甘い生活 since2013

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写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

安らぎを求め聖武天皇は放浪五年数度の遷都

2014年06月27日 05時22分46秒 | 三重・熊野さんぽ
↑小泉淳作さんの描いた聖武天皇さまです!



 聖武天皇さんは、701年に文武(もんむ)天皇さまと藤原不比等(ふじわらのふひと)さんの娘の宮子さんとの間に生まれています。お祖母さんは元明(げんみょう)天皇で、ひいお祖父さんが天智天皇になります。なかなかのプリンスです! そして、奥さんには母親の妹の光明子(こうみょうし)さんをもらうんですから、それはものすごく天智・藤原系ですね。

 大仏を作ろうと決められた方なので、平城京が大好きな方だと思っていました。それが、奈良国立博物館の西山厚先生(三重県出身の方です!)の講演を2回ほど聞く機会があって、何度か都を移されたりした天皇様なのだと初めて知ることができました。何だか今まで漠然と持ってきた「聖武天皇と奈良(奈良が大好き!)」のイメージと少し違うなと思いましたが、自分のイメージはあやふやなものだったので、すぐに修正することにしました。

 聖武天皇さんは、都ごと放浪を繰り返された天皇様でした。生まれたのは藤原京で、9つの時には平城京に移り、724年に即位されます。23歳の青年天皇です! 740年の9月に藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱が九州で起こります。

 広嗣さんは親同士が兄弟なので、従兄弟に当たります。不比等さんの孫の広嗣さんがどうして九州にいたのか? そのころ、不比等さんの4人の息子さんがあいついで亡くなった(1937年ころ)ということもあったのです。お孫さんは誰かに妬まれて左遷されたのでしょう。それが我慢できなくて爆発した。すぐに鎮圧部隊が派遣されて、乱は収まるのですが、男盛りの39歳の天皇様は旅に出てしまいます。

 740年の10/29に奈良の都を出発し、749年に譲位されるまで、この40代の十年間は悩みの多い時期だったようで、放浪生活と4回遷都のあとには、光明子との間にできたお嬢さんに譲位されます。このお嬢さんが孝謙天皇で、一度退位してふたたびカムバックしたときには称徳天皇さんになります。そして、お相手は悪評高い道鏡さんということになります。

 奈良時代は、皇族の方々のゴタゴタがいっぱいあって、……皇子さんが死を賜(たまわ)るとかいう下々の者にはわからないドラマがいっぱいです。それはファミリーとしては悲しいけれど、国家としては仕方がなかったのでしょう。権力者としての天皇が次第に象徴的な存在になり、実際に政治を行う者はその取り巻きに代わり、それがやがて地域に根付いて地域を動かす武士になり、その武士の中から国家全体を取り仕切る権力が生まれ、それが武士という職業・地位廃止後は、どの階級からでもトップに立てるシステムへと移行しましたが、それが百何十年か経過するうちに、権力者になるべくして生まれた特権階級(2世・3世議員)たちが政治を牛耳る時代へと代わっています。これからどうなるのか、そんなことは分かりませんが、また違う形へと変化していくのでしょうね。





 740年の11/2に三重県の河口頓宮(かわぐちとんぐう)に到着します。ここで10日ほど滞在し、伊勢の国を移動されたあと、12/15に恭仁京(くにきょう)遷都。742年の8月に紫香楽宮(しがらきのみや)へ移られます。それではあまりに不便だったのか、一気に744年の1/11に難波宮、ここには1年ほど都を置かれ、745年の9月、やっと平城京にもどってこられます。ここを避けたものの、ふたたびここに戻るまでには、いろいろな事情があったと思われます。でも不勉強の私にはよくわかりません。またいつか勉強(する時があれば)します!

 さて、河口頓宮です。現在の三重県津市白山町川口集落の中にあって、いくつか石碑が建てられています。天皇様にもう少し気に入ってもらって、
 「そうだ、ここに都にしよう」と決めていただくと、三重県もそれから違った歴史が生まれたと思います。でも、やはり平城京から遠すぎて、三重県に都は生まれませんでした。ザンネンでした。

……聖武天皇行宮址にあるお寺の医王寺(いおうじ)です!

