栗太郎のブログ

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出羽三山の旅(9) 羽黒山五重塔

2015-10-02 21:43:37 | 見聞記 東北編

羽黒山参道の門前町、手向(とうげ)の駐車場に車をとめる。
いまでも数軒の宿坊があるが、江戸時代にはひしめき合うほどに宿坊が並んでいた名残を感じる。



明治以前は仁王門と呼ばれた、随神門。
ここから羽黒山へとつづく石段は2446段、1.7km。



随神門をくぐり、石段の続く継子坂を下る。
神域に足を踏み入れた気配。



下ってきた継子坂を振り返る。



石畳は直角に折れ、



秡川(はらいがわ)にかかる神橋にいたる。ここがあの世とこの世の境界。
川幅も広く、かつて参拝者はこの川で身を清めた。



橋をわたると、水辺のせいかヒンヤリとしていて、さらに空気が変わった気がしてきた。
まっすぐな石畳がまた直角に折れる。
その正面にある樹齢1000年ともいわれる老木は、爺杉。



その少し先の、ちょっと奥まったところに、五重塔がある。
素木の塔なので杉の中にうまく隠れてしまい、気付かずに通り過ぎる観光客もいるんじゃなかろうか。



東北地方における唯一の国宝五重塔。
高さ29m、三間五層のこけら葺き。






下から見上げると、各層のすらりと伸びた軒を支える算木が美しい。まるで、大鳥が広げた翼の骨が、剥き身で晒されているようだ。
さかのぼること平安時代、平将門(不詳~940)の建立とされる。その確たる証拠はない。五重塔前の由緒書きには「古書によれば」とあるが曖昧だ。
まあ、自領の経営で手いっぱいの将門が、遠い出羽の寺の五重塔建立にかかわるとは到底おもえない。
おそらく、仮に何らかの由縁があり、それを裏付ける書物があったとしても、明治の廃仏毀釈でことごとく灰塵に帰しただろうな。
その後、『羽黒山旧紀』という書物によると、南北朝時代の応安5年(1372)に羽黒山の別当職であった大宝寺政氏が再建した、という。
そう、神社の公式HPにもある。いくつかのサイトでも、それと同じ説明になっている。
残念ながら、これは嘘だ。ちょっと調べればわかることだ。
なぜならば、大宝寺政氏という人は、戦国時代はじめの人(1500年前後と推測できる)なのだから。
政氏の「政」の字は、室町8代将軍足利義政(1436-1490)より偏諱の授与を受けたものである、とまで書いているものまである。
それならなおさら政氏が生きた時代は、戦国時代のはじめでしょうに。
なのに、その同じ解説文の中で、100年以上も前の応安5年に政氏が再建したと書いている。その矛盾に疑問がわかないのだろうか?
よしんば、たまたま同名の先祖がいてその人物が再建したのだとしても、そもそも大宝寺家が別当職を代々務めるようになったのが戦国時代になってからなので、
やはり「別当職についていた政氏が再建した」という史実はあり得ないことになる。
なぜ五重塔の説明を書いている人たちは、時代的に整合性がとれないことに気付かないのだろうか?
それとも、将門の件ですでにホラを吹いているので、それに比べりゃこんなことは些細なことだと気にもしないのか?
ツッコミついでに、由緒書きには四方に掛けられている額を小野道風(894-967)の書と伝えられる、とある。
道風といえば、当時宮廷内において「三跡」と謳われるほどの能書家で、たしかに将門とは同時代ではあるが、都にいた道風がどんな因縁で書いたのかと、
あまりの突飛さに不意打ちを食らうほどの衝撃を受ける。
なぜ、当の五重塔の前に立て掛けた由緒書きに、こうも平気でハッタリをかませるのか不思議でならない。
これが、いち地方のちょっと有名なお堂とかなら笑って流せるが、曲がりなりにも『国宝指定』の五重塔なのだ。由緒不明瞭な解説はどうかと思うのだが。


