弓道修行日記

このブログに、弓道修行する中で、学んだこと、考えたこと、試行したこと等を書き残し弓道修行の友とする。

新国立競技場建設の設計はあらゆる事を考えてSANAAにすべきだった

2013-01-23 | 意見発表

2012年夏、総工費1300億円、8万人収容の新国立競技場建設計画のコンペが行われた。敷地は11万3000㎡。現在の国立競技場を建て替えオリンピックのメインスタジアムを目指す国際コンペで、日本の建築集団SANAAも応募した。

しかし、日本での審査員達はイギリスのザハ・ハディドの設計を採用した。

それは、正しかっただろうか。

 

ザハ・ハディドとSANAAは強敵関係にある。

2112年12月フランスのルーブル美術館の新館のルーブル・ランスが完成し、その設計を担当した設計集団である日本のSANAAをフランス大統領は讃えた。

その、コンペの審査状況は、東京の新国立競技場建設計コンペ同様最初はザハ・ハデイドが優勢であったが、協議して行くうちに次第にSANAAが追い上げて最終審査では同票となり、ルーブル美術館館長アンリ・ロワレット館長の決定にゆだねられ、館長はSANAAに決定した。

東京の新国立競技場建設計のコンペはルーブル・ランス同様ザハとSANAAの争いになったが、日本の審査員の選択眼の無さか、外観のすごさのザハに目を奪われたのか、自然との調和をコンセプトにしたSANAAは選ばれなかった。日本の審査員達はフランスのルーブル・ランスの決定と逆の決定をしたのである。

 SANAAは下記(NHKの書き起こし)に書いてあるように世界で活躍し賞を受賞し実績を上げている。2004年ベネチアビエンナーレ国際建築展、金獅子賞、2010年は建築界のノーベル賞といえる「プリツカー賞」も受賞し、日本の誇りと言える建築集団である。(私はこの番組を見るまで知りませんでしたが)

 日本は、オリンピック招致を目指して頑張っている。そのオリンピックのメインスタジアムになる新国立競技場はできるだけ純日本製であることに意義がある。

ザハとSANAAの設計の質に大差があるのならいざ知らず、ここで日本が誇るSANAAの設計でメインスタジアムを建設してこそ再生日本、自然を大切にする日本、日本の美の表現のスタジアム・・・といろいろな意義があると私は考える。

 オリンピック招致の口実・売り文句にもなり、日本のオリンピック会場を世界に示す、日本宣伝の好材料となると考えるが、日本人審査員は考慮の浅さから、意識の低さから、SANAAは採用しなかった。

建築家安藤忠雄とルーブル美術館館長アンリ・ロワレットとの芸術的視点の違いと言うべきでしょう。

 NHKで放送されたSANAAの特集。NHKもオリンピックのメインスタジアムはSANAAと決まったら最高の番組になっていたことでしょう。

残念なことにルーブル・ランスとは逆の事態になった。しかし、番組は素晴らしいものだったと思います。だが、見ている者にとって何故、SANAAでなかったのか・・・という残念さが強く残った番組となりました。いつか日本の選考委員たちは自分たちの誤りを気づいて欲しい。そういう思いを込めて文字起こしをしました。

―見えしとこ、皆打つは 下手そかりー(碁の十訓の一つで、表面に見えたとこで打ってはいけないと言う教え)―

 ベネチアビエンナーレ国際建築展、金獅子賞の「ビエンナーレ」で私が思い出すのが棟方 志功です。

1956年(昭和31年)、ヴェネツィア・ビエンナーレに『湧然する女者達々』などを出品し、日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞」(ウィキペディア)

と言うように、ベネチアビエンナーレで賞をもらってあの棟方 志功さんが日本で有名になったと思っています。

つまり、外国で評価され日本での評価が遅れた、浮世絵だって、日本の芸術だって、日本は日本の良さを外国から教えられないと気づかないのです。

これを日本の浮世絵現象と言うことにします。 

敢えて言います。新国際競技場はSANAAにすべきだった。

―岡倉天心は西洋一辺倒の時代に日本の伝統技術を守り通した。―日本は岡倉天心の精神を活かすべきだった。フランス人は日本の伝統美を採用したが日本の審査員は日本の良さを知らなかった音痴ならぬポンチだ。(ポンチ:本痴=日本を知らない人)―

日本の柔道さえフランスに教わって改革を始めている。弓道でも同じことが起きる可能性があるのです。 

SANAA世界で活躍 日本人建築家の挑戦!

