栗太郎のブログ

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出羽三山の旅(8) 羽黒山

2015-09-30 04:53:50 | 見聞記 東北編

日暮れ前に、羽黒山に着いた。
朝に宇都宮を出て、月山を参詣して羽黒山までやって来れるのだから、ありがたい時代になったものだ。
羽黒山は、再訪

今から1400年の昔。
推古元年(593)に、崇峻天皇の第一皇子・蜂子皇子(はちこのおうじ・能徐太子とも)が羽黒山を開いたとされる。
崇峻天皇といえば、蘇我馬子に暗殺されたひと。その子であるなら、難を逃れてはるか遠くこの庄内に逃げ延びてきたのだろうと思う。
諏訪のタケミナカタ、津軽のナガスネヒコ、弥彦のアメノカゴヤマ、高麗神社の祖・若光、、、都を追われ、辺境地でちいさな楽園をつくった、
そんな貴種本人と一族の漂流譚のひとつのように思えた。
ちなみに、真言宗である湯殿山は空海が開いたという伝承が残るが、天台宗である羽黒山は、空海伝説に張り合える人物をその基礎としたかったはず。
こと東北の天台宗の場合は、慈覚大師円仁ゆかりのお寺が多いが、いかんせん空海に比べれば若干格が落ちる。
そこで、蜂子皇子を持ち出してきた、と僕はみるがどうか。
どっちみち三山のどこも、誰がどこからやってきてお山を開いたかなんて、ほんとはわかんないと思う。
誰が、ではなく、誰ともなく、なのではないか。


かつては、長い石段を登り、ようやくお山の上にたどり着いた道のりも、堕落した現代は、車で境内近くまでやって来れる。
江戸時代には、この山全体で336坊の堂塔伽藍が威容を誇ったという。

 駐車場にある案内図

駐車場から、歩いてすぐに手水舎があり、



鳥居をくぐると、目の前には、参集殿。



中に入ると、山伏の木像がお出迎え。



地元庄内の作家・藤沢周平(1927-1997)は、その随筆『周平独言』のなかで、山伏を、
  「たとえば私はいまでも、羽黒山伏が吹き鳴らすほら貝の旋律を記憶している。
  口に出せばブーオーオーと正確に出てくる。
  神秘的で、少しものがなしげで、また威圧的でもある旋律である。
  私が子供のころ、彼らはそのほら貝を吹き、兜布(ときん)、結袈裟(ゆいげさ)、の山伏装束をつけ、
  金剛杖をつき、高足駄(たかあしだ)をはいて、村にやってきた。
  そして実家に羽黒山のおふだを配って回った。」 
と述懐している。彼の幼い時代にはまだ、山伏は日常の存在だったのだ。

その隣が、三神合祭殿。文政元年(1818)の再建。



屋根の葺き替え工事の真っ最中。一棟の建物としては、やたらデカくて圧倒される。
なにがデカいって、屋根がスゴイ。茅の厚さが2m以上もあるらしい。
兜をかぶっているといよりは、むしろ高島田を結った花嫁を想わせるような屋根の重厚さだ。



回廊の下には、雨をしのいで出番をまつ茅がぎっしりと。



正面に立つ。
首が痛くなるほどグッと見上げないと扁額を拝めない。湯殿山神社、月山神社、羽黒山神社、の三つ。
月山神社が真ん中ということは、ここよりも月山のほうが格上であるということなのだろうか。
三山は、この羽黒山が月山の遥拝所、月山が本宮、湯殿山が奥の院、と位置づければ僕としては一番しっくりとくる。











昭和の偉大な芸術家のひとりに岡本太郎がいる。
彼の芸術センスのパッションは、あの燃え上がるような作風からみてもわかるように、縄文時代からその源を得ている。
ゆえに、古代日本に源流をもつ日本各地の習俗に関心が深かったようだ。
そんな彼が、さながら民俗学者のごとく、沖縄、熊野、高野山、青森、そして出羽などの各地を旅し、見識深い文章を書いている。
ありがたいことにその紀行文は、『岡本太郎の宇宙4 日本の最深部へ』という文庫にまとめて出版されていた。

