弓道とは何かを調べていて、阿波研造先生の話が出てきましたので、2回にわたって転記します。
前稿で「射聖 阿波研造」の本の話を書いていて、その本のことが出てくる記事に出くわすとは奇遇です。
弓道と人生 ー阿波研造範士の教えー
東京都立大学名誉教授 千 葉 正 士(まさじ)
大正八年、島根県生まれ。東北帝国大学法文学部卒。東北大学院法哲学専攻特別研究生修了。法博士。東京都立大学法学部教授、のち東海大学法学部教授。
き き て 金 光 寿 郎
金光: 今日は「弓道と人生」というテーマで、昭和十四年に亡くならました阿波研造(あわけんぞう)範士の教えについて、東京都立大学の名誉教授で、つい先程までスポーツ法学会の会長をなさっていた千葉正士先生にお話をお伺い致します。どうぞよろしくお願い致します。
実は、阿波研造という先生のことを、オイゲン・ヘリゲルという方の『弓と禅』という本を読んで知ったんですが、その中には東洋の宗教とか、芸道の神髄を師弟伝授と言いますか、どういうふうにそれが伝わるのかなというのが、実に見事に描かれているんで、非常に吃驚したんですが、その阿波範士の生涯とか、教えについて、今日お話をいろいろお伺いしたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。
まず、最初にその千葉先生と阿波先生とのご関係、最初はどういうことだったんでございましょうか。
千葉: はい。私は佐沼という宮城県の田舎で中学に入りまして、まもなく弓の稽古も始めました。そうしますと、仙台には阿波研造範士というですね、立派な射を引くということで日本でも第一番という方がおられまして、旧制の第二高等学校、二高とそれから東北大学の師範をしておられるということを聞きました。ですから昭和十四年に私が二高に入りますと、早速、弓道部で弓を引くことに致しました。運が悪く、入学の直前に先生亡くなられたものですから、実際の指導は、阿波先生の後を継いだ神永政吉(かみながまさよし)範士という方に仰ぎましたし、毎日毎日の稽古では当然部の先輩にですね、それから時折阿波道場に通っては高弟方からも教えて頂いたということです。
金光: お目にかかったことはおありではないんですか。
千葉: 同期の諸君はみな会ったことないのですが、私、その前の年の夏休みに、たまたま何回か阿波道場に自分で稽古に伺った時に、一度だけ、偶然、幸いなことにお会いしたことがありまして、その時、とにかくもう名にし負う先生ですから、私、緊張したんですが、その時感じたのは限りのない「温容」ということですね。どんなにへまをしても受け入れて下さるということと同時に、またこれが無限の「峻厳さ」ですね。どんな厳しい誤魔化しも逃さないというこういう「温容」と「峻厳さ」、両方これだけ兼ね備えた人物というのは、私、会ったことありません。それで一遍に傾倒したというようなことです。
金光: そうしますと、旧制の高校から大学でその先輩諸氏から、いろいろ話を教えられる時にも、その一度お目にかかっていらっしゃる阿波先生の姿というのは、その言葉を通して生きてくるということでございましょうね。
千葉: そうだったと思いますね。私は、大学を出てから学問の世界に入りまして、弓はその後休んだこともありますし、今では時折引いているだけですから、おそらく日本には何百万人もいる愛好者の一人で、阿波先生とそれから弓道のことについて、私の経験をお話するという資格は、私はないと思っております。ただ一つ大変いい幸運に恵まれたことがあります。それは先生が亡くなられた後に、先輩方が、この弓の心を是非後世に残したいということで、遺稿集を刊行することに致しまして、私が大学時代にその実務を担当致しました。
金光: そうしますと、阿波道場にしょっちゅうお出かけになっていたということでございますか。
