栗太郎のブログ

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陸奥の旅 '13初夏(3) 末の松山

2013-07-15 18:16:07 | 見聞記 東北編

JR仙石線、本塩竃駅から仙台に向かおうとしてた。
目的は、開演6時の柴田淳のコンサート。
時計をみると、4時半前。これは少し寄り道ができそうだ。

そこで僕は、多賀城駅で下り、末の松山を訪れることにした。
駅から歩いてほどなく、末松山寶国寺に着く。この裏手に、末の松山がある。




これがそうだ。
かの芭蕉も、奥の細道で訪れている。まあ、そのときはこんなにデカイ松ではなかったろうけど。







石碑に、古今和歌集、東歌の一首が刻まれていた。

「 君をおきて あだし心を わがもたば すゑのまつやま 浪もこえなむ 」

(あなたを差しおいて、他の人に心を移すようなことがあったとしたら、
波が越えるはずがないといわれている末の松山をさえ、波が越すことでしょう)


この松山を波が越すことは、ありえないことの例えとして、平安の昔から多くの歌に詠まれている。
都から遠く離れたこの地は、都人にとっては異郷の地。そのはるかな距離は、実りがたい恋の距離感とも重なるのだろう。
そうひとり感心しながら、波、という言葉が気になった。それはもしかしたら、津波のとこか。
だとしたら、貞観地震(11年、西暦869)のときの津波だろうか。

※帰ってきてから調べてみると、古今和歌集は延喜5(905)の奏上という。やはり「浪」とは貞観の震災のことだった。
 恥ずかしながら、僕はそんな知識もないままにここを訪れたのだった。


ふいに、先の東日本大震災のときの被災具合が気になった。
このあたりは、どこまで水が上がってきたのだろうか?

周りを見回すと、すぐ近くの家で、庭いじりをしているおじさんがいた。
「あのお。2年前の震災のとき、この辺の被害はいかがだったのですか?」と声をかけると、
おじさんは、僕を値踏みするようにじっと見つめながら、
「なにか、お調べなんですか?」とたずね返されたので、
「いえいえ全くもって個人の趣味でして...」と、聞いちゃいけなかったのかなと恐縮する僕。
毎授業の最後に必ず小テストを課す数学の先生のような、そんな雰囲気を持つおじさんだった。
おじさんはおもむろに、僕を誘うようにちらりと目を合わせると、すたすたと道路まで歩いていき、道の真ん中に立ち止まった。

 (目印として、2本の赤線を書き込んであります。)


道路は緩やかな下り坂になっていて、突き当りがT字路になっている。
おじさんは、「ここから仙台湾まで、直線距離で800mあるんです。」と、南の方角(だと思う)を指した。
そして、T字路に立つ電信柱につけてある赤いテープのような目印を指差しながら、そこが津波の水位だと説明してくれた。
それは、正面に見える垣根の中間の高さあたりで、たぶん、人間の胸の高さぐらいだろうか。(奥の赤線の高さあたり)
当時、海水が徐々に増水していくのを見ながら、T字路の切れ間を、車が流れ、冷蔵庫が流れ、いろんなものが漂い流されるのを成すすべなく眺めていたという。
電信柱を指していた指先を、地面をなぞるように手前に移しながら、
「この塀のところまで、水がきたんです。あそことここが同じ高さということです。」と、目の前の白い塀の端を指差した。(手前の赤線)
海水に浸ってしまったほうの塀のお宅は、かつて「すなっぱ」と呼ばれていたらしい。いわゆる砂浜、もしくは砂っ原ということ。
つまり、人間の記憶にある古い昔、このあたりが海岸線だったということなのだ。
2年前の津波が届いたのは、そんな、昔々の海岸線の端と同じところだというわけだった。
ちなみに今回、時間がなくて寄れなかった「沖の石」は、ここからすぐそこにあり、やはり、海岸が近かった名残といえる。

