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甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

独裁者は生まれ変わっていく

2021年10月04日 21時17分07秒 | 戦争と平和

 チャップリンの「独裁者」は1941年だったでしょうか(調べたらすぐにわかるんだけどな……)。

 チャップリンは二役で、床屋のチョビ髭の店主と独裁者の二役をやっていました。いつものことながら、二人は入れ替わってしまうドタバタが仕組まれます。床屋の店主が恐ろしい独裁者に祭り上げられてしまう。そして、床屋の店主は、独裁者にはとても言えない、みんなの連帯と好きな女の子への愛を語りかける。それらはラジオを通じて流され、一瞬の安らぎは得られたかもしれないけれど、すぐに化けの皮がはがれて、床屋の店主は捕まるはずでした。まあ、そんなところは描かれません。微かな希望だけで終わるはずでした。

 いい加減なことを書いています。いつものことながら。

 でも、チャップリンのこの映画の構造。圧倒的な力を持つ独裁者と、ごく普通の人生を歩いている人間と、実はそんなに変わらなくて、立場を変えれば、ふつうの人は独裁者にもなれるし、独裁者はふつうの人的なものも本来は持っていたのに、どんどんそれらをそぎ落として行って、行きつく先が独裁者だったのだということを示している気がしました。善良な人間と、恐ろしい独裁者、全く違うように見えて、実は根の部分は同じ。映画では、どちらもチャップリンが演じているし、チッャプリンはどちらの部分も自分の中にあると感じていたのかもしれません。

 そういう善良な人間が、「殺人狂時代」みたいな人にもなってしまう。これも、チャップリンは演じています。そして、世の中全体も戦争に突入していく。よくぞ、そういうメッセージを伝えてくれたと、アカデミー賞でもあげたらいいのに、ハリウッドはチャップリンを追放し、彼はヨーロッパに移住してしまいます。

 独裁者は、その領域に達するために、いくつかの自分らしさをそぎ落としていきます。それは、別に独裁者じゃなくても、権力者も同じことです。そこにたどり着くために、言いたいことも言わず、おかしいと思ったことにもフタをして、自分らしさは置いておいて、みんなの意見に振り回されながら、冷血漢の権力者になり、それを維持するためだけに生きることになるのだと思われます。日本で行われた政治劇も同じなのだという気がします。

 最初はそれらしくしていたのに、どんどんキャラが変わっていく。そういうことが世界中で行われているんでしょう。権力って恐ろしいものではあります。


 昨日の夜、李鋭さんという百いくつまで生きて中国の共産党と毛沢東の側近にもなった人の記録をもとにしたNHKの番組を見ました。資料は中国ではなく、アメリカの大学かどこかに寄贈されたということでした。中国では抹殺される記録ではあったんでしょう。

 膨大な手書きの記録は投獄された20年、権力の中枢にいた時期、追放された時期、引退して知人の息子である習近平さんに手紙を送り続けたこと、そうした生きて、書き、伝え、残し、考えたことなど、そのほんの一部が紹介されていました。

 番組の中でも語られていましたが、毛沢東(1976年の死去まで)、鄧小平(21世紀くらいまで?)、江沢民(いつまで?)、習近平と、トップに立った人の絶対的な権力は、まるで王様というか、それ以上のものすごい力であった(ある)というのを思い知りました。

 習近平さんは、終身権力者になったそうです。過去の権力者の歩いてきた道を歩こうとしている。彼には引退はありません。彼が亡くなるまで、彼の権力は続きます。彼が過てば、たくさんの犠牲者は出てしまう。けれども、彼は責任を問われることはなく、思いのままに権力をふるうはずです。彼は死ぬまで偉大な指導者でありつづけ、責任を問われるのは、いつのことになるのか、私には関われない遠い未来のことでしょう。

 いつか、彼も引退する時が来るだろうけど、新しい王様の卵を持ってきて、新鮮な存在として据え、その人もやがては権力者に育っていく。

 そういうことの繰り返しであったというのを、近年百いくつまで李鋭さんは見てきたのだそうです。

 李鋭さんが毛沢東の魅力に引き込まれたのは、中国共産党の聖地・延安というところからです。80年くらい前になるのかな。ここで雌伏していた毛沢東に触れ、彼の思想を信じ、彼と新しい中国建設を夢見たのです。長い戦争のあと、1949年に建国し、毛沢東の考えにより、土地制度は人々に恩恵をもたらす。けれど、すぐに毛沢東思想の実践によって人々が疲れていくのが見えてしまった。思想を現実のものにしようという毛沢東思想はズッコケたのです。何もかもみんなで作ればなんとかなる。私有せず、すべてを共有するなんて、人間というものが見えてなくて、あまりに観念的だったのです。

 毛沢東を批判できる人は何人かいたけれど、そういう人たちはやがて粛清されていく。毛沢東は、一線から退くポーズは見せたものの、すぐにカムバックする作戦をあれこれ考え、権力を取り戻すと、粛清の嵐、気に入らないライバルは次々と追い落とし、自分の地位を安泰にしていくのでした。

 権力を握ったものの恐ろしさでした。もう何もかも信じられなかったでしょう。若い子どもたちくらいしか彼が信じられるものはなかったし、子どもたちくらいしか、彼の言うことを信じる人がいなかったのかもしれません。

 そういうのを目の前で見、批判的なことを述べたのかもしれない李鋭さんは、20年地方に飛ばされ、刑務所に入れられるのでした。けれども、ふたたび権力に呼び戻され、戻ってきたところで、毛沢東も亡くなり、新たな中国を生み出さねば、と年寄りながらも意気込んでいたら、相変わらずの権力移譲が行われ、権力者の独りよがりは、まったく変わらなかったし、これからも続くのを目にしてしまう。

 すでに共産党は、政治システムではなく、ただの権力者を作り出していくだけの中国古代の帝国へと変化してしまったというのです。王様への忠誠・崇拝、絶対の権力。何千年もやって来た中国古来の権力システムに変わってしまった。そこには人々の意見を容れるところはなく、人々は権力に黙って従うしかない。そうなってしまったというのを述べておられました。


 暗澹たる気持ちで、それらの番組を見て、いつかはこの王制も終わるだろうけど、とどまるところをしらない権力拡大は、アメリカ、オーストラリア、インド、東南アジア、日本といった国々からずっと警戒されながらも、続くのだろうと思いました。

 私たちは、それをどうにかしてガス抜きしなくちゃなと思うのです。大きく膨らんだら、爆発するだけなんですもん。昔の日本と同じです。いつか拡大を止められてしまうでしょう。内部崩壊なのか、外圧なのか、自然災害なのか。

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