千葉: そうですね。道場にも参りましたが、ご遺族の方から、大きな風呂敷包み、一つの資料をお預かり致しました。先生は学者でありませんから、立派な論文とか原稿とかはなくって、手帳とかノートなどに、その時折のご自分の考えたことをメモに書いていたのが残っていたのが主ですね。その他切り抜きとか、講演原稿とか、そういうものを、私、整理しまして、後輩諸君の手伝いによって原稿用紙にしました。一応遺稿集稿本と名付けて原稿を用意したんです。
金光: そうですか。
千葉: ところが間もなく終戦ですね、武道が追放になりましたから。しばらく仕舞っておいて、やがて解禁になりましてから、どうしようかと思ったんですが、私自身がやるよりも、桜井保之助(やすのすけ)さんという先輩がおられまして、この方は直接、阿波先生の指導もじっくり受けましたし、それから政治哲学の研究家なので、お願いしたところがお引き受け下さって、自分でもまたたくさん資料を集めて、立派な伝記をお作りになりました。これは部内の限定本ですけれども、大変貴重な本になっております。そういうご縁で今日金光さんともこういう機会が得られたわけです。
金光: そういう先生、これまでの阿波先生とのご関係の中からいろいろ教えて頂きたいと思いますが、実は私、先程申し上げたように『弓と禅』を読んで非常に吃驚すると同時に感銘を受けたんですが、現代の日本の人にも阿波先生の弓道というのを紹介するのにやっぱりオイゲン・ヘリゲルさんの『弓と禅』の中に出ているようなところから紹介して頂くのが非常に分かりいいんじゃないかと思いますので、その最初にオイゲン・ヘリゲルさんの本の方から話を伺いたいと思いますが、オイゲン・ヘリゲルさんという方はどういう方なんでございましょうか。
千葉: 大正の頃からドイツに現れた哲学者ということですね。カントの流れを汲む方です。その頃、日本では学問特に哲学と言えばドイツですから、東北大学でもその哲学の指導者をわざわざ招聘しまして、学生の為に講義したんですね。勿論、先生方も一緒に勉強したわけなんです。そのオイゲン・ヘリゲルさんが、折角、日本に来るのですから、日本文化を研究したいと言って、相談しましたら丁度阿波先生がおられるということで、弓の稽古をするようになったわけです。稽古することになりましたけれども、何せこれは大変な問題なんですね。日本の芸道、武道というものは言葉を使わないで、無言の間に自得するというそういう文化。ところがヘリゲルさんのドイツ文化というのは、何ごとも概念と言葉で表現しないと分からないということです。ですから言ってみると、ドイツ精神が日本文化と格闘したということになります。普通なら途中で止めてしまうのですけれども、とうとう日本におられる五年間に、立派にものになさった。その記録が今の本と、それからもう一つ、その前に最初に講演した記録の本で『日本の弓術』と言っております。この二つが主な資料ですね。
金光: それではその内容についてお伺いしていきたいと思いますが、実は私も、弓は最初は力で引くんじゃなくて、呼吸で引くんだというようなことが出ているんで、弓は力でなくってというのをどういうことかなと思ったんですが、これはどういうことなんでございましょうか。
千葉: それはなかなか解り難いところですが、確かにその通りですね。ですからヘリゲルさんも力一杯引こうと思ったのですけれども、先生からそう言われる。ヘリゲルさんの書いたものを読みますとですね、息を引き込んだら、それを静かに下腹に押し下げて、そこで一度溜めて、今度は静かにそれをまた吐いていくという。こうじっくりした呼気と吸気を繰り返すことが、律動的に自然に行われるようになりますと、身体の力も抜ける、それから肩や腕の力を使わなくとも、弓を引けるようになると言うんですね。それでそんなことあるものかと思ったのですが、実際に先生が腕に触れてみなさいと言うので、先生の引いている腕に触ってみると普段の通りフニャフニャなんですね。それでこれはやっぱり証拠がありますから、自分はそういう訳で勉強しようということになりました。これは我々が腹式呼吸ということですね。それでまあ大体一年位したら要領が解って来たということでした。
