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佐藤公清の母(2)

2022-01-22 | 中原氏バラバラ情報

公清の母のことに、少しこだわりを持っている。

http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_41_40.html

《 四つの系図から複数にあることは「公清が公光の養子であったこと」、と「公清が公光の血を引いていること」の2つです。》

これは、どのような意味なのだろう。

ずっと気にかかっているのだが…

 

まず公清の母は兼光の娘である。伊賀氏の祖となる公季の母も、また同母である。

公清が養子であるとすれば、公清の母が誰かと結婚した後に、その息を連れて公光に嫁いだという事かもしれない。

しかし、公清は公光の血を引いている…という事は、公光の兄弟が早く歿したか何かか?

公光の兄弟を見てみよう。

その前に公光本人、1057年に歿している。

1057年(天喜5年)11月、阿久利川事件の翌年、源頼義に従って安倍頼時と戦い、戦死した。

 

公行に関しては、こちらが詳しかった。

https://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%96%87%E8%A1%8C

源経頼と佐藤公行
 

『小右記』万寿四年(1027)二月二十七日条に、

昨日のこととして、宇多源氏左中弁経頼が近江志賀郡の崇福寺参りの帰りに、逢坂関山で群盗に襲撃され、前佐渡守公行朝臣が射られたが命に別状はなかった。

 

経頼は藤原道長の正室源倫子の甥だが、矢を射られたのは経頼ではなく、随行していた秀郷流藤原氏公行であった

公行は文行の子であり、はじめから公行を狙っていたものと考えられる。

 

ところで公行は前佐渡守だが、佐渡国が疫鬼を放逐する北方の境とされている(『延喜式』)。

 

酒呑童子退治の源頼光や鵺退治の源頼政のように、鬼退治の呪力を有する存在と考えられていた軍事貴族が、国司を勤めるのにふさわしい国といえる。

 

そういえば、佐々木導誉(京極高氏)も検非違使の功で佐渡守に補任され、その家系は佐渡守を世襲官途として佐々木佐渡家を立てている。

 

 

参議源経頼の日記『左経記』長元四年(1031)六月二十七日条によれば、公行は欠員となっていた相模守の申文を提出していたが、除目では六位史(姓欠)光貴が昨年とどめられていた史巡(六位史の功績)で補任された。

 

経頼は、光貴の補任を故実にかなっていると認めながらも、公行の佐渡守の事績を高く評価しており、平忠常の乱で衰亡した当時の相模を再建するには公行が適任であると憤っている。

 

たしかに国司の初任者には、平忠常の乱直後の東国国司は重すぎるであろう。

 

しかしまた経頼が公行と親しいことも分かる。

公行は、経頼が寛仁二年(1018)から治安元年(1021)頃までの近江守在任のとき郎等になったのだろう。さらに参議右大弁経頼は長元四年(1031)から同七年(1034)頃まで近江権守を兼任している。この記事の当時経頼は近江権守であった。

 

三上山のムカデ退治という俵藤太秀郷の伝承は、秀郷流藤原氏と近江の関係の深さを物語っていよう。

 

この公行の玄孫公俊が、経頼の兄成頼(四位中将)の曾孫検非違使為俊の養子になっている。宇多源氏と秀郷流藤原氏の関係の深さが分かる。そのことは、公行の甥高年が検非違使に追捕されたときも、経頼の従兄弟済政が保護していることで分かる。

 

『小右記』長元元年(1028)九月八日条によれば、去春、筑前国高田牧の雑物が運上されたが、物流の拠点摂津国河尻(淀川)で前備後守義通の郎等らが牧司藤原為時一行を襲撃し、物品を奪い取り、牧の下人ひとりを射殺するという事件があった。

 

…略…

 

実は済政は源経頼の後任の近江守で治安二年(1022)頃から長元二年(1029)頃まで近江守であり、この記事の当時は近江守に在職していた。

 

上東門院彰子(一条天皇中宮)は藤原道長の長女で、母は宇多源氏左大臣雅信女倫子であり、源経頼や源済政は従兄弟であった。万寿三年(1026)に落飾して、東三条院の先例にならって女院号を賜っていた。

やはり道長の外戚宇多源氏と佐藤一族の関係は深い。

 