日本の最深部へ 岡本太郎の宇宙 4 (全5巻) (ちくま学芸文庫)
岡本 太郎
筑摩書房

「日本再発見」をテーマに、「岡本太郎の感性」というフィルターを通して伝えられる文章を読み進むにつけ、彼の理性の聡明さに驚きを禁じ得ない。
それまで、独善的な感性の人という印象が強くて、人との付き合いなど苦手なのだろうと思っていたのは邪推だった。
芸術、文化、そして人に対してもその観点はじつにバランスがいい。
この機に、ファンになってしまったと言っても過言ではない。
で、たぶん1960年代であろうか、その岡本太郎はこの出羽三山を旅している。
湯殿山で得た感動の続きを期待して羽黒山を訪れた太郎は、大晦日の日に年越しの様々な行事に立ち会った。
おそらく、神の宿るごとき荘厳なる営みを期待していたであろう太郎の目の前には、NHKのTV中継に興じる人々がいた。
残念ながら、明治の神仏分離により散々にぶち壊されたおかげで、もうこの当時になれば、出羽の修験の場は俗化されていたのだ。
行事をしめくくる「国分行事」「火の打替」の描写も、どこかさめざめとしている。
文章は、「いまかすかな幻想にふれたが、しかし、それにしてもこの闇はあまりに軽やかである。」と閉じている。
ここでいう「軽やか」は褒め言葉ではなく、千年以上も受け継がれてきた伝統が薄っぺらくなったと遠慮がちに言葉をえらんでいる。
太郎はストイックで清浄な信仰の現場を体感したかったのだろう。余りの俗っぽさにいたく失望した気分が伝わってきた。


ぼぉ~。ぼぉ~。
左手から聞こえるほら貝。遠くに目を凝らすと、白装束に身を纏った山伏がいた。
その後方には、撮影機材をそろえた外国人らしき集団。
なにかの撮影か? (小さすぎて確認できないかもしれませんが)



山伏は、鳥居をくぐって、石段を下りて行ってしまった。
その先には、段の石段が控えている。かつての参道だ。
五重塔を経て、宿坊の連なる手向(とうげ)の集落へ続く。
僕らはこのあと、五重塔を参拝する予定だ。どうせJ君は車で下まで行くだろう。

じゃあ、俺はこっちの石段から先に行くから五重塔で落ち合おう!と、

と、言おうとして、


言おうとしたら・・・、

なんだか、膝が、くらっ、くらっ、としてきた。

力が入らない・・・・。


かるくジャンプしてみる。

身体が重い・・・・。

疲労感がにじみ出てきた。


月山登山の消耗が、いまごろやってきた。
やばいやばい。DAIGO的にはYBI。
これで、足元滑らせてすっころんでみようものなら、足をくじいて、腰骨打って、付いた手擦りむき、泥まみれ。
歳のわりには頑張るじゃん!の高評価が逆転し、帰り道の車内でどれほど馬鹿にされるか空恐ろしい。
脳裏を駆け巡ったそんな悪しき連想のとこなどは一言も言わずに、素知らぬ顔して駐車場に向かって歩き出した。

すると、
ぼぉ~ぉ~、ぼぉ~ぉ~、
こっちでもほら貝の音が聞こえてくる。
音の主を探してみると、神職の方がほら貝を鳴らしながら練り歩いていた。このとき、時刻は5時をまわっていた。
小学生のとき、かくれんぼに夢中になっていた夕暮れ時に、「みなさん、下校の時間になりました」のアナウンスで帰宅を急かせれたことを思い出す。
頭になかには、♪遠きぃ~山にぃ~日~は落ちてぇ~と、ドボルザークの新世界のメロディが鳴り響いた。




で、五重塔へ、、、、。
これがまた話が長くなりそうなので、次回。


(つづく)



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