金光: 先程、映っていました写真は、その辺の呼吸がちゃんと出来て射の姿勢を取っていらっしゃる、そういう写真でございますね。
千葉: ええ。え・・と、これの写真の下の方、足の方出ませんでしょうか。
金光: 足の方がやっぱり問題なんですか。
千葉: はい。姿勢なんですね。実はそういう深い呼吸をするというのには、姿勢、つまり土台がしっかりしていないと出来ませんので、それで日本では坐禅とか、静座法というのがございます。それは坐って致しますが、弓となるとそれを立ってするわけですから、余計その土台が大事で、そのために両足はもう大地に吸い付いたように盤石に構えて、そして重心をその足の真ん中にストンと落ちるようにして、その呼吸をするわけです。
金光: その写真はかなり出来ている写真、
千葉: これはもう出来ている体の構えと申せますですね。
金光: それじゃ、そういう呼吸が出来て来ますと、その次に今度問題になるのは、その矢を放すのではなくて、矢が放れるようにしなさいじゃなくて、放れるようになるんだと言いますか。その放し方が難しいんだそうですね。
千葉: そうですね。
金光: 放すんじゃないと言われても、何時放すかとつい考えるんじゃないかと思いますが、その辺はどういうことなんでございましょうか。
千葉: これはもう最初からですね、呼吸姿勢の時から、出て来る問題ですが、弓を引くというのは右手に弓懸(ゆがけ)という小手を填めまして、その親指の腹に弦を当てて引っ張るのですが、そのままだと親指が外れますから、指を二本か三本、親指の頭に添えて、押さえて、それで腕ごとこう引く形になりますね。ですから矢を放すとなるとこの指を放さなくては飛んで行かないわけです。そこに弓の技術があると誰でも思うわけですね。ところが阿波先生は放してはいけないと言います。でいろいろ伺ってみますと、放すということは、どういうようにこの指を使うかといろいろ苦心惨憺して、それからいい指の使い方をして、上手く矢を放して立派な射を作ろう、あるいは的に当てようと思う。要するにそこには個人の欲望、作為があるわけですね。そういう作為がありますと、どうしても作為の微妙な心の気持ちがこれに反映して放れは乱れて来る。で、そういう作為と闘ってそれを消そうと努めるのですね。同時に体の力も今の呼吸で抜けて来ますと、その自分の心と身体との闘いのある極致で自ずから弦の手は放れてゆきます。
金光: じゃ闘いというような言葉もなくてですね、ある状況まで、いわば上り詰めると言いますか、そうなって来ると自然に放れるという。
千葉: そうなんですね。それでヘリゲルさん最初解らなかったのですが、その内にですね、これをその言葉によりますと「自己自身からの離脱」という言葉で表明しておりますね。そしてつまり自己的な自我をなくして、もっと大きな人間の力で引くということです。だから自分が引くんじゃなくて、「それ」が引くという。ドイツ語で言うと es で、英語で言うと it ですね。つまり何か解らないあるものが引くと、そういうふうに表現をしておりますね。
金光: ただその弓の話しところでやっぱり工夫されて何か破門されかかったということがあるんだそうですね。
千葉: ええ、そうです。それはですね。今のように呼吸と、それから放れと申しますね、その仕方をいろいろ工夫して頭では解ったのですが、しかし実際にはなかなか出来ない。なかなか出来ないけれども、先生のいうように自然に放れるということにはやっぱり何かの指の工夫があるはずだと。いろいろ工夫するけれども上手くいかない。そのうち、ある時ですね、もう一年以内に帰るということになった夏休みらしいのですが、上手い工夫を思い付いたんですね。指をこうすればいいと、それで自分では上手くいくと思って先生の所へ言って引いたんですね。で上手くいったと、
金光: ご本人は上手くいったと。
千葉: そして先生の顔を見たら先生がじっと変な顔をしている。そしてもう一本と言ったというのです。ヘリゲルさんもう一本引きまして、前よりもよくいったと思ったのですが、そして先生の顔を見たら意外なことがあったので、それをヘリゲルさんの本が書いたところを読んでみます。
