甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

こころはどこにあるのか?

2024年04月06日 21時47分33秒 | 空を見上げて

 昨日、気になってたことの二つが解決しました。一つは転勤していった仲間へのお餞別みたいなもの、もう一つはこれからの準備のこと、二つとも解決したから、こころは晴ればれとすればいいのに、今朝になってみたら、相変わらずドンヨリした気持ちでした。

 いつになったらスッキリとした日々が送れるのか? たぶん、私のことですから、いや私だけではなくて、みんな一難去ったらまた一難、という形で次から次と新しい悩みを抱えることになるのでしょう。そういうものみたいです。

 私は、悩みを抱えているようには見えなくて、いつもボンヤリしているし、お昼寝したらだらけきって、とんでもない脱力した顔で寝ている、なんて奥さんに指摘されます。まさにその通り、何も悩みはないみたいな感じです。

 けれども、どこかには抱えていて、なるべく考えないようにしている。うちの奥さんはどちらかというと悩みに真面目に向き合おうとするタイプ。私はちゃんと向き合っていない。でも、それぞれが自分の悩み方で抱えている。

 そして、どれもこれも簡単には解決できなくて、少しずつ解消に向かうように努力したり、家族の支えがあったりなかったり、あれこれしながら悩みに向き合っていく。


 悩みは生きていく時のエネルギーになったりするのかもしれません。

 今朝の私は、奥さんが散歩に出た、というところまでは記憶にあったけれど、彼女の後を追いかける気力もなくて、くもりなのに偉いなあ、くらいしか思わなかった。

 けれども、庭のメダカ鉢を見てみたら、ちゃんと朝起きて、みんなお腹が空いたような感じでプカプカしているのを見たら、「あら、メダカにエサをあげて、あちらこちら出ている草を抜いて、枯れ枝を片づけ、コンポストの土をかき混ぜなきゃ!」と思いました。そういう心になりました。

 朝ゴハンを食べて、少しネットを見てみようとし、ザッと見たら、何だかネットを見る気力はなくなりました。それよりも、庭仕事をするべきじゃないのか? それもあるけど、サクラをどこかに見に行ってもいいんじゃないのか? 

 それとも、もう終わりかけのハッサクを買いに行くのはどうか? 母の大好きなタケノコはもう出ているけど、今はどれくらいの値段なのか、見て来なくちゃ! などの心が動きました。


 サクラは、少し山の方へ向かって、誰もいないような山里のサクラを見ました。誰もいないとはいえ、何かイベントもあるみたいで、クルマも何台かやって来たので退散して、ハッサクを産直で買い、タケノコも確認して、目的などはいくつか達成しました。
 
 そして、夫婦でドライブも久しぶりで、ゆっくりしたスピードで走り、警察の方たちが一時停止をチェックしていたところも見事にクリアして、平和に帰って来れました。


 こころは、あまり動かなくて、サクラもキレイだったし、山里は静かだったし、奥さんと一緒にドライブしたりお買い物したり、どれも楽しい時間を過ごせました。

 でも、何だか、私のこころは不在なのです。体はそこにあるし、楽しいし、ゴハンもおいしい。花粉はイヤで落ち着かないけど、花粉を遮断してしまえばひとごこちつけるのです。

 そこで、大いに心を動かして何かに取り組めばいいのに、何となく気だるく、こころは動かなかった。


 そういうこと、確かこの前の富士山の時にも経験しました。生身の体は、富士山を前にしている。それを経験しようというたくさんの観光客に囲まれていた。空は晴れて、クッキリ富士山は見えた。みんな一様に感動しているように見えた。少しまわりに人が多すぎるけど、みんな感動をしている。

 でも、こころが動いて行かなかった。感動もしているのに、ずっとそこにクッキリとあるのに、写真もたくさん撮ったのに、ただ何となく見ているだけだったのです。河口湖駅に着いた時なんかは、乗ろうと思ったバスにあぶれて、これでは東京まで出て、大回りで静岡のホテルに行かなきゃいけないのかと目の前が真っ暗の気分でした。心は消し飛んでいた。


 ひよっとすると、こころとは、どんなにすごいものを見ても、宇宙にいても、太陽を見ても、ブラックホールを目の前にしても、マチャピチュ遺跡を見ても、モンサンミシェルを見ても、ストーンヘンジをみても、ニューヨークの町を歩いてても、ただ見ているだけで、少し感動するけど、動いてこないのではないか、と思うのです。

 富士山を見たら、「キレイだね」と一緒に共感する人が必要です。世界のどんなすごいところにいたとしても、それを共に感動する仲間がいる。一人でも感動できるこころを持っていると豪語しても、それを文にしたり、絵にしたり、写真を撮ったり、何かの形で心の軌跡を記録しなくては、心が動いたのを示す証拠にならない。うまく感動をお話に仕立てる才能があれば、何も証拠を見せなくても誰かに共感してもらえるだろうけど、それができない人は、ただ悶々として手足をバタバタすることくらいしかできないでしょう。

 そんなのじゃ、誰にもこころを共有し合えない。話すか、見せるか、何か伝えなきゃいけない。そういうことができてない私は、こころはどこにあるのか? 私は今、何がしたいのか? 私の悩みは今は何か? それらを言葉にしなきゃいけないところに閉じ込められています。

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