
ココロはどこにあるのか?
たぶん、私の体のどこかにあるんだと思うんですけど、私がこの世からいなくなったら、私のココロはなくなってしまうのかと思うと、少し悲しいですけど、でも、私がいなくなっても、ココロを残せるかもしれない。
そのためには、なるべくいろんな人に関わりを持って、ココロを伝えたらいいのかな。いやいや、そもそも私のココロなんて、つまらないものではないのか?
卑下したり、卑屈になったり、そんなことをしている場合ではないです。私のココロとはどこにあるのか、それはどんな風に伝えたらいいのか、考えたいと思います。
まあ、私がいなくなったら、私のココロなんて、消えてなくなります。それは仕方がないことです。世界のすべての人が受け入れてきたことです。でも、私はたとえば、父のココロを受け継いでるつもりですけど、少し怪しいでしょうか。ココロはどこにあるのか?

昨日、本を読んでて、気になるところがあったので、抜き書きしてみます。
魂とは何かは、日本のこととしても時代によって同じではないので一筋には行かないのだが、比較的確実にいえる一つのことは、それが心とは質がちがうものだという点である。
古く「群肝(むらぎも)のこころ」とか「肝向ふところ」とかいわれているに徴しても知りうるように、心は身体器官としての内臓とかかわり、それらの器官の内具する知情意のはたらきを意味した。
ねっ、おもしろくないですか? 心は内臓と関連していたなんて、確かに「肝がすわる」とか、「肝っ玉母さん」とか、肝臓と関係したり、「腹をすえる」「腹をくくる」の腸に決意させたり、覚悟する時は内臓がものを言うらしいですもんね。
沖縄では心のことをキム(肝)といい、魂の方はマブイという。語源的にココロは、オノゴロ島などという場合の「凝る」と同じで、内臓器官の姿や形に関係のある語ではないかと思う。
どっちが先かはわかりませんが、私たちは内臓器官と心の関係は密接であるというのを見つけて、それを言葉にしてきたようですね。

それに対し魂は、内臓に局在するのではなく、容器としての身体の深部に棲みこみ、そして人間の生命を支える神話的あるいは形而上的な、つまり非物質的な何ものかである。
しかもそれは睡眠中とか恍惚や失神の状態とかには身体から分離しうるとされていたようで、この点「魂消(たまげ)る」といういいかたには深い歴史が刻まれている。眠っているのを急におどろかしたりすると「魂消る」のは、分離していた魂がうまく身体にもどれなくなるからだ。いうまでもなく死においてこの分離は決定的になる。
今読んでいる西郷信綱さんの「古代人の夢」(1993平凡社ライブラリー)からの抜き書きでした。
心は、体の内臓につながっている。腕やてのひら、足首、ふくらはぎ、髪の毛、そういう末端ではなくて、体の中心の、内臓のようなところにある、と昔の人たちは感じ、現在の私たちも何となくそんな気分にはなっています。

ココロは内臓にある。おもしろいです。
それに対抗して、魂はどこにあるのか?
魂は、分離可能なものらしくて、時として体から抜け出して、いろんなところに出て行くようです。それを誰かに受け止めてもらう場合もあるようです。
そうか、ココロは私だけのものだけど、魂は誰かに伝えることができる。本人が持っている時には、体の深いところにあって、簡単には取り出せない。でも、職人魂とか、草魂とか、いろんな形で見せることができるようです。
そう、私は「父の魂」を、どこかで受け継いでいる、そういうつもりでいればいいのか。父のココロは、父の身体がなくなった時点で消えてしまったのか。でも、魂はあるんだ。そういう風に考えていきます。
割とシンプルで面白いかなと思ったんですけど、どうですか?