金光: ご自分の言葉で、
千葉: 「その時師範は無言のまま私に向かって歩みより、私の手から弓を取り上げて、私に背を向けたまま、座布団の上に座った。私は、これが何を意味する事になるのか分ったので、引き下った。」と。
金光: じゃ、何も批評も何もされないで、あのそっぽを向いてと言いますか、
千葉: そうです。
金光: 背中を向けてしまわれたという。
千葉: そうです。
金光: それはダメだったと思われたわけですね。
千葉: 阿波先生がその時どう考えたかということは分りません。でも、ヘリゲルさんは、弓を取り上げられたというのは、もう稽古を止めろということだろうと察しました。先生はこれだけ終始言って来たのに、私はその教えに背いて細工をして放そうとしたのだと、すぐ感じたのですね。これはやはり自分が悪かったと思って、そこで気が付きまして、通訳の先生からお詫びを入れて、これからは先生のおっしゃる通りにしますからと言って、お許しを得たと、そういう話があるんですね。これは先生も先生、弟子も弟子という話しだと思いますね。
金光: それでそういう工夫でないところでの射をそのまま続けてお稽古なさったわけですね。
千葉: そうですね。
金光: もう私何かもヘンゲルさんのおっしゃるように、弓というのはやっぱり的を当てようということが大前提としてあるんじゃないかと思いますが、その『弓と禅』で吃驚したのは的を狙ってはならないと、的を狙うんじゃないと言われたらこれまた困ると思いますが。
千葉: それはですね、やっぱり阿波先生の弓の一番の特徴と言っていいかと思いますね。勿論、他にも当てることを狙ってはいけないという方はおりますけれど、阿波先生は徹底しておりましてですね、的の前で引くけれども、狙ってはいけないときびしく言います。要するに自分を捨てて本性を発揮するような射を努めろということなんですね。それでその先生の教えの気持ちはヘリゲルさん頭で解ったつもりですが、ほんとには解らないものですから、そこはドイツ人で、くどくどと質問するんですね。
金光: そうでしょう。
千葉: それでそれを何回かやっている中に、ある日ですね、とうとう先生もそれじゃ今晩一人で来なさいということになりました。いつもの通訳の方は行かないで、一人だけで行ったら、その晩、衝撃的なことが起こりました。先生が蚊取線香に火を点けまして、それを持って行って、的のあるところを(あずち)と申しますが、その(あずち)の的の前に立てまして、電気を消したんですね、ですから真っ暗闇でちょっと見たら的があることも分らない。
金光: 電気を消したもんですから。
千葉: ええ。
金光: 線香の火が点いて、
千葉: 線香はですね、そこに立てたことを知っていますから、そう思って見ると線香らしい火があるということはかすかに分かる。そこで阿波先生が静かに弓をお引きになったんですね。で第一の矢、弓はご承知の通り二本一組で引きますので、最初の矢を甲矢(こうや)と書いて「はや」呼びますね。それから二本目を乙の矢と書いて「おとや」と言います。で甲矢(はや)が立派な響きを発てて的に当たりました。二本目もまた同じようにあたったんですね。それでヘリゲルさんが、今のは立派な射だったなと思って(あずち)に矢を取りにまいりました。そこでヘリゲルさんが大変なことを発見したんですね。そこのところをまた読んで見ます。
「(あずち)の燈をつけた時私は、甲矢(はや)が黒点の中央に当り、又乙矢は甲矢の筈を砕いてその軸を少しばかり裂き割って、甲矢と並んで黒点に突き刺さっているのを見出した。私は呆然とした。そしてその矢を別々に引き抜くに忍びず、的と一緒に持ち帰った。」
とこう書いているんですね。
金光: そうしますと、その最初の矢が当たっている。その矢の軸に次の矢が刺さっているということですか。
千葉: そうですね。
金光: 二本の矢が一本になっていると。凄いことですね。
