ちょろきんの戯言

主に毎日のごはん、イベント、想ってる小さなこと。

いざ、鍋小学校閉校式に・・(本編)

2009-03-21 | ♪ふるさと鍋の~♪

 

さてさて、本命の閉校式に臨みます。

人生初の閉校式参加に少しドキドキしますがな。

会場の体育館に入って最初に思ったこと・・・それは。。

 天井の低さと電気・・・

さすがに古さを感じます。私が小学生の頃から変わってないワケですけー。

 この式の前には卒業式もあったんでね。体育館の内部はかわいく、飾りつけされています。しかも全学年分。

全校で150名っていったかしら・・あたしたちの時代は1学年でそれくらいおったもんね。そう思うと人数は激減してる・・と実感する。

 体育館の後方に、校章が・・

これがここに掲げれていたという記憶は私にはない

でも、この校章はスキやった。校章にスキもキライもないんやけど、漢字で鍋と入ってる、分かりやすい校章だと、小学生の頃から思っておりましたけー。

 側面には校歌があります。

やっぱり卒業生からの贈り物のようですね。ステキな木で組み合わされたような。。

1番はソラで歌えるけど、2番は覚えてないんよなぁ。助かるし・・今日は校歌を歌いに来たようなもんじゃー。

 ボチボチ出席者の人たちも座り始めました。まだ階段で、卒業写真をやんやと見てる人も多いと思います。

結局この席がほぼ、イッパイになるくらいの参列者がおりました。(まだ左側にも席はあるんよ。)

ささ、急いで写真を撮っておこ。

 この体育館は今、思えば側面の回りに通路がありません。(それだけ古いってことかの。)とってつけたようなライトの場所。高学年のおにいちゃんたちがはしごで上がる姿が、なんだかステキで、ああいうのしてみたい・・と低学年ながらに思ったものです。

そして、この体育館は2階だというのに、その窓の向こうにはまだ家が見える。。

あんまし、普通の体育館から見られる光景ではないかと。。

 ささ、式典が始まりました。

呉市歌を生で初めて聴きました。今年から歌うことになったんよね。

家でも娘は吹奏楽で演奏するし、息子は歌う機会があってと、、何回も歌ってはくれましたが、こんな大勢の市歌は初めてです。

この後、校長先生のお話がありましたがこのお話がとても印象的でした。校長先生自身が鍋小の出身で、わが子もこの学校の卒業生らしい。

鍋小に去年の春に赴任してきて、休み時間に校庭で遊ぶ子ども達は桜が舞い散る中で遊んでたと。

桜段から舞い上がる桜。

学校から見える青い海。

こんなステキな学校は全国探せどそうそう、ないと・・・

そういう話でした。情景が思い浮かぶようなお話に、もう、涙がちょちょぎれてしまった私・・鼻をズルズルいわすにはちと早かったのぉぉ。

子ども達が歌った学校坂道という歌。

さっき歩いてあがってきた『おはようの坂道』を歌にしたものでした。

特に、3番に感動しました。

3番だけは本校4年生が考えた詩です。と書き添えられていました。

校歌に通じる歌詞に、またまた涙が出てしまった。そして、子ども達の純粋な歌声が胸に突き刺さりました。あー、哀しい・・・何故に今、ここに私がいるのか、こういう場面に遭遇してるのか、そう考えるだけで哀しい・・

やっぱり母校が無くなるのって想像以上に寂しいもんなんだ・・・と実感しました。

校歌斉唱。

今回の最大目的は、校歌をみんなで歌うこと。

30年以上こうやって歌うことはなかったんだもの。(鼻歌で口ずさむことはあるけど)

1番はソラで歌えます。なので、今回は1番のみを動画で撮ってみました。

2番3番は歌詞を見ながら歌おうと、試みましたが、ムリでした。

涙が勝ってしまった。。。

私の前に座っていた女性も、しきりにハンカチで目を覆ってましたから、校歌がもたらす影響はやっぱり大きいもんなんだなぁ。と感じた一幕でした。

閉校式もそうそうに終わり、卒業生をお見送りする場面になりましたが、ごめんね。私はまだそういう気にもなれず、、またアルバムの部屋へヒトリ舞い戻って色んな年代のアルバムとにらめっこ・・・

ひとつ、気になってたことがあったんです。

 私が入学した時にあった1~2年生の校舎は茶色の屋根の木造校舎。これがいつ今の鉄筋校舎に建てかわったのか、、、私の思い出の校舎はいつ壊されたのか、、気になっておりましてん。

各、年代ごとをめくりながら、、見つけました。。

 1985年に建てかわったようです。

1984年までは上記の木造校舎が卒業アルバムに載ってました。

あーっ、ホッとした。このアングルの写真はこの学校ではハズせないものですけー、絶対アルバムには載ると思うとったとです。

この疑問点をクリアしたなら、私の任務は全て遂行です。

帰り支度をして外に出てみることに。。 ふと、うわ道路をみると見つけました。ペコリさん一家。ご子息も一緒のようです。何故にこちらに帰ってきとるのか・・

もう1つ、外で思い出深い場所があったのでね。そちらに行ってみることに。

 この水のみ場は当時のままです。

不思議に思うのは、この左側部分、水が管からシャワーのように出るようになってたハス゜。確かに出てるのもみたことも記憶にあり。でも、なんのタメ今となっては思うのでございます。

足を洗う・・・何故?プールの中にあるならわかるけど。

 

 裏手の坂をあがると、 懐かしい門に到達します。ここは、私が通っていた鍋保育跡。

 今では駐車場になっておりました。ここに木造の2階建ての超ボロっちい園舎が建っておりました。

大好きだった堀田先生がいた幼稚園です。この先生に出会って私は保育士に憧れておりました。結局、なることはなかったけど。。。

 私が見たかった場所。

それはこの坂道。運動会になると、ここに全校生徒が並び、この坂を下りて行進します。先頭は、トランペットの鼓笛隊。(正確には笛はないのぉ。。)高学年が吹く、トランペットがそれはそれは、カッコよくて憧れた~早く、トランペットが吹きたい・・・そう思った原点。結局4年生で引越しとなったので、トランペットを触ることなく去ってしまったわけですが、この時の想いが中学のクラブ選び=トランペットを吹きたいに通じたように思えます。

先頭に金色の玉がついた指揮棒のでっかいのを持って斜めに振る人がいて、この時初めて、ベルリラというものを見た。俗にいう鉄琴が立ってるやつ。あれはスゴかったよねぇ。憧れ~の的でしたわ。

 坂から全景を撮って帰ろうとふと、見ると、デコさん、、、同窓会してるし。。

ホンマ、今日したかったことは全部したわ~と満足で、学校を跡にするとこにします。来るときは正門から入ったので、帰りは裏門からひっそりと、、、思い出の桜段を通ってかえることにします。

 裏門です。

はっ、ひょっとして、こっちが正門と今更ながら思う・・・

 この階段です。3年生の自転車教室の時は、この坂をあがらないと、、学校にチャリは運び込めませんでした今、思い出しました。朝来た道には階段がありすぎです。

おぉぉ懐かしい桜段です

もっと、昔は段々がはっきりしてたような、気がするけど、桜たちは元気でなにより。

 1本だけ、しだれ桜のような花が咲いておりました。

 キレイでしたよぉ

 桜段からは、私が朝とおってきた道が丸見えです。花を抱えた卒業生、在校生が下校する姿が見えます。

はっ、今思った。この学校は全校生徒で卒業式なんよね。

ウチの子ども達が通う学校は5年生しか在校生は出ないわ。。人数の多さからかしら。 そうそう、ここよ。昔から思ってた。この道をよく、走って通り抜けてたけど、この部分だけ止まらないと通れない。。

なんせ、サクラが優先で道が2番目の場所なんだもの。健在でうれしい

さて、私もゆっくり通らねば・・・足腰があの当時より弱ってますからねぃ。

 桜段から、朝来た道に戻ります。

こういう姿もあと数日で見られなくなると思うと、、寂しい。

ブラブラきままに歩きながら、車をとめた公民館までかえります。

 この木材屋さんの倉庫。

昔ねぇ、よく遊んだのよ。

雨が降ると、どこにも行けんのさ。ここは屋根があるからねぇ。木材の隙間に1番のトモダチだったみかちゃん(ちょんこらりんの妹)とよくはいって、話をしたもんだわよ。

今、思えば、危ない場所だったのかもしれないけど、この近くを通ったときの木の香りは今でも私のタイセツなふるさとの匂いなんよねぇ。

 

これで午前の部はおしまい。

今回、ホンマ閉校式に参加して、よかった。

私てきには、自分のルーツを見つめ直すいい機会になったと思う。

こんなに母校をスキだった自分が、、こんなにこの土地を愛していた自分が、、

そしてその理由に、なんのしがらみもない自分が子どもで不安もなく親や家族に護られていた1番幸せだった時代をこの土地で過ごしたから、今でもこの土地は私にとって特別な場所で、美化されたままなんだと思う。

すべてにおいて、鍋は私のタイセツなふるさとであり、楽しい思い出しか思い出されない特別な場所。

町は変わり行くけど、私の脳裏にしっかと残ってる当時の町並みと、あのときのトモダチと、町の匂いは一生忘れることがないんだな・・・と確信できたひとときでした。

この小さな町。

いつまでも私のタイセツな宝物になりそうです。

 

追記

お土産にもらった(数に限りがあったらしい。)

シロモノ。。134年間ありがとう。という気持ちなのかしら。。

 中身は紅白のしかも、校章が焼き印されたまんじゅうでした。

校章入りだなんて、嬉しいじゃないの。。。

おかし処『つくし』さんのものでした。つくしさんの店主自体がこの小学校の出身ですしねぃ。

子どもさんも4人か5人くらいおってか、、もしかしたら在校生におってかもしれません。こういう心遣いがうれしかったですねぃ。

おいしくいただきました。こころしていただきました。

ごちそうさまでした。

もう1つのおみやげ。 下敷きでした。校歌と一文字が入った、、 

あぁぁぁ、ホントに終わってしまうのね。。なんか寂しい・・・

 

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いざ、鍋小学校閉校式に・・(校庭編)

2009-03-21 | ♪ふるさと鍋の~♪

 

一体何部作になるんだろ・・ちょっと恐ろしくなってきたが、、残せるものは残しておきたいのでがんばる・・記録として私のアルバム代わりですけー。

正門に足を踏み入れて、最初に見たかったものがあります。

それは、、 この手前の像。忘れもしない100周年記念で催しがあったとき私は3年生だったんだけど、その時の記念に立てられた像。

そして、当時校内のことに一生懸命な先生がいてね。

梅中先生っていうんだけど、私の兄もお世話になった先生。

その先生が100周年の歌を作っちゃった。作詞作曲、両方手がけたんぢゃなかったっけな・・・先生はもうお亡くなりになったと風の噂で聞いたけど、それはそれは、歌いにくい歌じゃったことはよー覚えとる。(ごめんなさい、梅中先生。)

私は4年生までこの学校に在籍したことは、前にも書いたが、1年生の時は4組ぢゃった。担任の先生の名は松田先生。新卒の先生ぢゃった。ヨソのクラスはみんなおばあちゃんみたいな先生ばかりだったのに、私のクラスはピッチピチの先生で嬉しかった覚えがある。

松田先生はまだ現役で先生をしてらっしゃる。と当時の同級生(今は先生)から去年か、聞いた。お元気で何より・・・

3年生でクラス替えがあった。3年生は3組ぢゃった。このクラスで、デコさんのお兄ちゃんと同じクラスとなる。

初めて男の先生が学年の担任になってちょっとびっくりしたのを覚えてる。その先生は1組やったけどね。久保先生っていう先生やったなぁ。

その時の担任は砂古先生。日本的な顔をした先生だった。物静かな先生だったことをよく覚えてる。私が引っ越すときには、学活の時間を1時間使ってくれてお別れ会と称して遊びの時間を作ってくれた。後にその時の写真を送ってきてくれたのを覚えてる。

話は戻るがね。100周年の記念の像の横から校舎の裏に廻れるのさ。

 それがこの道。何だかこの道が超懐かしい~って感じる道なんですわ。

何故って、ここを通っていつも休憩時間になると行っていた場所がありますねやわ。

 それがココ。てか、校舎の裏手にブロック塀があって、例の桜段を覗く感じになるんだけど、あの緑の草ボーボーのあたりに、1年生の時に飼っていた手のり文鳥の‘チコ‘のお墓があるんです。

1年生の私の誕生日に不慮の事故に遭い、お空に逝ってしまったチコ。

母が線香の箱にチコの亡骸を入れ、好きだった食べ物を詰め花で飾って夜、私をつれてこの桜段に埋めに来た。

そんな思い出もある桜段。

いつも休憩時間になると、1日のうち1度はここからチコに手をあわせてた。

(なんか、暗いガキやなぁ。あたしって・・・)

30年以上も経つので、もうチコは土に還ってるよね。きっと・・・

ここからもう1度あの場所を見てみたかったんよ。

 

小学校内はもうサクラが咲いておりました。 何故か1本だけ・・・なんで

 そして、菜の花もキレイでした。遠くに見える法しょう保育所はもっとここより高台にあります。

最近の学校では珍しいのでは・・

うさたんがおりました。広小も鳥インフルが流行ったあたりからイキモノがおらんようになりましたね。私が在校生の頃は、にわとりもウサギ小屋も確かにありましたね。

その場所には車が停まっておりましたけど。

 高価な百葉箱も健在です。家ではありません。百葉箱です。(笑)

 なんだか、鍋ってホント高いところまで家があるのねぃ。と思わずにはいられない。

そして、、この春の匂い。この匂いは鍋独特なにおいなんよな。。。

 こちらは裏門です。私はここから下校することはなかったけど、1度帰ってから遊びにくる時にはよくこの門から入ってきたなぁ。

 そして、ここも見たかった場所の1つ。モノ置き場と化してるけど、、ここは体育館の裏です。

もっと広いイメージだったんだけど、、、ここは運動会の時、両親とお弁当を食べる場所だった。ひんやりと涼しい場所。母の玉子焼きとおにぎりとタコさんウインナーが大好きで、幸せなひと時だった記憶が鮮明にある。なんだか、私自身があの当時に戻った気になったよ。

あー、やっぱり来てよかった

さて、校舎をみてみよ。

 メインの校舎。

3~4年生をこの校舎ですごした。

 私の天敵プール。

大っ嫌いやったなぁ。プール。今でもかなづちですが・・・

当時の水泳帽は赤とクリーム色の交互の帽子でね。級があがると黒いリボンを縫い付けたりするイヤミな帽子やったんよ。

あたしはホンマ水がキライで、、前世は水の事故で死んだじゃなかろうか。。と思うほど。松井先生っていう先生がかなづち生徒担当やったんよ。

お婆ちゃん先生やったんやけど、『水と仲良しになりましょう。。』って輪になって手をつないで浮く。

それがまずダメやった・・・地獄やった・・・根本的にムリポ

プール嫌いっす。

 体育館。おもろいのが体育館が2階部分で1階は職員室、保健室、特別学級、図書室、校長室、、だったこと。敷地が狭い故の校舎よね。

今はどうなってるかはまた別の話やけど。

 あ、この遊具・・・・思い出あり。

ジャングルジムが小さい頃からキライな私。。しかもこのジャングルジムには上から両足をかけてすべり降りる平行な棒がついてる。

これがメッチャ怖かった高いところがニガテなのか、ジャングルジムの細い棒がイヤなのか、とにかくこの平行な棒に足をかけて降りる・・・1度だけがんばってしたことがあったけど、怖くて怖くて。。。。

しかもこの遊具。スグレモノてか、大物でね。

 うんていと繋がってるのさ。今では考えられない大型遊具なんぢゃない??ただ、校舎を建て替えるときに向きは変わってると思う。うんていは体育館側にあった記憶があるから。

1年生の頃とかって体育っていっても幼稚園に毛が生えたような頃なのでね。

『さぁ、ヨーイドン!で遊具を全部まわるよぉ。』

と、、うんていからジャングルジムに上がり、平行棒をすべっておりる。

 滑り台まで走っていってすべる。そして、挙句のはてに、、 タイヤ跳びで帰ってくるよーな体育ってやったよね。

アレ大っきらいやった・・・遊具は自分の好きなように遊びたかったんよね。

ま、思う存分、外は撮ったので閉校式参加者の控え室ってのがあるので行ってみることにする。

 うわばきに履き替えて、廊下を歩いてみる。給食室は当然場所も移動なく、ここにあった。このコンテナも使われることはもう2度とないのね。

 あの大鍋が稼動するとこもないのね。。寂しいです。私がいた頃は、木造の校舎が立っていました。1、2年生の時はこの木造校舎で過ごすというのがお決まりやった。

が、今は鉄筋にかわっててその校舎を通って体育館に向かいます。

 おぉぉぉ、ここよ、ここ。体育館の入り口なんだけど、

このまっすぐ廊下が夢に何度か出てきたことがあり。。図書室になんか思い入れがあるのか、図書室が大好きだったからか、、、

あの独特な図書室のにおいが好きだった私。いつも同じ本を借りて読んでた頃。

今は図書室ではなく、資料室になってたけど、ちょっと失礼して戸を開けてみた。

奥の方には、本棚があり捨てられる前のような本も並んでいたが、やっぱりそこは、あの図書室の匂いだった。。胸がきゅーんとしたさ。

その対面に控え室があった。

中は結構な人である。ここにあるのは 歴代の卒業アルバムたち。

私は卒業してないので、鍋小のアルバムは持ってないけど、 同級生たちの写真を見てみることにしよ。懐かしい面々が見ることができるんやろな・・・

顔は覚えてても忘れていた名前を見つけては、『そうそう、こういう名前やった・・』と独り言を言ってたのは私です。名前とか覚えるのは結構得意だったりするので、フルネーム言えたりヘーキでするんだけど、懐かしい顔と名前に癒されました。

当然、デコさんのおにいちゃんも見つけましたぜぃ。

 ふみくーーーん。女子の何人かは高校で一緒になったりしたけー懐かしさもひとしお。

 ふみくんの弟くんもハケーン(別名:デコさんともいう)スーツ姿は初めてみたし。

 他にはこんなのが展示されてたり、 片隅においてあった何とも懐かしいモノも、、、コレって何か知っとる

 オルガンなんよ。懐かしい~我が家にも数ヶ月来たオルガン。まったくコレと一緒。足踏みじゃけーね。

ムリヤリ開けてしまいました。ごめんなさい

そろそろ、閉校式が始まるようです。2階にあがりましょう。

 階段を登って体育館に行くなんて、在校生の頃は当たり前だったけど、今考えるとやっぱり、不思議なんよね。

階段の壁には今までの卒業写真が飾られてます。

 こんな風にね。

そこで、見つけたわ。我が家での卒業生。 実兄です。丸子先生はこの頃からおっちやったんじゃね。担任は高橋先生という名だったと思います。

ひぃぃぃぃぃ~どうだ、まいったか>兄。。。まさかこんなところにされようとは思わんかったやろ・・ケケケ

 体育館の入り口には卒業生の作品が飾られておりました。

さて、懐かしい体育館での閉校式・・

心して臨みましょうぞ。

閉校式のお話はまた別のお話で・・・・

 

  

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いざ、鍋小学校閉校式に・・(道のり編)

2009-03-21 | ♪ふるさと鍋の~♪

 

ホント、1年経つのって早いんよね~

去年、私の母校が閉校になることが正式に発表された。

3校が1つとなり小中一貫校になるという。

私は卒業こそしてないが、この学校が母校と呼ぶには1番しっくりくる。てか、思い出深いには違いない(小4で引越ししたタメ、卒業は他校。)

少子化には勝てないようで・・・

その学校の閉校式があるということをHPで知ったので、今日1日はかあさんの好きなようにさせてね1日と称して、朝から出発することに・・

逸る気持ちを抑えちょっと早めに出発する。

10時10分から受付があるっていうから、早めに出て、学校までの道のりを散策しよう~子どもの頃通ってた道はきっと、今は狭く感じたり、、あの時のままの場所があったり、、遠い記憶を呼び起こしながらゆっくり歩いて行ってみよう。

そう、ヒトリで行く。

これが今回必須でした。

ペコリさんもご夫婦で参加(同じ学校の同級生同士なので)と言われてたし、きよちゃんもセンパイなので、誘おうかとも思ったけど、ここは敢えてヒトリで・・・

私にはもう鍋には何も残ってないんです。

墓も鍋ではないし、親戚も鍋にはいない。

ということは、祭りであっても帰れる場所もなく単なる観光客部外者なんですね。

なのでね、また格別な想いもあるのかと。そういう時にはヒトリに限る。

自分のペースで自分の気持ちとちゃんと向き合って、お別れをしないと、一生後悔すると思って。で、ヒトリでガーガー泣く。

それがお決まりなんだな。きっと・・・・

 公民館に車を置いて、あの高台までの道のりを楽しみましょうぞ。行きかたは何種類かあるけど、やっぱり王道(私が通った道)で行かねばね。

せっかくも昨日しゅんろ~さんに設定してもらったんだしさぁ。チビデジとあわせて使い分けてみよ。

歩き出して、まず、、 この場所。

私が小さいときは、全部海でした。夏になると毎日夕方、裸足になって波打ち際で遊びまくったものです。いつもダレかの親御さんが近くにいて、近所の小さい子の面倒を見ながら、何人かで遊ぶ毎日。。。それが夏の日課だった。

今は道路が出来、果てしなく埋め立てられ、最近ではスパーも出来たりして。

 完全に様変わりしとります。

 この通りは、1日1度は必ずで通る道やったなぁ。

結婚してここいら近所の社宅に住んでるときは、ここを通って道路に出てた生活道路でもありました。

 病院は先生がお亡くなりになってもう廃業してます。その手前には卓球場があった。サッシに卓球と書かれてたのを覚えてる。卓球ってあんなもんなんだ、、、、と窓が開いた隙間から観てた。

ビルになってる場所は昔、私にとっては駄菓子屋さんだった。

小売りのお店。私は駄菓子を買いに毎日のように通い、母は八百屋・日用雑貨・惣菜などを買ってた記憶があり。

ここは大正橋という橋がかかっててね。悪さをする上級生達の後をついて走ってるのを足の遅い私だけがつかまって、散発屋のおじちゃんに、川に落とされそうにされたことがある・・・(悪さしたのはわたしぢゃないのに。)

後に、社宅に入ったときに、そのおじちゃんは健在でその話をちゃんと本人にしましたがね。(私は悪くなかったって・・)

 まさしく、私の道。小さいときも結婚してからすぐの社宅も、すぐソコでした。そして未だにこの右手に見える醤油屋さんの醤油を愛用してます。

この醤油でしか味をつけられない、、、他の醤油で味をつけようもんならヘンテコな味になってしまう。(要は慣れてる味なので自分の口にあってないだけ。)

 ここです。私が10歳まで住んでいた家。近すぎて全景が撮れませんでしたが、まだ建ってるということがスゴイ。

借家でしたが畳の大きさが本間っていうのかな今の6畳よりは広かった。

部屋こそ3つしかなかったけど、家族5人(気がついたときには4人やったけど。)が住むにはちょうどええ大きさではなかったのではないかと。。

ビンボーやったということですねぃ。でも、楽しかったな。

この家が夢に出てくる家です。当時の家の中の家具の1つ1つがどこに配置されてて、、という記憶が鮮明に残ってるんですわ。

昨年の暮れ亡き母が夢に出てきて、赤子を抱っこしてたのがこの家の居間でした。

私にとっては、とても思いいれのある家。

手前にも長屋のような古い家が建っていて、何世帯もの人が住んでましたが、ここよりも古かったのか早くに取り壊され、今は駐車場になってます。

町は変わりゆくもの。。生きてるんだもの。わかってはいても寂しいもんですね。

 ちょっと振り返ってみたら、近所のおばちゃんがおっちゃったわ。氷屋さんと食堂をしていたおばちゃんです。

 小さいときからあったスーパーが閉店し、駐車場になっとりました。ここは昔、映画館やったらしい。。その前にあった銭湯も無くなったしね。

 ここのたこ焼きを毎日1本小遣いで買ってたなぁ。

ほいで、あのあたりに、犬が繋がれてて、、通るのが怖かった・・・犬と目を合わせたら、吠えられるって言われてたから、、目を見んようにソロリソロリと歩く・・・そういう小学生でした。

さ、国道にでましたぜぃ。 国道じゃなかったっけ??こうやってみるとやっぱり小学校は山の上にあるねぃ。今でこそ信号がついてるけど、私が小学校にあがった年にはまだ信号はなかった・・

ここにあるタバコ屋のおばあちゃんが、いつも黄色のハタをもって登校時間には出ててくれて、、危なくない時に声をかけてくれてた記憶がある。

2年生になったときに信号がついたんよ。確か・・・

あのおばあちゃん、大好きやったな。でも、ホントはおじいちゃんの方が好きやった。魚屋さんをしてたおじいちゃんは、いつも魚を母と買いに行くと、私に話しかけてくれよった。優しいじいちゃんやった。

 そうこうしてるうちに、信号も変わりそうです。あのバス停のところにあったお店の鯨の天ぷらがぶっちおいしかったんよ。

 その前には、文房具やさんがあって、夏になったらバラで花火を売りよった。少ない小遣いから買うには、1本単位で花火を売ってくれるのがありがたかったな。今は、さら地になっとるね。

 さて、この階段をあがろうかね。この階段も私が小学生の頃から変わらんな・・

 階段をあがってると、お宮が見えます。トトロの塚の森という言葉を聞くと、この木をいつも思い出す私。

このお宮は私の1番の思い出場所。毎日遊びに行ってたもの。

 このそれ道は絶対変わってないな・・なんか、そのまま残っててくれるのって嬉しい。

 私が小学生の頃はまだおはようの坂道ではなかったと思う。確かに年代モノですがね。看板・・

ここまで登ると、 こんな風に景色が見えます。私にとってはこの工場もふるさとの大事な景色。夏休みの図画の宿題にはクラスで何人かはここの煙突を書くという、、それがごく当たり前・・・ってことが成り立ってましたから。

そうそう、この家は昔のままだわ

ここが家ならええのになぁ~っていたも思いよった。

 とにかく、坂が急なのと、階段が多いということで、お年寄りにはしんどいと思うんよね。この上にも沢山家がありますけー。

 そしてこの階段を登ると一段と景色も高くなる。

ここをすぎると学校はすぐです。

そういえば、このお宅、普通のお宅ですが、、確か文房具を売ってたです。

学校の行きに帳面を買いに走ったもんです。だって、正門のまん前なんだもん。

 これが噂の桜段。(さくらだん)

下から見てもわかるように、もう少ししたら桜の花で小学校が埋め尽くされ、それはキレイなんです。

 つきましたぜぃ。

門を入るとすぐ校舎。というのが、敷地が狭い証拠でしょうね。

あのガラス、、私らの頃は吹き抜けでしたね。セキュリティーの関係で吹き抜けは今では出来んのでしょう。。

ここまで来るのに、沢山写真も撮りました。ココからは懐かしい母校に足を踏み入れ、涙、涙なのでございます。

それはまた別のお話で・・・

 

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