さて、うわ道路からの続きです。
まっ正面には当然、うわ道路からもっと上がれる道が大概存在します。
ネコちゃん、こんにちは~。
向かって右(小学校方面)
向かって左(法正保育所方面)
うわ道路ってこんなに狭い道やったんやね。あたし、クルマでよー走らん自信があるわ。
鍋小方面に歩きます。この左手の石垣なんてタブン、私が小さいときと同じなんだろうなー。と思うと感慨深いです。
この景色、これが私のふるさとだな。
こんな小さな集落なんだけど、
(ここだけじゃなくもっと東側にもいっぱいあるんだけど)私にとってはこの見える部分が、幼い頃の記憶のふるさとなんです。
そして、こういう風景も日常でした。
この風景を見て10年間ここで幸せに暮らしてたんだと思ったら、
亡き両親を思い出して涙が出ました。
廃校となってしまった、鍋小学校。
悲しいけど、現実です。あの頃未来がこんな風に変わるだろうなんて、思ってもないよなぁ。
私のダイスキな学校でした。
そして、運動会で入場するために並ぶ坂道。ここから見る学校の全景や、運動会の入場行進のタメの高学年のおにいさん、おねいさんたちの
鼓笛隊が大好きだった。トランペット吹きたいって思ってたから、私は中学校に入ってから吹奏楽部に入部したんだっ。結果、トロンボーンを吹くことになったけど。
やはり私のルーツはここ。
そしてここが私の母園。鍋保育跡。
門が残ってました。
この下に木造の校舎があり、私が初めて預けられた5歳の時、父が連れてきてくれて、帰っていく姿を見ながら、泣かないと、、
我慢したのを今でも鮮明に覚えてます。
さて、ここから小学校の正門前を通って下っています。
ここを上がっていけば、高烏台に着きます。もうよー行かんと思うけど。鍋小の時には年に1度の6年生のお別れ遠足は全日生徒で
高烏に行ってましたよね。記憶にあります。
さて、くだっていきましょうか。
そうそう、なんで途中で石段があるんじゃろ。と子どもながらに想ってたわ。
あの教室、私3年生の時にあの教室だったと思う。
こんなに狭かったっけ・・荒れてるのもあるけど、もうちょっと広い道だった記憶が・・
正門です。
今思えば、とてもハイカラな門よね。
ここから見る景色好きだった。もう今は煙の上がらない高炉が寂しそうだ。
桜段も手入れがなくなって荒れ放題です。
街は生きてると思うけど、進化するのと違って衰退していくのでは、悲しみが勝ちますね。
おはようの坂道って閉校式の時に看板がかかってたのを思い出す。
この階段もこんなに狭かったんだなぁ。
右手にドレメってあったよね。洋裁教室っていうの?なんか、おねいさんたちがいっぱいいたような記憶があります。
左手のアパートは昔のまま。
この建物も昔からあったと思う。あずま湯の隣
黒い車が停まってるところに確か質屋さんがあった記憶がある。名前は憶えてないけど。
ふみのお好み焼き屋さんがあった場所は家に。そして私が結婚して社宅にいたころに借りていた車庫もオウチが建ってました。
台風19号の時には危うくクルマが浸かるところだったんよね。
あずま湯のお宅。くどうの内科。毎日この道は自転車で走りまくった道。
豆腐屋さんは更地になってた。時代はかわってる。奥に見えるかわいい建物が現鍋保育所。
そういえば、ほうしょう保育所はもうなくなったのね。今思えば、私が小さい頃は、この小さい地域に幼稚園、保育所が3つもあったことになる。
平和幼稚園・ほうしょう保育所・鍋保育所。
さ、帰ってきました。
材木屋さんももうお店はしてないんじゃろーな。
今回はぐるりと回ってみましたが、やはり変わってる場所が多くてびっくりでした。
うわ道路のあたりは空き家が多いのが目立ちましたね。
そりゃ、あの坂、、歳を取って登れんくなるのは当たり前でしょう。
平清盛が音戸の瀬戸を切り開く際に、炊事をする場所だったのが由縁で鍋という地名になったとか。
清盛を警護するものたちが住んでる屋敷が並んでた場所だから、警固屋という地名になったとか。
ほんまかどうかはよーわかりませんが、今でも小さい頃に通ってた路地が夢に出てくる私。
いつまでも帰る場所のない鍋をふるさとと思ってるのもおかしい話かもしれないけど、ここはやはり私の原点。
今でもあたたかくなれる場所。
また、歩きに行こうと思います。今日はちょうどいい機会があってよかった。
2021年を締めくくるいいチャンスでした。