千葉: そうですね。これは後で阿波先生が他の人に話したと言うことなんですが、「別に自分はそんなことを、もうとう狙いもしない。的も狙ったつもりはないけれど、そういうことが起こった」ということでした。なおその時、ヘリゲルさんが矢を取りに行ったけれど、なかなか帰って来ないのでおかしいと思ってご自分が行って見たら、そうしたらヘリゲルさん、そこに、的の前にベタッと座ったまま動かないでいたというんですね。それほどの大きな衝撃だったようです。
金光: そういうことは、暗いから的は当然狙いないわけですね。でしかも暗闇の中で的を狙わない矢が、しかも二本が全く同じ所へ行っている。証拠として的を狙わないでもこういうふうになるんだという、その見事な実例が目前に、こう展開されていたということですね。
千葉: そういうことですね。それでおそらくヘリゲルさんは納得なさっただろうと思うんですね。自分が解らないところで、解らないそういうものがあると。これこそ哲学の求めるところだというふうにおそらく悟ったに違いないと思われます。
金光: そうですね。そういうことになると言葉ではやっぱり説明出来ないところでしょうから。それで、じゃ、そういう狙わない射を練習しようと言いますか、それで稽古を励まれたということですね。それで狙わないでやっていると、しかし、しかも放そうと思わないで放れてという、その段階はその次はどういうことになるんですか。
千葉: ですから、それでヘリゲルさんは一つの悟りがありまして、その頃から弓の境地、射境というのは進んだようですね。そして自分では分からないのですがある時先生の前で引いていたら、先生が自分に深々とお辞儀をしたと言うんですね。それで呆気にとられていたら、先生が今度は丁寧にヘリゲルさんをこちらに呼んで、そして、
「今日の稽古は、もうそれで結構ですからお帰りなさい。何故かと言うと、今の射はあなたが引いた射ではなくて、”それ”が引いた射ですと。つまり個人の作為ではなくて、弓を引く人間の力が自然に現れて自ずからに放れた立派な射です。私はあなたにお辞儀をしたのではなくて、立派な射にお辞儀をしたのです。思わずお辞儀をしたのです。」
こう言うんですね。
金光: これはさっきドイツ語で es 、それから英語で言うと it 、”それ”というのは”それ”としか言いようがない、表現のしようがないから、”それ”と言ったと、そういう言葉を使われたんでしょうが、いわば、その作為とかそういうものが全くないところで自然にその弓の弦から矢が放れて当たる、その全体を差して”それ”とそういう表現をされた。
千葉: そういうことだろうと思いますね。
金光: これはやっぱり一度それが出来るといつも出来るということではないんですか。
千葉: 絶対にそうではないです。
金光: そうじゃないんですか。
千葉: そういうですね、先生もお辞儀をなさる射というのはヘリゲルさんのこの本では二度出てきます。滅多にないと思います。
金光: 滅多になくて。
千葉: はい。だからこの前上手く行ったからと思ってその通りやろうと思っているとダメなんです。
金光: そういう思った途端にそれが出てくるんですか。
千葉: この前の通りやろうとすると、そこにもう作為がございますね。或いは自分を捨てようと思う、その思う心がいけない。その点ではやっぱり禅の「無」というのと共通しておりますね。
金光: そうするとその辺を分析してですね、この前はこういう積もりでやったから良かったとか、なんて考えると、もうそれだけでおかしくなるということですね。
千葉: その通りですね。
金光: そうすると毎回そういうことなしにやれるように練習するということは、またしかし人間のその心の動きとは逆行と言いますか、人間とはすぐにそういうふうに考えるように出来ているわけですが、すぐそういうことを思っているとそれを払い捨てて射の方に熱中すると言いますか、そういうことを続けていくわけですね。
千葉: 何時も何時も、一射ごとに、ああ失敗、ああまずかった、この次はこうやろう、そう思ってばかりいるわけですね。
