栗太郎のブログ

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陸奥の旅 '13初夏(2) 陸奥一之宮塩竈神社

2013-07-11 03:09:23 | 見聞記 東北編

古代、多賀城から海路へ向かう港町は塩竈だった。だから、塩竈は国府津(コウヅ)とも呼ばれていた。
今でも、呼び名が転化した「香津」という地名が残っている。
多賀城の東門(北東の位置)から、陸奥の総社前を通って塩竈にいたる道は、当時の官道にあたり、塩竈神社のある高台の南角に行き着く。
その高台を、一森山(イチモリヤマ)という。


JR東北本線に乗って塩竈駅で下り、徒歩でここにたどり着いた僕は、その交差点に立ちどまり、目の前に広がる神社の森の荘厳さに惹かれた。
ふと、交差点のマンションの壁に、なにか飾られているのが目に入った。






案内板によると、江戸時代、名物菓子商を営み、越後屋を号した三井家がここにあったらしい。
藩主の休憩所もつとめていたというのだから、その家格と繁盛ぶりも伺える。
そんな大店が店を構えるほど、海と内陸を結ぶ街道の辻として、多くの人や物資がこの交差点を行き来していたのだなあと感じ入った。

交差点から東へ、海に向かって歩くとすぐに、塩竃神社への表参道の下へ出る。




階段下まで来ると、ちょっと躊躇をおぼえる急な坂...。



階段の先に楼門が見える。
階段は、途中踊り場があり、そこまでが57段、踊り場から上が36段だった。(数え間違いがなければ)
踊り場までは一段一段の幅が広く、踊り場から上は幅が狭い。だからよけいに勾配がきつく見えるようだ。
上りきったところで膝に手をあて、一休み。僕はもう、けっこう足にくる歳となっている実感。
振り返ってみて、疲れがどっと増したような気がした。




さすが一之宮の楼門、豪華絢爛である。




門をくぐった向こう、正面奥に見えるのが、左宮と右宮。
工事中のため、白い幕で養生してあり、中が見えない。
武甕槌神(タケミカズチノカミ)と経津主神(フツヌシノカミ)を奉る。
つまり、鹿島の神様と香取の神様、古代の軍神である。大国主に国譲りを迫り、出雲を征圧したのもこのお二方。




両神が陸奥を平定したときにその道案内をしたのが、塩土老翁神(ジオツチオヂノカミ)で、正面入って右手の別宮に祀られている。




境内の配置をみると、どうも、鹿島と香取の神様が上座で、こちらは脇に控えるという印象をうける。
東征のときの、神武とヤタガラスのような関係だろうか。
そうだとすればこの神社、征服者側を顕彰しているといった意味合いを感じる。

拝殿の手前には献魚台。こういうとこは、海がある土地らしいお供物です。



裏手をのぞくと本殿が見える。
樹木の隙間から垣間見る社殿は、なるほど風格を感じる。



御朱印をいただきながら、由緒をたずねてみることにした。
案内によると、塩竃神社の境内にはもう一社あるらしく、そちらの御朱印も一緒で500円。
もちろん、このあとお参りするつもりでいただいた。志波彦神社(シハヒコジンジャ)という。




さて、塩竃の神様がこの山の上にある訳を知りたくて、このあたりのことを尋ねてみた。
聞けば、かつての海岸線はもっと内陸にあり、僕の上ってきた石段の下も、かつては入り江だったという。
なるほど、石段の下は船着場のイメージで考えてみればいいのだ。
そう考えれば、たぶん鳥居の前あたりは、物資の積上げ港として人々の往来はさぞ賑やかだったのだろう。
そんな活気のある街の高台に、格式高い鎮守の神様がいる。地方の商業都市として、ごく自然なロケーションだったのだ。



次に、おとなり、志波彦神社を訪ねてみた。
この神様、「延喜式」にもある由緒正しき神様で、かつては、ここと仙台の中間の地、岩切(現在の仙台市宮城野区岩切)にあった神社だという。
明治になって、荒れ果てていたのを見かねた明治天皇により、塩竈神社の別宮に遷座し、のちに社殿造営となったという。
シワヒコさま、シワ、ヒコ、さま...、どうも聞いたことがないような、ぴんとこない。
そこで「志波彦さまとは、どんな神様なのですか?」と、巫女さんに尋ねた。
「明治7年に、岩切の地よりここに遷されたのです。」
「そこはいいので、どんな神様というか、どんな方というか...」
「農耕の神様、国土開発の神様、、と聞いております。」
「とうことは、オオクニヌシの異名ということですか?」
「????」
「違うのかな?じゃあ、ねえ。...ええと、国つ神と天つ神ってありますでしょ?そのどちらなのかって言えば?」
「岩切の地に、、、」
「いやそれよりもっと前のね、もともと地元にいた神様なのか、どの時代かの皇子のことなのか...つまり、かつての支配者か大和朝廷側か、どの人たちの先祖様なのかというか...」

と、ここまで言って、厭きた。いや、呆れた。
つまり、答えがどうせ出ないのだから長居は無用ということだ。返事を待たずに、僕は紅白のおべべを着たお嬢さんの前を去った。

志波彦神社をでて、港を望む。
松島の湾が一望。ここは物見の地としてもってこいである。



あとで調べてみると、塩竈神社のHPに、シワとは「皺」、つまり「物の端」。朝廷勢力圏の端にいた土着神だったという。
となれば、やはり大国主と立場が同じということか。
そうなると、社殿の配置が斜めを向いているのは、単なる地形のせいか、訳ありか、と気になってきてしまう。



