坂上兼俊に関して。
布施弥平治著「明法博士中原章貞と明法博士中原範貞 」より
【坂上兼俊は既に明法博士であつたが離任しこの仁安二年に復任し、その後引き續いて明法博士の任にあり、承安三年(一一 七三)頃、辭任したか卒去したかは明らかでないが何れにせよ 離任したようである。されば兼俊は復任後、七年に亘って明法博士であつたものと考えられる。】
望城の玄孫範政は中原俊光のあとを嗣ぎ法家坂上一流の祖
兼俊に関しては、坂上、中原、同時代に生きていたと思われる。
坂上と中原を使い分けていたようにも思える。
ここは、はっきりとはわからなかった。
【中世公家と地下官人】(中原俊章著)によると、
中原範政は坂上範政と同一人物で、坂上氏から中原氏に養子に入った。(利光三津夫説)
また、坂上氏が中原氏を称した例は他にもあり、坂上清重が中原定清に養子に入っている。(続群書類従 坂上氏系図)
…そこから、坂上兼俊も中原氏を称していた可能性はあるのではないか?と思った。
もう一つ、坂上氏は【大蔵朝臣原田家歴伝】の系図の中にも顔をだす。
【原田氏】と言えば、姓氏家系大辞典の中の九里氏の條に出てくるのである。