金光: そういうことも考えてはいけない。良かったら良かったと、つい思うんですがその良かったと思うこともいかんと言うことなんでしょうね。
千葉: ええ、あのね、そこのところはどう言ったらいいんですか、むしろ、いい射が出る時は本当に気持ちがいいですね。ああ、これで自分も弓を引けたという安心感を持ちますね。
金光: じゃ、それと同じにしようと思ったらいかんわけで。
千葉: そうですね。だからそういう安心感の出来る弓が毎回毎回引けるようにならなければいかんと、百本に一本じゃいけないんだと、千本に一本じゃいけないんだとそういうふうに思わざるを得ませんですね。
金光: そうしますと、常に前に出たからそれでいいじゃなくて、毎回毎回、その向上の道というのはずっと続くということですね。
千葉: 人間だから、いい射が出たと思っても、その次必ず失敗しますと言ってもいいと思いますね。
金光: はは、なるほど。そういうその指導された方、阿波先生、阿波範士という方は一体どういう方だったのかというのは、これからお伺いして参りたいと思いますが、その阿波範士の生涯について、先生に略年表を作って頂いておりますので、それを拝見しながら、それじゃご説明頂きたいと思います。
阿波研造範士の生涯
明治一三年(一八八0) 四月四日宮城県桃生郡大川村生まれ、小学校卒業、大忍寺住職から和漢の思想を学ぶ。
明治三一年(一九歳) 漢学塾を開く
明治三二年(二0歳) 石巻の阿波家の養子に、
明治三三年(二一歳) 弓術師範木村辰五郎に入門
明治三五年(二三歳) 講武館開設(弓道、剣術、柔術、居合、抜刀術、薙刀)
明治四二年(三0歳) 弓道場開設(儒教、仏教、武道一体の弓道)
明治四三年(三一歳) 東京の弓術師範本多利実に入門
大正九年 (四一歳) 深夜、道場で心身の大爆発を体験
大正一二年(四四歳) 新弓団(大射道教)設立
大正一三年(四五歳) オイゲン・ヘリゲル入門
昭和四年 (四九歳) オイゲン・ヘリゲル帰国
昭和一四年(六0歳) 三月一日永眠
明治十三年、一八八0年に、今から百年ちょと前に、宮城県の桃生郡大川村の生まれで小学校卒業されて、後は、そのお寺のご住職からその和漢の思想を勉強されていて、それで十九歳の時にもう漢学の塾を開いていらっしゃるというから、相当の秀才だったということでございますね。それで二十歳の時に石巻の阿波家の養子に行かれたということですが、阿波家というのはどういうお家だったんでございますか。
千葉: はい。生家も阿波家もですね、麹の製造販売をしておりましたんですね。その頃まだ日本では、どこの家でも味噌醤油は自分の家で作っておりましたから大変需要があったわけです。
金光: そこで阿波家に養子に行かれながら、弓とか武道の勉強をされるということで、二十一歳の時には弓術師範の木村辰五郎という方のところへ入門されておりますけれども、あと二年たって講武館という武道道場を開いていらっしゃるんですね。ただ吃驚しますのは、弓道、剣術、柔術、居合、抜刀術、薙刀、武道全般を稽古練習をなさっていたわけですね。
千葉: そうですね。それと同時にやはり儒教、禅、古典類をその頃から読み漁っておられたんですね。
金光: それで三十歳の時に明治四十四年、弓道場を開設。これは場所は石巻でなくて仙台にもう出ていらっしゃるわけですか。
千葉: そうですね。どうもその頃から、日本の社会が大いに発展しまして麹の需要がずっと少なくなってしまった。そこで思い切って家業を捨てて、もう弓道一本で身を立てようと思った。そうするとやはり、石巻よりは仙台の方がいいということで、仙台に新しく道場をお作りになって弟子を教えながら、自分でも勉強するという、そういう生活に入ったわけですね。
金光: でもそれまでのいわば教養と言いますか、いろんなその和漢の学を勉強されているということですから、その武道の弓の指導の場合も、そういう儒教だとか、仏教的な思想みたいなものが背後にあって、それでその裏付けの元に、弓の指導をなさっていたと、そういうことなんですね。
