①起太蔵人
②木田蔵人
③隠岐太蔵人
④紀太蔵人
⑤乾太蔵人
☆「蔵人」という事は分かっている。
蔵人(コトバンク)
「蔵人所の役人で、機密の文書・訴訟をつかさどった令外りようげの官。のちには、天皇の衣食・起居のことから伝宣・進奏・諸儀式、その他宮中のいっさいのことを扱った。院・摂家にも置かれた。」
という事で、やはり「院」の仕事である。
九里宮内左衛門尉種信も院の仕事と思えるので、やはり「中原氏」と関係がありそうな人物だろうか。摂家に仕えている場合もありそう。中原氏は家司・出納が多いように思う。
東京大学史料編纂所のDBで検索 ↓
①起 太 蔵人 での検索 ゼロ件
②木田蔵人 木田七郎兵衛入道(蔵人・太郎ではない。蔵人と同文書内に記載)1件
③隠岐 蔵人 たくさん出てくる。隠岐氏は多岐にわたるが可能性あり。
④紀 蔵人 たくさん出てくる。
⑤乾 蔵人 たくさん出てくるが、方向や元号の「乾」も重なって出てくる。
という事で、①・②は最後に回す。
③隠岐 蔵人
隠岐氏には二階堂氏も含まれる。
二階堂氏にも「隠岐行義」・「隠岐入道」=二階堂行村・「隠岐三郎左衛門」=二階堂行氏と存在する。
ところが、二階堂氏(隠岐氏)の所領の文書があり調べてみると、近江国とは縁が薄いようなのだ。隠岐太郎も見いだせなかった。
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『隠岐太郎』で言えば、
出雲国佐々木氏の「隠岐太郎」は佐々木政義であるが、所領はすべて取り上げられたといわれている。(活動期には東国にいたようである。)1250年出家
しかし、私領は残っていたかもしれない。
佐々木政義という事ならば、出雲国の久利氏(清原氏)とも関係が出てくるかもしれない。出雲では久利と名のり、近江国に移ってからは久里・九里を名のったという事も考えられる。
但し、政義は「蔵人」」とは書かれていなくて、「隠岐太郎左衛門尉政義」という所が気にかかる。
☆太郎と蔵人の隠岐氏+近江国蒲生下郡に私領を持っていた=人物
いつの時代かもわからない人物を探し出すことができるのだろうか…
(1499年以前ではある)
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④紀 蔵人
昨日は「紀太蔵人」を探していて、銀子百枚の文書を偶然見かけてしまった。
この紀氏はイコール浦上氏。
浦上氏はwikipediaによると「紀長谷雄の子孫とされているが、実際は紀貫之の子孫であるという。」赤松家臣である。
大徳寺と関係が深いので、可能性はあるかもしれない。ただし「紀太蔵人」「紀太郎蔵人」ではゼロ件
紀内蔵権頭長光
紀外記大夫 康平四年(良峯守成が使いとなる)
紀有任 永長元年 外記
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⑤乾 蔵人
たくさん出てくるが、乾(人)蔵人 はゼロ件 方向・元号
乾内記 2件 江戸時代
乾外記 7件 江戸時代
乾大膳 2件
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②木田 蔵人 荒木田・船木田に引っかかるが、近江国 木田で調べると「木田」が伊庭氏・三村庄と関りがあることがわかる。ただし、蔵人ではないかもしれない。2件
美濃源氏流八島氏(羽島氏)の一門・美濃木田氏と呼ばれる。この流れだろうか。
八島重宗 (惣領家) : 八島定宗の子、重実・木田重長・重隆・重時・重親の父。
浦野重直
足助重長 妻に源為朝の娘がいたはず。 その娘が公暁を産む。
森岡先生の足助氏系図
https://office-morioka.com/myoji/genealogy/chusei/asuke.html
足助氏は途中鈴木氏とも関係ができる。
片岡氏にも近いような気がする。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/e88dbb8931dbf8b98171e2256370b12f
『足助一族』 (日本家系家紋研究所編、日本家系家紋研究所、1988)
『足助一族その来歴と事蹟』 (鈴木茂夫、1979)
『足助一族と大塚掃部助 南朝秘史 上巻』 (岡野錦弥、鈴木茂夫、1991)
『足助一族と大塚掃部助 南朝秘史 下巻』 (岡野錦弥、鈴木茂夫、1991)
武家家伝 足助氏
源頼朝が伊豆で兵を挙げたころ、御家人として一族をあげて源氏に仕えた小野氏・浦野氏が三河国には八条院領高橋荘、同領高橋新荘の荘官職となっている。高橋新荘はのちに足助荘と呼ばれるようになる。この荘官職となった浦野重長は、尾張国山田荘から来住して、足助氏を称するようになった。以後、足助荘は足助氏に伝えられていくこととなる。
初代重長が足助へ移住して、本拠地としたのは黍生城であったが、二代重秀から八代重政まで代々居城としたのは飯森山城であった。飯森山は、巴川と足助川の合流点にあり、南と西を巴川の流れをめぐらす要害の地である。そのうえ、尾張、三河と信州を結ぶ街道および東三加和への街道が通じる交通上の要地でもあった。
足助氏の動きで注目されるのは、京方に味方した働きである。承久三年(1221)、後鳥羽上皇による討幕計画で、世にいう承久の乱では、重秀の子重成が後鳥羽方として戦い討死にしたと伝えられている。
また、元弘元年(1331)後醍醐天皇による討幕の計画は、幕府が事前に察知するところとなり、天皇は笠置山に逃れた。この笠置山に最初に馳せつけ天皇に味方したのが、足助氏の惣領・次郎重範であった。重範は天皇の呼び掛けに応じて集まった者三千余人の総大将をつとめた。この元弘の変は幕府方の鎮圧され、後醍醐天皇は隠岐へ流され、重範は京都の六条河原で処刑された。
元弘三年足助氏は、新田義貞の鎌倉幕府攻撃に参加した。このとき、足助太郎重信、賢尊、孫三郎重成が討死にしている。
建武三年(1336)足利尊氏が京都に入り、光明天皇を立て、後醍醐天皇は吉野に移った。南北朝時代の始まりであった。このころ、足助一族は、重春が重範の子重政を助けて一族を統率していたと考えられている。そして、征東将軍宗良親王を迎えようとしたが果たさなかった。しかし、興国四年(1343)頃、重政が成人すると、重春は足助を去り安芸国へ移住している。このころから一族の一部が各地へ離散していき、各地の足助氏の祖となったことが知られる。
一方、足助重治は、建武新政崩壊後、征西将軍懐良親王に従って、九州に赴き、菊池一族とともに各地を転戦、後醍醐天皇の宸筆の感状を賜っている。1383年に九州で没した。
いずれにしても、足助氏の勢力は重範の死後衰退を余儀なくされたようで、その居城であった飯森山城には鈴木氏が居住するようになる。一説によれば、鈴木重則は足助重範の娘婿となり所領の譲りをうけ、足助氏を称したともされるが確証はない。
古城の歴史 足助城 も面白かった!
https://takayama.tonosama.jp/html/asuke.html
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という事で、条件にぴったりの人物はこのDBからは出てこなかった。
また、別な方法を考えたい。
どうやら、蔵人という大雑把ではなく「宮内卿」「宮内少輔」など苗字に加えて、細かに検索すると良いようだ。