
NHKのBSで放映中の「こころ旅」2015年のシリーズの2週目は三重県の旅でした。
初日は、紀北町の魚飛渓の透き通る水でした。2日目は志摩市の横山展望台でした。3日目はこの前うちの子とナゴヤに行ったときに通った鈴鹿川の鉄橋でした。明日は四日市のどこかへいくらしいです。
残念ながら、私の原稿はボツになりました。まあ、仕方ないですね。ふたたび岩手県の時にチャレンジしようかな。でも、無理矢理参加するのもわざとらしいし、もうチャンスはないですね。
とにかくボツ原稿におつきあいください。よろしくお願いします。

私のこころに残る風景は、太平洋を見下ろす阿田和駅前の遊歩道です。
私は30まで大阪に住んでいました。定職に就けず、妻子を抱え、どうしたらこの社会に生きていけるのか、ものすごく不安な毎日を送っていました。子どもが生まれたし何とかしなくてはと、地元を半ば諦めて就職試験の全国行脚をして、私は三重県に拾われました。
最初の赴任地が、県の南の御浜町阿田和という所でした。大阪から紀伊半島の裏側へ行くという実感がないままに、赴任の日は近づき、大阪生活を清算させ、三重県での家族3人の生活がスタートしました。
私たちが住むことになった阿田和駅のすぐ近くの住宅、ここには6年間住みました。住宅は海から数百メートルは離れていたはずですが、さえぎるものが何もないせいか、海の音はものすごくストレートに響いてきて、波が高い日には押す音・引く音ともに町中にこだまするようでした。
というのは、浜には砂が全くなくて、すべてが石ころで、一度海が荒れたなら、石が波にもてあそばれて、お互いをたたきあって、それはすさまじい音がするのです。硬くはじける音が一晩中とどろく夜が何度も何度もありました。
普段は真っ黒で、一直線の松林のむこうに静かに広がっている海なのに、それが荒れる時にはものすごいことになるのです。ですから、荒れる海はいつも家の中で聞くものでした。実際に見に行ったことはありませんし、そんな無謀なことはしないものだと自然と理解できたような気がします。

さて、阿田和での私と子どもの楽しみは、食事が終わって、妻が片付けをする間に外に出かける散歩でした。駅周辺は、昼間は子どもたちが遊んだすべり台や、自宅近くにあったリス公園など、すべてが静まりかえっていて、クルマも少なくなり、星が瞬き、みかんの花が匂う、それはもう驚くほど穏やかな時間が流れていたのです。
私たちは手をつなぎながらいろんな話をしました。妻が機嫌の悪い時には、お母さんのことを心配してあげたり、子どもが話しかけてくれる時には、その話を聞いてあげたり、他愛もない時間を過ごしました。
しばらくすると妻が私たちを迎えに来てくれて、さあ、おうちに帰ってお風呂に入ろうと、家族3人で家までの短い散歩のしめくくりをしたものです。
子どもにとっては、唯一の故郷、私たち夫婦には最良の子育ての地、三重県御浜町阿田和を、もしよかったらお訪ねください。お願いします。

というものでした。残念ながらボツでした。でも、まあ私たち家族の三重県の思い出といえば、ここになります。今住んでいる松阪市にもこころの風景はあるような気がして、何度か散歩をしていますが、これはまだまだ育成中です。こころの風景なんて、簡単にできるものではないので、20年目の松阪生活だけど、何かこころに残るものをつくっていけたらと思います。
というのか、松阪は今も生活の場所なので、ここが心の風景というのは少しだけ苦しい気がします。
そうだ、私が初めて三重県に来ることになった20数年前、松阪のお城公園に上って、駅方面を見渡すと、街が一望の下に見えたんですが、すぐ足下を見ると、公園の中にコンクリートでつくられた恐竜たちが2、3体あって、あれは少しだけこころに残っていますね。

あの恐竜たちは、松阪市にふさわしくないということで取り壊されたりしましたっけ。
いや、松阪だけじゃなくて、天王寺の動物園にもコンクリートの恐竜たちがいました。天王寺から大正方面に環状線で行くときにだけ、高架を走るので動物園を見下ろすような形で、園内のいちばん南側の池のそばに恐竜たちが見えましたっけ。あれを環状線の窓から眺めるのは好きでした。大きくなってからも、たぶん高校生くらいまではあったような気がします。
あの恐竜たちがいなくなってから、私と天王寺動物園との縁が切れてしまいました。でも、今はオッチャンになったから、ふたたび1人でもいいし、奥さんとでもいいから、動物園に遊びに行ってもいいですね。何だか新しい発見がいっぱいありそうな気がします。
心の風景って、今はなくて、こころの中にしか存在しない風景ということになるのかなぁ。
そういうことですね、きっと……。
初日は、紀北町の魚飛渓の透き通る水でした。2日目は志摩市の横山展望台でした。3日目はこの前うちの子とナゴヤに行ったときに通った鈴鹿川の鉄橋でした。明日は四日市のどこかへいくらしいです。
残念ながら、私の原稿はボツになりました。まあ、仕方ないですね。ふたたび岩手県の時にチャレンジしようかな。でも、無理矢理参加するのもわざとらしいし、もうチャンスはないですね。
とにかくボツ原稿におつきあいください。よろしくお願いします。