NHK総合2013年1月19日放送

2012.12.4ルーブル・ランス

フランスの大統領が新しい美術館の完成を祝福して「美術館は作品を展示するだけでなく建築そのものが創造的でなくてはならない。ルーブル・ランスの建築家を祝福する。」と建築家をほめた。

大統領がほめたたえた建築家は日本人の二人組SANAA妹島和世と西沢立衛

SANAAが設計したルーブル・ランス、世界が注目すルーブル美術館の新館である。パリから北へ200キロ、地方都市ランスに姿を現した。アルミとガラスの美しさが目を引く。パリのルーブルとは対照的な斬新な現代建築である。

ルーブル・ランスのメインギャラリー「時の回廊」6000年に及ぶ人類の遺産、ルーブルのコレクションから選び抜かれた205の作品が時空を超えて最先端の建築と巡り合った。

日本より海外で知名度が高いSANAA、数々の国際コンペをものにし独創的な建築を作り出した。日本における代表作は金沢21世紀美術館、どこからでもアプローチできる円形の建物、カーブしたガラスに緑が写り込み、街の風景と溶け合う。解放感にあふれ建物の向こう側まで見渡せる。四つの中庭が設けられ、建物の内部にも緑と光があふれる。これまでの建築の常識を打ち破り、すべての人に開かれた空間を実現した。

2004年ベネチアビエンナーレ国際建築展、金獅子賞。

アメリカ建築史家ビクトリア・ニューハウス「SANAAは建築界に革命を起こそうとしています。新しい作品が生まれるたびに新鮮な驚きがあります。」

ルーブル美術館館長アンリ・ロワレット:「SANAAの建築を見た瞬間胸がドキドキしました。まるで恋に落ちたみたいに、」

世界で最も尊敬される日本人の仲間入りをした二人、だが建築の仕事を始めた1990年ころにバブルが崩壊、どん底で明日をも知れぬ毎日を送っていた。二人は如何にして逆境を乗り越え世界に飛躍したのか、日本人建築家SANAA軌跡をたどり建築が開く未来を見つめる。

 Ⅰ.SANAA―建築の冒険

第二次大戦で戦場となり、深く傷ついたフランスの街、ランス。この街がSANAAにとっての戦いの場となった。2004年ルーブル美術館はランス新館のために大規模な設計コンペを計画、敷地はかっての炭鉱の跡地、20万平方メートル、SANAAをはじめ世界中の建築家がコンペに参加125を超える野心的なプランが集まった。SANAAの設計案、シンプルで抑制されたデザイン。土地の傾斜に沿って流れるように建物を配置した。ガラスとアルミを巧みに使い、周囲の県境と溶け合う空間が提案された。

SANAAにとって最大の強敵は世界建築界の女王と言われるザハ・ハディド

9年前建築界のノーベル賞と言われるプリツカー賞受賞を女性で初めて受賞した。

ザハ・ハディドの設計案、ザハの壮大なデザインは審査員を圧倒した。そびえたつ巨大な建物、その造形は炭鉱を取り巻く山岳をイメージした。

炭鉱の衰退とともにさびれる街ランス、地元の政治家はザハのプランに期待していた。インパクトの強い建築で観光客を呼び込みたい。ランス市議「ルーブル・ランスは単なる文化政策ではありません。何よりもそれは私たちの生き残りをかけた経済政策なのです。」

しかし、ザハのプランに真っ向から異論を唱える人物がいた。ルーブル美術館に君臨するロワレット館長、「ザハは確かに天才的な建築家です。しかし、この敷地にはふさわしくないと思いました。ザハの設計案はバロック建築のような膨大なイメージですが、私たちが求めていたのは、もっと控えめで、落ち着いた建築でした。

当時フランスでは無名だったSANAA、環境への配慮が認められ有力候補に浮上した。

2005.9.25最終審査が行われた。経済優先かそれとも環境との調和か?

