中原かどうかは判明できていない【筑後権守俊兼】
俊兼は、鎌倉にやってきて藤原邦通の代わりに頼朝の右筆となって活躍する。
吾妻鑑にその活躍が書かれているが、活躍は1184年あたりからが始まりと思う。
しかし、鎌倉にやってきたのは養和二年1182年かもしれない。
馬の毛の色などを記載する役目を負っている。
吾妻鑑入門さんのページから
【次で神馬十疋庭上に引立る。俊兼簀子に候ひ毛付を勒す。 】養和二年(1182)正月大 伊勢神宮への神馬
もしかすると、これが俊兼の鎌倉での初仕事となっていたかもしれない、と思う。
そして、中原久経もまた、鎌倉にやってきて頼朝の御使となり、近藤国平とともに「頼朝となった事での各地の騒動」を収めるために派遣される。(1185年)
その御使の中間報告、問題の処理をしているのが【筑後権守俊兼】でもある。
大江久兼も1185年七月に京から舞・管楽・歌の為に鎌倉にやってきた。
筑後権守の俊兼は、鎌倉での記録が建久5年あたりまでなのだそうだ。
太政官牒の「中原俊兼」は建久7年なので、鎌倉を去り京に戻っていたのかもしれない。
東寺百合文書に、
これで建久7年に、中原俊兼が実在していたことは確認できた。
以下は年代的に見ても、中原俊兼が60-70歳代ではないかと思われる。
上記、俊兼の署名がみえる。…と思う。
一枚目中原大外記?俊兼
二枚目 権大□俊兼
そして、以下は、大きな情報でもあるが、参考の系図は混乱もしているようである。
波多野朝定の祖父が【筑前権守俊兼】であったのだ。
つまり、義定の妻が俊兼の娘であったことになる。
遠義ー波多野義通ー義職(祖父遠義為子)ー義定ー朝定・義典・嘉陽門院越前
義職は、唐澤実方と同じく実は遠義の子となっている。(系図上は義通の息)
義定は「秀郷流系図」によると、鎌倉に出仕したころ(1185年)に「竹泉筑後守俊通」の養子になったとする。
ところが、義定の別名として「俊職」「蔵人俊通」「宇治蔵人三郎」とあるので、この辺り混乱しているのではないだろうか。
以下の系図には宇治次郎…とある。
ともかく、此の義定の妻に筑前権守俊兼の娘がいたのである。
ところが別の系図では朝定の母は荒木田盛長女とある。
伊勢神宮との関係、神馬の担当、も考えるに、もしかすると俊兼自身が荒木田氏とつながっていたかもしれないとも思う。
妻が荒木田氏であったなど。
すぐ上の系図では義定と朝定が兄弟になっていて、義職の息となっている。
義職は義元とも書かれる。