
チェーホフのショートショートを読むのにも何ヶ月かかかりました。この文庫本で百ページくらいの戯曲「桜の園」もなかなか読み進めることができません。ちかごろ、ものすごく本を読むスピードが遅くなりました。一生の間にあとどれくらい本が読めるのやらと、少しさびしくなります。
桜の園は、没落貴族のお話らしいです。母親・ラネーフスカヤが女地主。とはいうものの、農奴制度がなくなり、ご当主は亡くなり(?)、それだけではなくて借金のカタとして邸宅も明け渡さなくてはならない。商人やら、使用人、大学生、娘たちが、この母親の帰国を機会にあれこれお話をして、結局これからどうなるのか、というところなのですが、あまり興味が持てなくて、先に進んでいけません。
じゃあ、どうしてチェーホフを義務的に読んでいるんだよ? ということになりますが、これは私の自分探しというのか、好きな人探しというのか……。

中学3年生の国語の教科書で、ガルシンの『信号』という小説を読みました。これは感動的な話で、線路が異常があるので旗を振って、やってくる汽車に知らせようとする主人公を、線路に細工をした張本人が倒れた主人公の代わりに旗を振り続けるというもので、友情とロシアの広大な鉄路と寂しく深い森を感じることができた作品でした。
そこで翻訳家の神西清(じんざいきよし)さんを知りました。高校に入り、岩波文庫で神西清訳の『あかい花』を買い、4つくらいのお話を読み、改めてロシア文学を感じ、このあとショーロホフの『静かなドン』(河出世界文学全集版で3冊)へと挑戦していきました。
神西清がガルシンなのか、ロシア文学とは何か、などあまり考えず、とりあえず出会ったので、読み、何となく好きだから、さらに進み、何が好きなのかを突き止めないままに、とりあえず好きだからという軽いノリで、四十年間ぼんやりしていて、今改めて神西清とは? と、読もうとしています。
彼は翻訳物を出していますが、自伝的な小説も出しています。残念ながら、簡単に手に入らず、今、神西清を知るには、翻訳物しかなくて、とりあえず読もうとしています。なのに、進まない。(青空文庫なら読めますが、パソコンで本を読むという習慣が無くて、読む気になれません)
でも、いい一節を見つけたので、書き写すことにしました。

[トロフィーモフ]人類は、しだいに自己の力を充実しつつ、進歩して行きます。今は人知の及びがたいものでも、いつかは身近な、わかり易いものになるでしょう。ただそのためには、働かなければならない。真理を探究する人たちを、全力をあげて援助しなければならんのです。
今のところ、わがロシアでは、ごく少数の人が働いているだけで、僕の知っているかぎりインテリゲンツィヤ(知識人)の大多数は、何一つ求めもせず、何一つしもせず、差し当たり勤労に適しません。インテリなどと自称しながら、召使は「きさま」呼ばわりする、百姓は動物扱いする、ろくろく勉強もせず、何一つ真面目には読まず、何にもせずに、ただ口先で科学を云々(うんぬん)するばかり、芸術だってろくにわかっちゃいない。
みんな真面目くさって、さも厳粛な顔つきをして、厳粛なことばかり口にし、哲学をならべているが、その一方かれら一人一人の眼の前では、労働者たちがひどい物を食い、一部屋に三十人四十人と、枕もしないで寝ている。どこもかしこも南京虫と、鼻をつく悪臭と、ひどい湿気と、道徳的腐敗ばかりです。
……で、われわれのやる麗々しい会話はみんな、ただ自分や他人の眼をくらまさんためであることは、言わずして明らかです。ひとつ教えていただきたい、――あれほどやかましく喋々(ちょうちょう)されている託児所は、一体どこにあるんです? 読書の家は、どこにあります?
それは小説に出てくるだけで、実際は全然ありゃしない。あるのはただ、泥んこと、俗悪と、アジア的野蛮だけだ。……僕は、真面目くさった顔つきが、身ぶるいするほど嫌いです。真面目くさった会話にも、身ぶるいが出る。いっそ黙っていたほうがましですよ。
[ロバーヒン]いや、わたしはね、毎朝四時過ぎに起き出して、朝から晩まで働きづめでしょっちゅう自分や他人の金を扱っているが、見れば見るほど、まわりの人間がいやになるね。何かちょいと新しい仕事に手をつけさえすりゃ、世間に正直な、まともな人間がどんなに少ないかが、すぐにわかる。
時々、寝られない晩なんか、こんなことを考えたりしますよ、――「神よ、あなたは実にどえらい森や、はてしもない野原や、底知れぬ地平線をお授けになりました。で、そこに住むからには、われわれも本当は、雲つくような巨人でなければならんはずです……」とね。
[ラネーフスカヤ]まあ、巨人が入用ですって……。おとぎ話のなかでこそ、あれもいいけれど、ほんとに出てきたら怖いわ。