近江守に補任された宇多源氏は、近江に勢力を張り天下治乱のもととまでいわれた秀郷流藤原氏を郎等にしながら、近江に進出していったと考えられる。

これが近江源氏佐々木氏の源流である。

 

また高年の名は『尊卑分脈』には見えないが、公行の兄弟脩行は近江に留住して近江掾となり、近藤氏の祖となっている。秀郷流藤原氏を名乗る蒲生氏は近江国蒲生郡から甲賀郡にかけて勢力を張っており、また蒲生氏が平安末期から鎌倉期に「俊」の字を通字とすることから、この高年の子孫と考えられる。

 

そうであれば古代豪族蒲生忌寸の子孫とは決め付けられない。むしろ佐々木氏との関係を見ると、秀郷流藤原氏の可能性が高い。

蒲生氏の娘が佐々木定綱の側室になっていることでも、秀郷流藤原氏を名乗る蒲生氏が早い時期から宇多源氏の郎等であったことが分かる。

【参考文献】

 

野口実『伝説の将軍藤原秀郷』吉川弘文館、2001年

 

河添房江『光源氏が愛した王朝ブランド品』角川選書、2008年

 

(佐々木哲先生の文章のようでもあるが‥‥)

===*===

長く引用させていただいた。

つまり、公行と兄弟脩行は近江国にいた。

しかも、佐々木氏にほど近いところに。

源経頼・成頼、そしてその後任の源済政は、源仲政の父であり、頼政の祖父となるのである。

更に、蒲生氏も秀郷流で、昨日の系図の右端にもちらりと見えていた。

===*===

話を戻すと、公行と脩行は、近江国を守るため、経頼や済政の郎党として働いていた。

一方の公光は東国、奥州に赴く源頼義の郎党となっていたのだろうと思う。下記の事件の際に公光は歿してしまったのである。

阿久利川事件

以後、頼義の陸奥守在任中は何事もなく平穏に過ぎ、その任期満了である天喜4年(1056年)の年を迎える事となった。

頼時から惜別の饗応を受けた頼義が鎮守府から国府へ帰還する途中、阿久利川にて野営を敷いて一夜を明かす事となったが、その際に何者かによって頼義配下の陣が荒らされる騒ぎが起こった(阿久利川事件)。陸奥権守の藤原説貞の子・藤原光貞から頼時の嫡男・貞任の仕業であるとの言葉を受けて、頼義は頼時に貞任を引き渡すように求めた。頼時がこれを拒否して、挙兵した。

頼義は軍勢を衣川の関へと差し向け、さらに朝廷からも頼時追討の宣旨が下され、再び安倍氏との前九年の役が再開される事となった。

 

公光の母は平貞文の娘という事で、桓武平氏のようである。

また、以下の情報もある。

平為俊 
「この公行の玄孫公俊が、経頼の兄成頼(四位中将)の曾孫検非違使為俊の養子になっている。」佐々木秀義の父季定の初名は「為俊」であり、平姓も使っていたと思われる。

この為俊が佐々木となった為俊と思われるが、その実、三浦氏でもあったのではないだろうか?と思ってしまう。

 

経範:本名公俊 性佐伯」の情報を加えてみる。

経範は養子と思っていたが、公俊という名があり、しかも姓が佐伯となれば、やはり同族の中での養子かと思う。

 

では最後に、公行・公光・脩行の「脩行」に注目してみると、どうだろうか。

近藤氏の祖なので、以前にも書いた記事がある。

近藤国平のコトバンクを見ると
「近藤 国平(こんどう くにひら、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。近藤国澄の子。藤原秀郷の玄孫・脩行(近藤太)の五代孫。大友能直等の又従兄弟にあたる。通称は近藤七。子に国重がある。

祖父の代より伊豆国に地盤を有していたとされ、治承・寿永の乱では源頼朝の旗揚げ当初よりその幕下に加わり転戦した。以後、御家人としてその名がみえ、平家が滅亡する直前の元暦2年(1185年)2月には頼朝の代官として中原久経と共に上洛し、混乱に乗じて非法狼藉を働く畿内近国の武士の平定にあたったほか、鎮西にも下向し同様の任務に就いた。

建久10年(1199年)3月には三左衛門事件への関与により罷免された後藤基清に代わり讃岐守護に任ぜられるが、以降の動静は未詳となっている。」

 

 

 

 

 


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