甘い生活 since2013

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神道原理主義の森?

2023年05月27日 21時16分54秒 | 三重・熊野さんぽ

 先日の外宮につづいて、今日は内宮にお参りしました。久しぶりでしたね。

 おかげ横丁もたくさんの人がいました。でも、どこにも私が入れるお店はなくて、サッと通り過ぎて、お参りして、何年ぶりかでバスで伊勢市駅まで行ってみました。なんとバス代は470円もかかってしまった。距離的にはものすごく短いのだから、もう少し安くしてもいいと思うんですが、路線バスも観光地対応の価格体系でした。少し驚きでした。

 伊勢神宮というのは、20年に一度遷宮ということで、建物を新調して、神様も夜中にたくさんの神主さんたちに守られてお引越しをされます。だから、というわけではないけど、建物もわりとシンプルだし、基礎工事などもなくて、柱を立ててそこに屋根などを重ねていくのだと思われます。

 何にもしないと当然下の方は腐ってくるわけだから、雨よけ・湿気よけ・清浄施設など、あれこれ工夫はあるはずですが、基本はとても質素です。

 屋根の上に、少しだけ装飾はあるけれど、それも実用的な要素があるんでしょう。

 建物がそうですから、神宮の森も具象的ではいけません。御手洗もある。でも、内宮の場合は、五十鈴川にふれる場所もあるので、そちらで手を清めればいいのです。私は肩に下げたカメラを落っことしそうで、危なかったけれど、本来はカメラなんてしまわなくてはいけなかった。

 お参りもして、帰り道を歩き、水をたたえたところがあったので、遠望してみると、何やら黄色いお花がついているように見えました。

 これは画期的というのか、信じられない光景でした。杉の大木は、上の方でモシャモシャしているだけで、参道では何にもない立派な木肌を見るだけです。他の木々も、たいていは花をつけない木だけに限定されている森なのです。

 ここでサクラやウメを見たことがないような気がします。アジサイなんて植えられていません。紅葉する木もなかった気がする。イチョウ、モミジ、ハゼの木、その他自然にしていたら、いろいろと具体的に変化していく木々たちは、内宮の限られたスペースの中では排除されていました。

 そりゃ、内宮ですから、神道の一大展示場ですから、神様をおまつりするところはかくあるべしと、原理主義的になっている。

 もっとゴチャゴチャとしたところがあってもいいのに、ここだけはやたら厳しく森全体が管理されていました。

 でも、池の上の植物に黄色い花がついていたんです。原理主義が壊されていた。とはいうものの、岸からは遠く、黄色い花よりもみんな赤いコイだとか、大きいのがいるって、コイたちに目を奪われていた。


 先日歩いた外宮も、木の花が黄色くなってる木を見つけはしましたが、あまり目立たなくて、これは許されて咲いているのかもしれないなと思った次第でした。

 お札やお守りに関しても、神社によっては干支の土鈴とか、木彫りおみくじとか、具体的な形を与えて人々に買ってもらうモノがあったりします。でも、伊勢神宮にはそんな俗っぽいものはありません。お札とお守りくらいです。だから、人々は何を神様から頂けばいいのか、それなりに悩んで何かを買って、神宮の袋に入れてもらっているようでした。

 そして、なんと朱印状は、最近の流行りなのか、そんなのは昔はやっていませんでしたが、それ対応の行列があって、二人の係の人が一生懸命に朱印対応をされていました。

 朱印は、具体的な形はないから、文字だけですからOKでしたか。ああ、伊勢神宮って、徹底的に見えないものだらけだし、形がないんでした。でも、今日は久しぶりに立派なオンドリに出会って、数少ないイセの神様の世界の中の具体的なものを見つけられました。

 昔の人々は、神道って、何だかとらえどころがなくて、つかみきれないし、モヤモヤする感じはあったでしょうね。だから、仏教のいろいろなホトケさまたちに形を借りて、神仏習合というのを編み出した日本人の知恵があった。

 千年ほどのごちゃまぜの歴史は切断されて百数十年、これから日本の宗教は、どんな形に変わるのか、私にはわかりませんけど、神仏習合の伝統は見えないようでどこかに隠れているから、ふたたび日本独自の形に戻るのか、それとも原理主義が強くて、仏教や具象を徹底的に排除するのか、何百年後のことは私は責任を持てません。

 果たして、その時に日本の人たちはどうなっているのか、一億二千万が何千万になっているのか、予想もつきません。とにかく今、伊勢神宮は繁盛していました。



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