このかみ合わない会話は、何なんでしよう? 大学生のトロフィーモフはインテリたちの偽善を訴え、現実のロシアに役立っていないことを嘆いています。商人のロバーヒンは、まじめに商売をすれば国土はよくなるのに、真面目に働いている人が少ないと嘆く。この2人の嘆きを、トンチンカンの女地主のラネーフスカヤさんは、冗談なのか、ボケなのか、よくわからない発言でかき消してしまう。
おそらく、どれもある真実なんでしょうね。インテリたちの行動力のなさと偽善的精神。人民こそ大切だと叫びながら、その人民をこき使うことしか考えず、利己的な上層部・特権階級たち、これらは時代を超えて存在します。
商売のネタはたくさんあるけれど、思うようにもうけるには大規模な力が必要なのに、使用する人間どもは怠惰で、文句ばかり並べ、勝手な意見ばかり言い、役に立たないと考える資本家、ピンボケ・イロボケのお金持ち、こうした人間図鑑として「桜の園」はあるのかもしれません。

そうです。ストーリーを求めてはいけない。各キャラのおしゃべりを楽しんだらいいのかもしれません。気軽な気持で、今日の午後、読むことにします。もう、コリコリ・ドキドキでサッカーを見なくていいし、のんびり構えて読んでみましょう!
桜の園は、没落貴族のお話らしいです。母親・ラネーフスカヤが女地主。とはいうものの、農奴制度がなくなり、ご当主は亡くなり(?)、それだけではなくて借金のカタとして邸宅も明け渡さなくてはならない。商人やら、使用人、大学生、娘たちが、この母親の帰国を機会にあれこれお話をして、結局これからどうなるのか、というところなのですが、あまり興味が持てなくて、先に進んでいけません。
じゃあ、どうしてチェーホフを義務的に読んでいるんだよ? ということになりますが、これは私の自分探しというのか、好きな人探しというのか……。

中学3年生の国語の教科書で、ガルシンの『信号』という小説を読みました。これは感動的な話で、線路が異常があるので旗を振って、やってくる汽車に知らせようとする主人公を、線路に細工をした張本人が倒れた主人公の代わりに旗を振り続けるというもので、友情とロシアの広大な鉄路と寂しく深い森を感じることができた作品でした。
そこで翻訳家の神西清(じんざいきよし)さんを知りました。高校に入り、岩波文庫で神西清訳の『あかい花』を買い、4つくらいのお話を読み、改めてロシア文学を感じ、このあとショーロホフの『静かなドン』(河出世界文学全集版で3冊)へと挑戦していきました。
神西清がガルシンなのか、ロシア文学とは何か、などあまり考えず、とりあえず出会ったので、読み、何となく好きだから、さらに進み、何が好きなのかを突き止めないままに、とりあえず好きだからという軽いノリで、四十年間ぼんやりしていて、今改めて神西清とは? と、読もうとしています。
彼は翻訳物を出していますが、自伝的な小説も出しています。残念ながら、簡単に手に入らず、今、神西清を知るには、翻訳物しかなくて、とりあえず読もうとしています。なのに、進まない。(青空文庫なら読めますが、パソコンで本を読むという習慣が無くて、読む気になれません)
でも、いい一節を見つけたので、書き写すことにしました。