美術館の未来をめぐる激しい議論の応酬、最後は決戦投票に持ち込まれた。

ザハ22票、SANAA22票、決着は審査委員長にゆだねられた。

「今晩はトップニュースです。ガラスとアルミでできた未来のルーブル・ランス、炭鉱跡地に最先端の建築が出現します。コンペで勝ったのは日本の建築家でした。」

この時から7年、ルーブル・ランスは2012年に完成。人々はSANAA建築の美しさに目を奪われた。ギャラリーに張り巡らされたアルミの輝き

「作品がぼんやり映り込むのがおもしろい」「神秘的だね」「すごく開放的な空間だと思う、光が」あふれていて」きれい、すてきですね」

何故、ヨーロッパで高く評価されるのか。欧米の知識人は日本の伝統に通じる美しさを指摘する。

ロワレット館長「簡潔で抑制されたSANAAの建築には日本的感性を感じます。思い浮かぶのは貴族の邸宅です。シンプルな平面構造、隣り合う空間に続くオープンスペース、その透明感はまさしくルーブル・ランスと共通しています。日本人にとっては普通の感覚かもしれませんが、我々ヨーロッパ人には魅力的で衝撃的なんです。」

 現代建築の世界で欧米とは異なる美意識を表現したSANAA、二人の感性は如何にして育まれたのか。

ー略(生い立ち、思想を持つようになった原点、きっかけ、思想・経歴など)ー

解散直前になってある設計コンペに参加するチャンスが与えられた。

若い女子社員80人が共に暮らす社員寮の設計、これが建築家としての最後の仕事になるかも知れない。大学院を出たばかりの西沢も駆り出された。妹島が目指したのは「みんなの家」驚くほど巨大なリビングルームを導入、若い社員の交流を促す大胆な石灰だった。

 人生の一大転機が訪れた。再春館製薬女子寮(熊本市)

 建築家としての崖っぷちを乗り越えた力作、軽やかな素材を持ち開放的な光あふれる空間を実現、妹島和世の出発点となった。

日本建築家協会新人賞1992年 

Ⅱ.ニューヨーク 

幸運なことに妹島の建築を紹介した日本の雑誌がアメリカの大物キュレーターの目にとまった。ニュヨークで行われた建築の展覧会ライトコンストラクション展に招待されたのである。カタログの表紙を飾ったのは無名に等しい妹島の作品だった。ライト・コンストラクションとは「光にあふれた軽やかな建築」

当時ニューヨーク近代美術館で展示された、妹島建築の模型、妹島の設計は90年代の新しい潮流を先取りしていた。

建築家・キュレーター テレンス・ライリー「非常に複雑な設計です。建築の内部構造が天を目指して登って行くようです。まるで、水の中にいるような感じですべてが浮かんでいるように見えます。軽やかなのです。透明感、軽やかさ、昔から近代建築ではおなじみのイメージです。しかし、若い世代の建築家はそれらを驚くべき感覚で組み合わせて、全く新しい思想を表現したのです。

 海の向こうからコンペの招待状が届くようになった。1995年妹島と西沢は共同設計チームSANAAを結成(AJIMA ND ISIZAWAND ssociates)

日本ではバブル崩壊後の不況が深刻化していた。二人は背水の陣を敷き海外のコンペに挑んだ。

 スタッド・シアター(オランダ)

だが、SANAAは立て続けに海外のコンペをものにしヨーロッパで極めて高い評価を獲得した。

フォルツェライン・(ドイツ)、ROLEXラーニングセンター(スイス)

