組織の仕組みが分かってからは隣人をエホバの証人の道に誘う事が出来なくなりました。
今は雑誌ルートにお届けするだけです。会話になれば聖書を読みましょうと言えても「この書籍から研究しましょう」とは絶対言えません。
現在1時間でも奉仕をされている方はどんなお気持ちで証言されているのでしょうか。
組織に絶望してもエホバへの信仰は捨てない人と信仰まで無くしてしまう人がいますね。
私は捨て切れずさりとて喜びもなくしておろおろしています。
あちこちのブログにお邪魔しては耳を傾けています。
皆様!どうぞ何故奉仕を続ける事が出来るのか教えてくださいませんか。