かつては、神橋を渡ったこの辺りには瀧水寺(りゅうすいじ)という寺院があって、五重塔はその本堂だったという。
五重塔が本堂?、とまた、引っかかってしまった。
そもそも、仏教における塔は供養塔として建てられたものが多いはず。それが、本堂の役割を果たしているなんて、ちょっと違和感がある。
いま、五重塔の周りを囲むこの鬱蒼とした杉の林は、樹齢350~500年だというが、逆算すれば、江戸時代のはじめごろに植えられたという計算になる。
つまり江戸時代になる前は、今目の前にある冷厳静謐な風景とはまったく別の風景だったということだ。
おそらく、神橋を渡ってここまでの参道の両脇には、瀧水寺に連なる数多くの伽藍諸堂が並んでいたはずだ。
爺杉あたりの整然と敷き詰められた石畳にはその面影を感じることができる。
となればその参道に面したどこかに、ちゃんと本堂としての立派な堂宇が建っていたんじゃないだろうかと思うのが自然ではないか。
ちょうどその頃の領主は最上義光だった。戦国時代にそれまで上杉勢が支配していた庄内は、関ケ原以後、最上氏の領有するところとなったのだ。
(ちなみに、庄内の殿様といえば酒井家のイメージが強いが、酒井家は、義光から3代続いた最上氏がお家騒動がもとで改易ののちに入部し、明治にいたる。)
慶長13年(1608)には、最上義光が修理したという記録が残っている。
もしかして義光は、おそらく五重塔だけを残して瀧水寺の伽藍をことごとく壊し、そのあとに杉を植え、寺を廃寺にしたんじゃないか?
理由として想像できるのは、関ケ原の折、羽黒山、もしくは瀧水寺単独で上杉方の味方をして最上と対抗し、その意趣返しに取り潰された、という見方はどうであろう?



ちなみに、この五重塔を題材にした小説がある。
『禊の塔ー羽黒山五重塔仄聞』、高齢89歳にして文壇デビューした久木綾子、その第二作目という歴史小説だ。

禊の塔―羽黒山五重塔仄聞
久木 綾子
新宿書房

なんというか、締まりがない小説だった。
この五重塔の建立か、再建にまつわる謎を解きほぐしてくれる手引きがあるのかと期待を込めて読みだしてみたのだが、いやあ面白みがない。
舞台は応安3年(1370)。まさしく南北朝時代の話なのだが、この中でも大施主を武藤政氏(大宝寺政氏のこと)としてしまっている。
再建なら再建の話でいいのだが、建て直すきっかけをすっ飛ばして、途中の屋根葺きの話から始まっている。
主人公も曖昧で、では群像劇かといえば、そうでもない。人物描写も、輪郭は見えるのだが、それぞれの物語の中での落としどころが気に入らない。
たしかに、わずかに残る当時の資料を精査し、現代の棟梁や先達に教えを乞い、細部にわたる技術や知識を習得された根気は執念ともいえるほどで、恐れ入る。
しかし小説は、数字並べ、ではない。読後に心に残るのは、数字ではなくて、やはり人と人とのやり取りだ。
あとからその場面を思い返して、セリフは覚えていなくても、じわっとまた涙を誘うとか、知らずにちょっと勇気がわいてくるとか、そういう感情をいくつも心に積もらせてくれる小説が好きだ。
遺構が発見された「溝」についてもそうだ。溝に固執してしまったがために、そっちに気を取られてしまって描かなくてはいけない部分を書き忘れているように思える。
験比べも、迫力に欠ける。若い坊主はヒールなのか、なんなのか。
だいたい、文章が読みにくく、ストーリーが頭にすんなりと入ってこないのだから始末におえない。やはり、女性作家は苦手だ。








すでに、日暮れの刻限も押し迫っていた。こんなところの黄昏時は、なにか背筋に寒いものを感じてしまう。
五重塔で引き返し、随神門までくると、ライトアップの準備をしていた。
お!これはこれで照らし出された五重塔もオツではないかい?、とも思ってみたが、帰りが遅くなるのはつらいのでやめた。
手向の集落まで戻ってくると、商店の店先で玉こんにゃくを売っていた。
味が染みこんでいて、実に美味い。身体の疲れもいい調味料になっていたのだろう。



出羽三山を巡る旅も終え、最上川沿いの国道を走るのも、また数日前と同じだった。
Yちゃんを新庄駅で降ろした僕らは、高速に乗り、SAの牛タン定食で腹を満たした。J君にとって至福の時である。




疲れた身体に鞭打ち、ここから一気に宇都宮へ。
車中で旅の余韻に浸っていた僕の隣でJ君はもう、次の旅先をどこにするかで頭の中はいっぱいのようだった。



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