2003年にはニュヨークへ進出、新しい現代美術館の国際コンペで勝利を勝ち取った

コンペを勝ち抜くSANAAの秘密はどこにあるのか。 

マンハッタンバワリー街、

バワリーの街に溶け込むニューミュージアム、7階建て、箱をずらしながら積み上げた形が目を引く、設計・SANAA。建物全体が柔らかな光につつまれている。近づくとアルミメッシュに覆われていることが分かる。細部にこだわり、軽やかな素材を巧みに用いるSANAA、鮮やかな職人芸が発揮された。

アルミに反射する光が変化すると美術館は様々な表情をみせる。美術館と歩道を隔てるのはガラス1枚。建物の外からカフェやギャラリーが見える。

ロビーは周りの風景と滑らかにつながっている。 

10年前、妹島と西沢が訪れたころ、バワリーは荒れ果てた街だった。住民は美術館の建設で街が変わってほしいと願っていた。

コンペに参加したSANAAにとって最大の難問は、ニューヨークの厳しい建築規制だった。当時SANAAの一因としてこのプロジェクトを担当した大木理寛(建築家)さん「ニューヨークでは住民に日照権を確保するために、厳しい規制を設けています。建物の高さが85フィート、およそ26メートルを超えた場合、通りから約5m後退させなくてはならないのです。」

高層ビルを野放しにすれば暗がりが増え、犯罪を誘発する。そのため厳しい規制が行われるようになった。

だが、規制を守れば建物はどれも同じ形になってしまう。

コンペの最終審査で検討された設計案が残っていた。どれも建物の形が似ており、周囲との環境バランスがよくない。SANAAの設計案だけが他とは違っていた

大木「妹島さんと西沢さんの信念は建築家は規制に合わせて設計すべきではないと言うこと規制を守りつつも、独創的なデザインを実現しなければならない。そんな二人のこだわりから、この形が生まれたのです。」

妹島と西沢は建物の規模を小さくすれば周囲の建物とのバランスが良くなることに気が付いた。また、フロワーをずらすことで建物に縁側が生まれそこから降り注ぐ自然の光が、ギャラリーを柔らかく包み込む。この縁側はテラスにもなる。ニューヨークの新しい名所となったテラスからマンハッタンの絶景が見渡せる。

ニューミュージアム館長リサ・フィリップス「SANAAの設計案を見た瞬間、これこそ私したちが求めていた建築だと感じました。SANAAは建物のスケールを小さくすることで、一つの彫刻を作り上げたのです。大金を投じて巨大な空間ばかりを欲しがるこの街では誰も思いつかないアイデアでした。」

 ニューミュージアムの周辺には、60を超えるギャラリーが新しくオープン。

バワリーは最先端のアートを発信する街へ生まれ変わった。

休日には多くの市民で賑わう。SANAAの設計によってニューヨークに新しい風景が生まれた

バブル崩壊後の逆境から出発したSANAA、2010年ニューヨーク、ブリツカー賞受賞、建築界のノーベル賞と言われる最高の栄誉をつかんだ

2人の名声は日本より先に海外で頂点に達した。

 Ⅲ日本へ

日本では大都市の巨大プロジェクトは大手設計事務所やゼネコンが一手に引き受けている。

世界のSANAAも日本で手掛けた設計の多くは小さな住宅や地方の公共建築(大倉山の集合住宅、豊田市生涯学習センター、逢妻交流館、ディオール表参道、犬島「家プロジェクト」)、だが、二人の建築家には独創的な発想があふれている。

東京の下町に建てられた賃貸の集合住宅「森山邸」(東京・蒲田)家主の森山さん、目が覚めるとまず部屋を開ける、洗面所もお風呂も外にある。

普通の賃貸アパートがばらばら分解された。部屋が独立していて部屋と部屋の間は庭となる。設計を担当したのは西沢立衛、森山邸のために900を超えるプランを作って徹底的に研究した。その結果、緑と光にあふれる、長屋のような空間が生まれた。森山さんの住まいの一つ地下室を含めて4階建、併せて4っつの建物に暮らす。中略