 初瀬街道は、桜井市の三輪山の南をずんずん東へ向かう道で、どんどん坂道を上っていくので、長谷寺への道はしんどく、ここをさかのぼらないと長谷寺にお参りできません。聖武天皇さんの時代に長谷寺はあったのか……。それらしいお寺はあったようですが、現在の形ではなくて、こぢんまりとしたお寺は存在した。だから、天皇様ならそんなところは無視して東へ向かいます。

 長谷寺辺りを過ぎると、近鉄の榛原(はいばら)あたりに出ます。ここは平野になっていて、都の候補地です。現在は宇陀市という市になりました。少し前の柿本人麻呂さんが「ひんがしの野にかぎろひの立つ見えて……」と歌ったかぎろひ野にも近いところです。ですから、平城京の皆さんも何度か訪れたでしょう。東西の交易ルートでした。

 それから、折角平野に出たのに、また山の中に入ってしばらくすると、近鉄の名張あたりです。でも、ここに都は作れなかったでしょう。ここは平地はあまりなく、南北に山々に迫られていて、圧迫感があります。もう少し東に行くと、広大な伊賀盆地が広がっていて、こちらの方が都として適切な気がします。古墳などもあるみたいですから、古墳時代には実力者がいたはずです。ここまでのぼりつめると、あとは青山高原・布引山地の山々だけで、ここから見下ろすと、海が見えて、何だかはるか遠い国に来た気分になります(たぶん、昔の旅人ならそうかな?)。

 伊勢の国。とりあえず、伊勢神宮はありますが、この伊勢平野に都を置こうという気持にはなれなかったでしょう。都人からすると、あまりに遠い。今も関西の人々からすると、三重県というのは、遠くて、わざわざ行くような所ではなくて、伊勢神宮があるから一生に一度は行くかもしれないけれど、しょっちゅう行くような所ではない感じです。

 (三重の伊勢平野の人々には、名古屋は通勤圏だけれども、関西はあこがれの地です。いつも関西には、熱視線を送っています。しかし、その熱意は関西の人にはあまり通じていないような気がします。一方、三重の伊賀地方の人たちは、自分たちは関西人だという自覚があって、テレビも関西エリアになっています。時々仕方がなく伊勢平野の方へ出てきたりしますが、気分は関西人です。このギャップ、たぶん、東西に引き裂かれているところはみんなそんなもんなんでしょうね……)

 喧噪の平城京を離れ、はるばる伊勢神宮のある土地にたどりつかれた。そうすると、何とも言えないはんなりした人々がいた。平城京の人々のような、最先端の人ではなくて、都の人々をありがたがる、心は関西地方へのあこがれを持ちつつ、自分たちで何かを切り開くわけではないけれど、とりあえず自分たちのペースで着々と生きている、夕陽の似合う町々に住む人たちがいました。そして、この人たちは後に、「伊勢乞食」と呼ばれてしまう、何かに依存する体質の人々になってしまいます。

 聖武天皇さまは、どういうわけか気に入られて、しばらく滞在してみようという気分になったのでした。このあと放浪はつづくのですが、三重県としては千三百年前のご訪問を忘れず、今に伝えています。天皇様御製の歌でもあればもっとよかったのですが、私たちは、どんなことをお考えになってこちらに滞在されたのか、それが不思議で、ただポカーンとしてしまうのです。



★ 昨日(6/27)NHKのブラタモリという番組を見ていて、平城京の成り立ちみたいなのをやっていました。歴史とかにはあまり興味のないうちの奥さんが、わりと好きな町の奈良なので、興味深く見ていたようです。聖武天皇さまは今回はあまり出てこなかったけれど、奈良は藤原氏の都であり、聖武天皇様の都でもあったのだと思います。そりゃ、70年も都だったのだから、いろんな人たちが町を彩っていたんですね。


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