僕は、昔の浜辺に立ってるつもりで、その場所から松山を振り返ってみた。
なんだか、潮風に晒されている松を見上げているような気分になった。



聞けば、この松は、樹齢400年くらいらしい。
となると、江戸時代初期、領内経営に力をいれだした伊達藩によって植えられたのだろうか。
今この姿の松も、写真でいうところの左側に向けて、横に長く延びた枝が数本あった。
一本は、おじさんが幼少時代(60年くらい前か)に折れてしまった。
もう一本は、道路まで届くほど長い枝ぶりだったらしいが、10年くらい前の正月に、雪の重みに耐えかねてドスンと大きな音を立てて根元から折れたそうだ。
雪で滑った車が塀にぶつかったのかと思わせるくらいの音だったらしい。
そして、その時の枝が地面に激しくぶつかって窪んだのがここだと、めり込んだアスファルト指しながら教えてくれた。

 ポールの右脇の窪みが、そう。


おじさんは、この松山にまつわる民話を聞かせてくれた。

むかし、この坂はうなぎ坂と呼ばれていて、松山のたもとには、茶屋を営むおじいさんと孫娘が住んでいた。
あるとき、一匹の龍がやってきた。
おじいさんは怖がることもなく、龍に酒を振舞った。
喜んだ龍は、お礼に自分の血をおじいさんに分けてあげた。
龍の血を飲んだおじいさんはめっきり元気になったそうだ。
それから何度となく龍はやってきては、おじいさんにお礼の血をあげた。
それをどこかで聞きつけた悪党がいた。
悪党は、龍の生き血を独り占めしようと、待ち伏せをして殺してしまった。
すると、瞬く間に空は曇りだし、海は荒れ、大きな津波が押し寄せた。
周りのものが皆、波に呑み込まれる中、龍を親切にしていた松山の茶屋だけは、被害もなく残されたという話。

古来、龍は水の神様でもある。津波はまさに龍の怒りだったわけだ。
それでもこの松を越すことはない。むしろ、龍に守られている。そんな昔話だった。



清原元輔は、平安時代の人で、三十六歌仙のひとりに数えられる歌人であった。
今では、清少納言の父といったほうが話が早いかもしれない。
その彼の詠んだ歌も、寺の境内に刻まれている。

「 ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは 」

(約束しましたね、お互い涙に濡れた袖をしぼりながら。
末の松山を波が越すことがないように、私たちの心もずっと変わることがないと。)

男と女の、契りを確かめ合う歌である。
おじさんに、貞観の地震のときも、津波はこの松山を越すことがなかったのですか?と聞くと、そうだと答えた。
元輔が生きた時代は、延喜8年(908)~永祚2年(990)。この歌を詠んだとき、すでに貞観の地震から100年前後の時間が過ぎている。
頑なな恋心の引き合いに出てくるほど、都人にとって、末の松山が津波の被害を免れたという記憶が強かったということなのだろう。


続けておじさんと話をしていると、
♪キ~ンコ~ン、カ~ンコ~ンと防災無線から鐘の音が聞こえてきた。
「これって、5時ですか?」その問いかけに、おじさんはこくりとうなずいた。
ヤバイ、もう開場時間じゃないか。開演まであと1時間だ。
おじさんに謝意を伝え、大慌てで駅に向かった。

多賀城駅のホームに着くと、松島方面行きの回送電車が、石ノ森章太郎の描くキャラクターでラッピングされていた。
そうだ、石巻の萬画館はリニューアルオープンできたのだ。
だけど、石巻までは全線開通してなくて、途中はまだまだ代替バスで乗り継がなければいけない。
依然、震災の爪あとの残る東北であるのだ。





で。

JR仙台駅からタクシーに乗り込み、コンサート開場には5時50分に到着。危ういところでした。
「あなたの手」をはじめ、いくつかの曲で号泣。
平安の恋の歌の史跡を訪ねたあと、現代の恋の歌に酔いしれた夜でした。



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