 妹島と西沢は日本の風景と溶け合う新しい風景を創り出そうと試みてきた。

棚田にうずもれるように設計された美術館。豊島美術館(香川県)展示されている作品はただ一つ「作品「母型」(内藤礼 2010年)」大地からわく小さな水滴が交わり合い、生き物のように動いてやがて一つになる。木々のざわめき、虫の声、鳥のさえずりが聞こえる。手島は古くから清らかな湧き水に恵まれた。人々は豊かな自然の恵みを大切にして暮らしてきた。だが、バブル全盛のころ島は深い傷を負った。大都市から運ばれた産業のごみ、12年間にわたって93万8000トンが不法投棄され、有害物質が海や土壌を汚染した。

中略

西沢:「産業廃棄物の不法投棄と言う問題があったけれど、その歴史をひっくり返すんだと言うことを確か言われて、・・・どうやるんだ見たいな」

西沢と福武さんが目指したのはアートと建築、そして、故郷の風景が一体となった全く新しい空間だった。

西沢の心の中に浮かんだイメージは水滴のような自由な曲線、図面には水滴を思わせる建築空間が描かれた。故郷再生への祈りを込めた建築、訪れる人々の心に大きな共感を呼び起こした。(日本建築学会賞2012年) 

日本社会への鋭いまなざしを、建築と言う形で表現してきたSANAA、そのまなざしがいま日本の首都東京に注がれている

2012年夏から秋にかけSANAA事務所は新たな国際コンペに取り組んだ。

東京を舞台とした壮大なプロジェクトである。

SANAAのスタッフがアイデアを片っぱなしから模型にしてゆく、総工費1300億円8万人収容の新国立競技場建設計画、敷地は11万3000㎡。

現在の国立競技場を建て替えオリンピックのメインスタジアムを目指す

設計コンペを目指して毎晩のように会議が続いた。海外のコンペで華々しい実績を持つSANAA、だが、地元東京では代表作と呼べる建築が無い。次々と提案される大量の設計案、妹島、西沢がスタッフと共にあらゆる角度から検討を加えて行く。

この日、一番注目を集めた設計案、観客席、

これまでのような閉じられたドームで無く、周囲に開かれた新しいデザイン、・・・だが妹島はこれでは観客が協議に集中できないのではと心配した。

妹島「競技場って、相当集中して真ん中見るから、それを一番特化させていこうと思ったら、やっぱり形も敷地に合わせてこっちが大きいとかこっちが低いとかと言うことではなくて、真ん中へ向いてどこからも見られると言う形が競技場としてはパーフェクトで・・」

西沢「でも、仲が集中して外が全然関係なく開くというのがどうなのかと思う」

開かれた建築によって、東京に新しい風景を創りたい。だが、スタジオの本来の機能もおろそかににはできない。およそ2カ月をかけて大量の設計案が検討され、ようやく最終案が出来上がった。中略

 SANAAの発想は人と建築の関係を問い直すことから生まれる。設計案は「公園のようなスタジアム」神宮の森に開かれ、訪れる人々の交流を促す。

 2012年11月7日最終選考会が開かれた。

審査委員長は日本を代表する建築家安藤忠雄。

予備審査で最も高い得点を獲得したのはイギリスの建築家、ザハ・ハディドの設計案だった

工学博士安岡正人「これだけ外見的に強烈な印象を与える作品は他にはございません。」

建築史家鈴木博之「圧倒的な造形の迫力」

建築家内藤博「技術的には可能だろう。ただコストは知りません、という、コストはかかるかもしれない

 ランスのコンペでわずか1票差でSANAAに敗れたザハ・ハディド、世界の巨匠が再びSANAAと競い合う。

ザハは流線型の壮大な外観で審査員を圧倒した。イベントでは屋根がスクリーンとなってお祭り気分を盛り上げる、屋根から延びる長い架け橋はスタジアムへの魅力的なアプローチとなる。