帰路は東参道へ。
緩やかな階段坂を下りきって、鳥居を振り返る。




参道をそのまままっすぐ行くと、御釜神社の鎮座する交差点にたどり着く。






こちらは、その御釜神社の角に建つ石碑。四面には「ほでの濱」、「白坂」、「釜の前町」、「上本町」とある。
「ほで」とは、碑にある解説によると諸説あり。
突き出た浜辺(秀出、穂出)、塩を焼く釜の火勢(火出)、船出(帆出)。
仙台地方では、ろくでなしを「ほでなす」というらしいけど、まあ関係はないだろう。当然か。(ちなみに栃木では「へでなし」という)
ここの南側、坂の上の丘陵地の地名が、香津(国府津)。つまり、古代の国府津の町並みがあったところというわけだ。



境内にはいり、御朱印をいただく。
聞けば、古代、海水を汲んで釜で炊き、塩を精製していたのがこの場所という。
古代は土器製塩だったらしいが、平安の頃から鉄製の釜が使われるようになった。
その製塩で使われていたという鉄釜「神竈」が、大谷石の塀の中にある。



この塀のなかに、どういう風に鉄釜が置いてあるのか、さっぱりと分からず「見れないんですか?」と聞くと、「100円です」と返ってきた。
そのくらいで疑問が解けるなら安いもの。
注連縄の掛かっている扉を恭しく開くと、なんと予想に反し、地べたにデンと野ざらし状態で置いてあった。
釜は、前後2つずつに並んで合計4つ。どれも、直径130cm(たしか)で薄平べったい形状。
もちろん野ざらしなので、周りは錆付き、雨水(たぶん)が溜まっている。
手前が鎌倉時代、奥の2つが南北朝時代だろうといわれる。
かつて7つもあったが、3つは盗まれた。
どこどこの浜に沈んでいるともいうのだが、おおかた鋳潰されて夜盗の刀にでも姿を代えたのだと思う。
目の前の釜は、コンクリの(ような)台座の上に固定されていて、
「で、これでどうやって火をくべるのですか?」と尋ねると、
「今はこれで塩を炊きません。どうやって使われていたのは不明です」という。
なるほど、ずいぶん以前からこの鉄器は単にモニュメントとなっていたわけか。

この神様は塩土老翁神。塩竈神社別宮の神様と同じ。そうそう、海彦山彦の話でもでてくる神様だった。
聞けば、筑紫の国からやってきたという。鹿島・香取の神様が去ったあともここにとどまり、製塩技術を教えたと伝わる。
僕はてっきり、道案内をしたっていうので、この辺の神様かと思っていた。
はてさて、筑紫とはまた、東国の神様ではあまり聞かない出身地のような気がした。
まあとにかく、この神様がここにやってきたのは、疲労した人体に塩分が必要だという知識がなかった古代、ということだろう。
先進地では当然の常識も、ここでは医者のごとく、もしくは術者のように扱われたのかも知れない。


神社をでて、芭蕉の碑をながめ、駅に向かう道すがら、年季の入った菓子屋を見つけた。



丹六園という屋号の店で、落雁が名物という。
看板には「志おか満」、箱には「志おかま」。「もちろん、塩が隠し味で?」と聞くと、「そうです」と答える。そりゃ、そうじゃなきゃいけません。
青紫蘇入りと、胡桃入りもあったけど、オーソドックスに青紫蘇入りの小箱525円を購入。
しっとり具合が抜群で、和菓子に小うるさい僕としても、これはけっこう美味い。買いです。ただし、ここでしか売っていないそうですが。

 

屋号だけでなく、入ってみてもお茶屋にしか見えない店内に、モノクロの古い写真が掛けられていた。
この店の前に橋が架かっている。つまり、数十年前まで、この前は川が流れていたのだ。
そのことを訪ねると、「目の前の道は暗渠になってて今でも川はあるんですよ」、と言う。
どうやら、道路の南側、一段下がったところの下が川らしい。

店からJR本塩釜駅方面に歩いていくと、道路沿いの両側には柳の木が並んでいた。
なるほど、この道路を川に見立てれば、しっくりくる風景だ。
川というよりは、細長い入り江と思えばよさそうだ。




この地形を見て思い浮かんできた景色は、三浦半島の浦賀だった。
あの湾ほどの幅はないにしても、入り江の両側の岸沿いに道があり、そこに家々が立ち並んでいる風景。
卸商から小売商、回船問屋や宿屋などが軒を並べ、商人や気の荒そうな馬子の声が飛び交う。
深く入りくんだ入り江は、風の影響もなく格好の寄港地で、おかげで多くの船が行き交っっていただろう。

もうひとつ浮かんできたのは、六浦(横浜市)のこと。
源頼朝が拠り、北条氏が政務を執った鎌倉には、大型船を接岸させる岸がなかったので、六浦の港が鎌倉への外港であった。
ここで言えば、多賀城の外港としての港湾機能を持つ港が、塩竈なのだ。
多いときには1万人の人口があったと言われる多賀城の街。
そこへの物資の量は、多かったであろう。
この入り江まで入ってきて、塩竈神社の下を抜け、越後屋付近で荷を下ろし、官道を経て多賀城にいたる。
陸送よりも海運が物流の主流であったこの時代、物流の拠点であった塩竈の街が栄えたのは想像に難くない。
となれば、ここは労働者であふれかえっていただろうし、連想は、労働力のエネルギーである「塩」がどれだけ重宝されたかにいきつく。
おそらく、街の成り立ちの頃、製塩の技術をもたらした指導者は尊敬の対象であったろうし、作業所は官営であったであろう。
そこに、神社が、今につたわる御釜神社があることは、塩竈のまちの歴史として当然のこと。

そんなことを思いながら、張ってきたふくらはぎをさすりつつ駅に向かった。
こりゃあ、帰りの新幹線のなかでこむら返りを起こすんじゃないかと、不安が頭をよぎった。




(つづく)


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