[トロフィーモフ]人類は、しだいに自己の力を充実しつつ、進歩して行きます。今は人知の及びがたいものでも、いつかは身近な、わかり易いものになるでしょう。ただそのためには、働かなければならない。真理を探究する人たちを、全力をあげて援助しなければならんのです。
今のところ、わがロシアでは、ごく少数の人が働いているだけで、僕の知っているかぎりインテリゲンツィヤ(知識人)の大多数は、何一つ求めもせず、何一つしもせず、差し当たり勤労に適しません。インテリなどと自称しながら、召使は「きさま」呼ばわりする、百姓は動物扱いする、ろくろく勉強もせず、何一つ真面目には読まず、何にもせずに、ただ口先で科学を云々(うんぬん)するばかり、芸術だってろくにわかっちゃいない。
みんな真面目くさって、さも厳粛な顔つきをして、厳粛なことばかり口にし、哲学をならべているが、その一方かれら一人一人の眼の前では、労働者たちがひどい物を食い、一部屋に三十人四十人と、枕もしないで寝ている。どこもかしこも南京虫と、鼻をつく悪臭と、ひどい湿気と、道徳的腐敗ばかりです。
……で、われわれのやる麗々しい会話はみんな、ただ自分や他人の眼をくらまさんためであることは、言わずして明らかです。ひとつ教えていただきたい、――あれほどやかましく喋々(ちょうちょう)されている託児所は、一体どこにあるんです? 読書の家は、どこにあります?
それは小説に出てくるだけで、実際は全然ありゃしない。あるのはただ、泥んこと、俗悪と、アジア的野蛮だけだ。……僕は、真面目くさった顔つきが、身ぶるいするほど嫌いです。真面目くさった会話にも、身ぶるいが出る。いっそ黙っていたほうがましですよ。
[ロバーヒン]いや、わたしはね、毎朝四時過ぎに起き出して、朝から晩まで働きづめでしょっちゅう自分や他人の金を扱っているが、見れば見るほど、まわりの人間がいやになるね。何かちょいと新しい仕事に手をつけさえすりゃ、世間に正直な、まともな人間がどんなに少ないかが、すぐにわかる。
時々、寝られない晩なんか、こんなことを考えたりしますよ、――「神よ、あなたは実にどえらい森や、はてしもない野原や、底知れぬ地平線をお授けになりました。で、そこに住むからには、われわれも本当は、雲つくような巨人でなければならんはずです……」とね。
[ラネーフスカヤ]まあ、巨人が入用ですって……。おとぎ話のなかでこそ、あれもいいけれど、ほんとに出てきたら怖いわ。

このかみ合わない会話は、何なんでしよう? 大学生のトロフィーモフはインテリたちの偽善を訴え、現実のロシアに役立っていないことを嘆いています。商人のロバーヒンは、まじめに商売をすれば国土はよくなるのに、真面目に働いている人が少ないと嘆く。この2人の嘆きを、トンチンカンの女地主のラネーフスカヤさんは、冗談なのか、ボケなのか、よくわからない発言でかき消してしまう。
おそらく、どれもある真実なんでしょうね。インテリたちの行動力のなさと偽善的精神。人民こそ大切だと叫びながら、その人民をこき使うことしか考えず、利己的な上層部・特権階級たち、これらは時代を超えて存在します。
商売のネタはたくさんあるけれど、思うようにもうけるには大規模な力が必要なのに、使用する人間どもは怠惰で、文句ばかり並べ、勝手な意見ばかり言い、役に立たないと考える資本家、ピンボケ・イロボケのお金持ち、こうした人間図鑑として「桜の園」はあるのかもしれません。

そうです。ストーリーを求めてはいけない。各キャラのおしゃべりを楽しんだらいいのかもしれません。気軽な気持で、今日の午後、読むことにします。もう、コリコリ・ドキドキでサッカーを見なくていいし、のんびり構えて読んでみましょう!