予備審査でザハについで高い得点を獲得したSANAAの設計案、周りの環境に溶け込む設計が高く評価される一方で開放的な空間の在り方に疑問を持つ審査員もいた。

内藤「日j等に魅力的な案で、よく考えられているのですが・・・」

作曲家都倉俊一「あそこの隙間というのは開いているのですか?」

安藤「あそこは空いている」

都倉「空いているんですね。客席と屋根の間は開いているのですよね。ちょっと不安と言うか・・・」

安藤委員長は環境との調和を重視するSANAAのプランに惹かれていた。しかし、スタジアム本来の機能がどこまで発揮されるか疑問を感じてもいた。

安藤「メインスタジアムですから、ここが重要ではないかと思いますのは、例えば選手に気持ちが集中できるかどうか、最後は戦っている選手たちに気持ちが行くかどうかとなると中心にあった方が方がいい、そう言う面では34番SANAAの屋根がひらひらしていると集中が無くならないのかという気持ちもありまして、・・・」

 周囲の環境に溶け込もうとするSANAAのプラン、圧倒的な外観で存在感を示すザハ:ハリドのプラン。ルーブル・ランスでの対決が東京で再現された。

11月15日

コンペに勝ったのはどちらか。

当選者が発表された。

安藤「まず、絵を見ていただいたらわかりますが、大変スポーツにとって一番重要な躍動感がある、流線型の形が構造と内部空間とがマッチしている、・・・」

コンペに勝ったのはザハ・ハリド。

SANAAの挑戦は実らなかった。 

建築家にとってコンペとは?

妹島「やっぱり、どんなに自分たちがうまい調子で行けたと思っても、コンペを主催した側の人の、求めているものが、違うっていうのがありますよね。」

西沢「僕らが、建築をつくるっていうことですごくいろいろと矛盾した気持ちがあるんですけど、社会にその時代につながったものを作りたいと言うのがあって、もう一個はその時代を超えるものをつくりたいと言う両方あって、矛盾しているんですよね」

 世界を舞台に建築の最前線を疾走してきたSANAA、今ふと立ち止まり原点を見つめなおす時が来た。

 Ⅳ.未来へ

2011年3月11日東日本大震災、建築家に計り知れない衝撃を与えた。

西沢「自然とか自然と生きるということがこれほどのことなのかというのは、多分、震災の前は、やはり想像力が無かったと思います。」

妹島「自然と関係を持ってと言うことを言ったりもしてましたが、今もそう思いますが、そんなに、うまく行かないこともいっぱいあるし・・・」

西沢「自然との調和とかランドスケープというのは震災の前から言っていたことなんですが、相当抽象的に言っていたなー、というのはありましたよねー。

 自然は建築と連なって人の心を解き放つ、だが時に、人間の想像をはるかに超える猛威を振るう、多くの建築家がこれまでの建築の在り方に疑問を抱いた。だが、震災後、建築家に期待する声はほとんど聞こえてこなかった。

このまま、では住民が置き去りにされたまま個性のない街づくりが、すすむ恐れがある。5人の建築家が被災地支援するグループを結成、妹島も参加した。

 妹島「何にもやれることは無いと言うか、声をかけてやってくれとも言われない・・でもいろんな方がみんな自分自分でできることはじめられましたよね。

それと同じだと思うんですけど何か→tれることからやって行こうと」

宮城県東松島市宮戸、三つの漁村が壊滅した、130世帯の被災者が住み慣れた浜を離れた。

だが、仮設住宅には隣人と話をする場所もない。

人々の絆をつなぎとめる空間が必要だ。

SANAAはボランティアで設計に取り組んだ。これまで海外で格闘しながら建築の可能性を追求しきたSANAA、被災者を過ごしながら、ともに建築を作る喜びを味わった。

2012年10月13日、震災から1年7か月宮戸に「みんなの家」が完成した

アルミの丸い屋根が広い軒下を作り出す・・以下略


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