私のこころに残る風景は、太平洋を見下ろす阿田和駅前の遊歩道です。
私は30まで大阪に住んでいました。定職に就けず、妻子を抱え、どうしたらこの社会に生きていけるのか、ものすごく不安な毎日を送っていました。子どもが生まれたし何とかしなくてはと、地元を半ば諦めて就職試験の全国行脚をして、私は三重県に拾われました。
最初の赴任地が、県の南の御浜町阿田和という所でした。大阪から紀伊半島の裏側へ行くという実感がないままに、赴任の日は近づき、大阪生活を清算させ、三重県での家族3人の生活がスタートしました。
私たちが住むことになった阿田和駅のすぐ近くの住宅、ここには6年間住みました。住宅は海から数百メートルは離れていたはずですが、さえぎるものが何もないせいか、海の音はものすごくストレートに響いてきて、波が高い日には押す音・引く音ともに町中にこだまするようでした。
というのは、浜には砂が全くなくて、すべてが石ころで、一度海が荒れたなら、石が波にもてあそばれて、お互いをたたきあって、それはすさまじい音がするのです。硬くはじける音が一晩中とどろく夜が何度も何度もありました。
普段は真っ黒で、一直線の松林のむこうに静かに広がっている海なのに、それが荒れる時にはものすごいことになるのです。ですから、荒れる海はいつも家の中で聞くものでした。実際に見に行ったことはありませんし、そんな無謀なことはしないものだと自然と理解できたような気がします。

さて、阿田和での私と子どもの楽しみは、食事が終わって、妻が片付けをする間に外に出かける散歩でした。駅周辺は、昼間は子どもたちが遊んだすべり台や、自宅近くにあったリス公園など、すべてが静まりかえっていて、クルマも少なくなり、星が瞬き、みかんの花が匂う、それはもう驚くほど穏やかな時間が流れていたのです。
私たちは手をつなぎながらいろんな話をしました。妻が機嫌の悪い時には、お母さんのことを心配してあげたり、子どもが話しかけてくれる時には、その話を聞いてあげたり、他愛もない時間を過ごしました。
しばらくすると妻が私たちを迎えに来てくれて、さあ、おうちに帰ってお風呂に入ろうと、家族3人で家までの短い散歩のしめくくりをしたものです。
子どもにとっては、唯一の故郷、私たち夫婦には最良の子育ての地、三重県御浜町阿田和を、もしよかったらお訪ねください。お願いします。

というものでした。残念ながらボツでした。でも、まあ私たち家族の三重県の思い出といえば、ここになります。今住んでいる松阪市にもこころの風景はあるような気がして、何度か散歩をしていますが、これはまだまだ育成中です。こころの風景なんて、簡単にできるものではないので、20年目の松阪生活だけど、何かこころに残るものをつくっていけたらと思います。
というのか、松阪は今も生活の場所なので、ここが心の風景というのは少しだけ苦しい気がします。
そうだ、私が初めて三重県に来ることになった20数年前、松阪のお城公園に上って、駅方面を見渡すと、街が一望の下に見えたんですが、すぐ足下を見ると、公園の中にコンクリートでつくられた恐竜たちが2、3体あって、あれは少しだけこころに残っていますね。

あの恐竜たちは、松阪市にふさわしくないということで取り壊されたりしましたっけ。
いや、松阪だけじゃなくて、天王寺の動物園にもコンクリートの恐竜たちがいました。天王寺から大正方面に環状線で行くときにだけ、高架を走るので動物園を見下ろすような形で、園内のいちばん南側の池のそばに恐竜たちが見えましたっけ。あれを環状線の窓から眺めるのは好きでした。大きくなってからも、たぶん高校生くらいまではあったような気がします。
あの恐竜たちがいなくなってから、私と天王寺動物園との縁が切れてしまいました。でも、今はオッチャンになったから、ふたたび1人でもいいし、奥さんとでもいいから、動物園に遊びに行ってもいいですね。何だか新しい発見がいっぱいありそうな気がします。
心の風景って、今はなくて、こころの中にしか存在しない風景ということになるのかなぁ。
そういうことですね、きっと……。