千葉: そうだと思います。
金光: ところが、その年表を拝見しますと、道場を開かれた後で、東京の弓術師範本多利実という方に入門されておりますが、これはまたどういうことでございましょう。
千葉: やはりですね。自分ではあるところまで行ったように感じて、それから、もうその地方で有名になっておりましたけれども、まだ弓の道は先がありますし、そして日本では、その頃やはり東京が中心で、弓には昔からの流派がたくさんある中で本多流というのがだんだん名声を得て参りましたので、そこに入って一層勉強しようと思ったんですね。
金光: これはあの私なんか案外、弓で当てるだけだったらもう道場を開かれる位ですから、的に当てるだけだったら十分技術はお持ちだったんでしょうけれども、やっぱり的に当たるだけでは物足りないというか、もっと奥が深い筈だとか、そういうところまで含めての再入門ということなんでしょうね。
千葉: そうだったと思いますね。そこで勿論、本多流宗家の師範の教えもありましたけれども、全国から立派な門弟達が集まりましてね、その兄弟弟子から教えられることも多かったようですね。
金光: そこで東京の道場での指導も受けながら、だんだん弓の道を深く歩まれて、何か日本一にもなっていらっしゃるんですね。
千葉: その頃はもう「大日本武徳会」という全国組織が出来まして、弓でも年に一度大会があってその大会で毎年一人づつ優勝者が出ていますね。それに大正八年に優勝致しまして、これは毎年の優勝者の中でも大変際だつ立派な射であったと言われておるんですね。
金光: これは立派に当てるだけではなくて、射の姿勢とか色んな全てを総合して、最高位であったと。
千葉: そうなんですね。それでも実は阿波先生、満足されないんですね。自分で何か足りないものがあると感じておられたらしくて、一生懸命求めておられる。そうしたらその後何年でしょうかね。
金光: 大正九年ですね。
千葉: 大正九年ですか。先生自身が大爆発と言われる大変な機会が訪れたんですね。
金光: あの深夜道場で心身の大爆発を体験したという大正九年のこと。これはどういうことなんでしょうか。
千葉: そこのところはですね。その時の経験を先生自身でメモした言葉があります。それを桜井さんがノンフィクションふうに書いているところがありますので、それをちょっと読ませて頂きます。
「ある深夜、家族も寝静まり、四周は寂として音なく、月が穏やかに夜の闇を照らすのを見るだけである。研造は一人道場に入り、愛用の弓矢とともに、静かに的前に進んだ。肉体が先きに滅びるか、精神が生き残るか、一歩たりとも引かぬ覚悟の射であった。苦闘が続く。肉体は既にその限界を超えた。我がいのちもここに究まる。遂に滅びた。と思った時、天来の妙音が響いた。天来と思ったのは、これまで自分にも耳にしたことのない、もっとも澄明で、もっとも高く強い弦音であり的中音であった。聞いたと思った同じ瞬間、自己は粉微塵に消し飛んで、目も眩む五彩のうち、天地宇宙に轟々たる大波紋が充満した。自我がどこかに雲散霧消したため、全くとりとめようもない。呆然自失どころではない。まさに恍タリ、惚タリの状況が、時間を越えた時間の中に続いた。」
(『阿波研造』)
先生の言葉を連ねてみますと、こういうように表現できるのではないかという体験があったわけですね。
金光: これは後年、”それ”が得たと。先程の説明に”それ”が得たんだというような言葉がありましたけれども、それがその最初にそういう体験された、要するに人間の、その平素の意識なんかが全部吹き飛んでしまう、それこそ天地一体と言いますか、よく禅なんかで凄い見性体験なんかなさると、もう色んなそれまでの自分の何も吹っ飛んでしまうという、それをその弓を、その射の中でご体験になったとそういうことでございますね。
千葉: そういうことだと思いますね。
次稿に続く
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます