栗太郎のブログ

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神々の宿る伊勢・熊野の旅(11) 補陀洛山寺

2014-07-06 17:35:29 | 見聞記 箱根以西

那智大社・青岸渡寺から、海岸線に戻る。
那智勝浦の町の中にある、補陀洛山寺(ふだらくさんじ)に寄った。

仏教の世界では、西の方角に極楽浄土があって阿弥陀様がいらっしゃるという。
同じように、南方にも観音様の住まう浄土があるとされていた。そこは、補陀洛山と呼ばれていた。
補陀落とも、普陀落とも書く。それが、この寺の名の由来。
チベット中心地、ラサにあるポタラ宮の名も、この補陀落山のこと。
勝道上人が開いた日光の二荒山(ふたあらさん=ふだらくさん)も同様だ。ちなみに、二荒を音読みして、ニッコウ→日光となった。
たしか僕が、今回の旅の同行者・J君の彼女とはじめて会ったとき、観音浄土の話になって、遠く南方の海の彼方にそれがあると話すと、
彼女はすかさず、沖縄で言うところの「ニライカナイ」のようなものですね、と返してきた。
まさにそれだよ、と僕はひざをたたき、その名を出してくるところのセンスに感じ入った。
それ以来、ときたまJ君を置いてきぼりにして、歴史談義に花が咲いている次第。


さて、こちらが、平成2年(1990)再建の本堂。
それまでは、江戸時代・文化5年(1808)の台風で壊れたまま、仮本堂だったという。




お隣、浜の宮王子社あとには、熊野三所大神社(くまのさんしょ・おおみわしゃ)が建つ。
ここにも、神仏習合の名残。





中世、修行を積んだ行者が、生きながらにして、粗末な船に乗って南方の海へと旅立つ「補陀落渡海」が行われた。
つまり、即身仏などとおなじような捨身行のひとつのかたちである。
日本各地でその記録は40回以上もあり、なかでもここ補陀洛寺から旅立った渡海僧はそのうちのうちの25回を数える。
貞観10年(868)の慶龍上人にはじまり、江戸時代・享保7年(1722)の宥照上人までの記録があるという。
記録漏れもあるだろうから、実数はこれよりも多いらしい。

井上靖の小説『補陀落渡海記』は、その名の通り、この寺が舞台である。
小説では、「洛」ではなく、「落」。あえて字を変えたのは、いくぶんかのフィクションで書かれていますので、と気兼ねしたかのようだ。
僕は去年、うちの婆さんがあちらの世界に旅立ったときにこの小説を読んだ。(レビュー
小説の中の金光坊の失態は、渡海僧が総じて崇高な志しをもって南方に旅立ったのではないという一例であった。
僧自身の意思ではなく、次第に強制的な儀式になっていったのは、悲劇であったろう。
そういうこともあって、のちに、住職が死亡してから渡海船にのせて水葬をするという形へ変わっていった。



本堂の中。
奥の扉の中には、ご本尊の十一面観音がいらっしゃる。慌しさのせいで、拝観できるのかどうか聞き漏らしてしまった。





本堂内には、畳二畳くらいの大きさの那智参詣曼荼羅のレプリカがぶら下がっていた。

 このような絵図です。(こちらは熊野那智大社蔵のもの、wikiより)

中世、熊野比丘尼と呼ばれた尼さんがこの絵図と熊野牛王を持って、献身的に全国各地を廻り、勧進を募った。
集まられた資金は、熊野の社寺の活動費や諸堂の修繕費に充てられた。
ちなみに高野山の場合、諸国を廻った高野聖が男だったのは、高野山という寺が女人禁制だったからだろう。
その点、熊野というところは、貴賤問わず、女人にも寛容。だから、男である制限はなかった。
とはいえ、どうして資金集めのような活動を女性だけに任せたのかっていうの疑問もうまれてくるのだが。
ともかく、当時の日本各地、熊野神社はいたるところにあったから「熊野」という地名は知っていただろうけど、行ったこともない人がほとんど。
しかも、庶民は字も読めないし、そもそも本さえもないわけで、情報過多の現代と違って、どのようなところなのか知る由もなかった。
そこへやってきた比丘尼たちは、霊験新たかな牛王を携えており、熊野周辺の名跡や伝説などを書き込んだ絵図も持ち歩いている。
人々は、比丘尼たちをあたかも熊野の代表者として敬い接したことは想像に難くない。
そして彼女らは、その絵図を広げて「絵解き」をして熊野という聖地を紹介するのだ。

絵図の右下に描かれている関所から先に入れば、そこはもう熊野の神域。
ここ補陀洛山寺や那智大社・如意輪堂(青岸渡寺)はもちろん、那智の大滝や、最後には左上に妙法山が描かれている。
人物も、白装束の二人連れの参拝者(絵図の説明を聴く聴衆をこれに見立てて説明するらしい)や、文覚上人と制多迦童子・矜羯羅童子、花山法皇、和泉式部、平維盛と石童丸などなど多数。
描かれている建物や風景、人々に、それぞれの物語がある。
そんな密度の高い曼荼羅を、言葉巧みに語る熊野比丘尼。人々は興味深く聴き入ったことだろう。

しかし、時代も下って江戸時代にもなってくると、各地を廻って歩いた熊野比丘尼の活動も、しだいに、歌を歌って聴衆をたのしませる歌比丘尼へと変化していく。
さらに、旅芸人がそうであったように、彼女たちも、春をひさぐ女性へと堕落していくようになる。
江戸元前期、大阪の人気作家・井原西鶴の作、『好色一代女』にでてくる主人公の老女も、いくつもの好色遍歴を経験してきた過去を披露するのだが、もちろんそのひとつに歌比丘尼も含まれている。
当時はもう、遊芸業のひとつとして認識されていたということなのだろう。



で、話は補陀落渡海に戻って。
その曼荼羅絵図の一番下に、海へと旅立つ渡海船の姿もしっかりとある。



その渡海船が、復元されて境内に展示されていた。
入母屋造りの帆船で、四方には、発心門、修行門、菩提門、涅槃門の鳥居がある。



渡海は、11月の北風の吹く火を選んで、夕刻に行われたという。

以下、寺の由緒より、    

   ・・・・見送りの観衆のどよめきの中を一ノ鳥居をくぐって浜に出て、白帆をあげ、屋形の周囲に四門及び忌垣をめぐらせた渡海船に乗り
      伴船にひかれて沖の綱切島まで行き、ここで白綱を切って観音浄土をめざし、南海の彼方へ船出して行ったのである。
      一灯をともし、日夜、法華経を誦し、三十日分の油と食糧をたずさえて生きながら極楽浄土に旅立つ信仰である・・・・    

いわば、ひとりの人間が死に行く姿を、みんなで見守って送り出す宗教行事なわけだ。
見送る多くの人、送られるたったひとりの人、それに付き添う何人かの人。
それぞれの心理状態を想像すれば、その場の集団トランス状態はいかばかりであったか、ちょっと怖い気がしてくる。
渡海僧が付き添いと別れる綱切島は、金光坊の事件以来、金光坊島と呼ばれるようになった。コンコウボウジマは、いつしか「コンコブジマ」となる。
で、その島はどのくらい沖にあるのか気になって、ググッてみたのだけど、どうも「ここ!」という確証を得られない。
これならば、寺で地図を見ながらきちんと教えてもらっておけばよかったと後悔した。
どうやらこのあたりというのが、下の画像。(google mapのストリートビューから拝借。)
小さな岩礁のような島がいくつかあり、おそらくその中のひとつらしい。特別、ぽつんとあるわけでもないようだ。




こちらは、境内にある渡海の記念碑。



永禄8年に、金光坊の名はしっかりあった。
平重盛の長男、平維盛の名もあった。
維盛は、時代をときめく平家の貴公子として生まれながら、どこか性格的な弱さをもつ。
富士川の戦いでの弱腰や、倶利伽羅峠での惨敗、一の谷の戦い後の失踪など、およそ、武家の惣領を背負う立場に似つかわしくないのだ。
その維盛は、源氏との決戦に怖気づいたというよりも妻子恋しさが失踪の理由だともいわれるが、どのみち、平家の他の公達武者ほどのメンタリティを持ち合わせていなかった。
そして維盛は、高野山を経て、熊野を参詣し、那智の海で入水する。
入水というのだから、渡海とは異なると思うのだが、ともかく、記念碑にはその名が刻まれている。
ちなみに、維盛のその後は、本当は那智の僧にかくまわれて生き延びたとか、捕らえられ鎌倉への護送中に食を断って死亡したとか諸説もみれる。
浄瑠璃『義経千本桜』では、鮨屋の下男・弥助となって出てくるが、こちらは創作でしかないだろう。
ともかく、滅亡へと傾いていった平家の一族の中で、戦死、もしくは捕縛後の斬首などで世を去った者が多い中、維盛の死は異例だった。


 ご朱印


この旅も、この補陀洛山寺が最後の訪問地となる。

こうしてはじめて訪れた熊野というところは、とても不思議な感覚を与えてくれる土地だった。
帰ってきてから本を読んだりすればその気分はなおさらで、山の民と海の民、古代と現代、右と左、史実と伝説、人間と神様、、、
うまく混じり合っているようでいないようで。
共存しているかと思えば、放っておくとすぐに相容れなくなってしまう様は、まるで水と油でできたドレッシングみたいな印象をもった。


ここを2時半にでて、帰路につく。
熊野灘を右手にしながらの国道42号線の道程のうちはまだ旅の気分も残っていたが、鳥羽からフェリーに乗り込むと、とたんに寂しさがこみ上げてきた。
揺れるフェリーから、今離れた鳥羽、伊勢方面を振り返った。
旅はもう終わりなのだという感傷のせいか、目の前の伊勢や熊野の山塊が、自分にとっての浄土だったのではないかという錯覚をおぼえた。



乗り込むときはまだ明るかった空も、海上にでると夕空に染まりだし、対岸の伊良湖に着いた頃にはすっかり暮れてしまった。
まさに、酔いがさめて現世にたどり着いた、とでもいえるような気分。
あとは、高速をとばし、夜中の1時半を過ぎて宇都宮に着いた。
こうして、丸二日間でおよそ1500kmを超える旅が終わった。

(おわり)



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