新羅神社に関することは以前から気にかかっていたのだが、それ以外のことについてもとても学びになった本であった。
ココからは私が読んでいて、学びになった部分をかいつまんで書いていく。
古代の近江は
若狭などの日本海地方を経由して入る文化
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瀬戸内海から大阪湾、淀川を経由して入る文化
その交差点であった。
天日槍や都怒我阿羅斯等、素戔嗚命やその一族などが秦氏と共に混在していた地域
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渡来文化が息づいていた。
湖北の「余呉」の「余」は「おのれ」を意味し、「呉」は「胡」で、「異民族、または外国から渡ってきたもの」を示すという。
余呉町には天日槍塚がある。
「天日槍」を中心とする新羅系の人々が住んでいたことは確かであろう。
余呉町の川並の新羅崎神社(しらぎ・じんじゃ)
天日槍を祭神としている。(鉛錬比古えれひこ神社も同じであろうと思われる。)新羅埼の明神は白木の明神とも言った。
「白木は新羅にいでしもの、上古日本海を往来していた三韓との交流有りし跡である。」
もと新羅崎にあった白木山聖観音菩薩は柔和なお顔、…「子安の地蔵」と言っていたそうだ。
この「子安」については、つい最近のことだが、同じgooblogの【新古今和歌集の部屋】さんの記事に地図があり、九里の居た「水茎岡山城」の麓に「子安神社奥の宮」があった事がわかり、記事にしようと思っている。
天日槍に関しても記載があるので書き留めておこうと思う。
「天日槍は垂仁天皇の時代に新羅から九州の伊都国に着き、次いで播磨に行きさらに宇治川を遡って近江の吾名邑にしばらく住み、若狭を経て、丹後から西に進み但馬国出石に居を構えたといわれている。天日槍は湖東地方に勢力を持つ物部氏と知り合い、物部氏の前津耳の女、麻多鳥(またぶ)を娶って縁戚関係となる。息長宿禰が天日槍五世の孫葛城之高額比売を娶って生まれた子が息長帯比売(神功皇后)である。‥‥(略)天日槍を祭る神社は天日槍が通過した北九州、近江、若狭、丹後、但馬、播磨などにみられる。」