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九里 【九里】を探して三千里

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長田氏と永田氏 (2) 桓武天皇の裔である。

2020-09-11 | 永田氏

因幡国国司 平時範の先祖は桓武天皇
長田氏もその先祖は桓武平氏というので、桓武天皇

その桓武天皇の母は「高野 新笠」で、その御陵は「大枝陵」山背国乙訓郡大枝(現在の京都市西京区大枝沓掛町)にある。

その高野新笠の父親は和乙継(和氏)で、母親は土師真妹(はじのまいも) 贈正一位大枝朝臣真姝
真妹の一族は大枝朝臣(のち大江朝臣)、その他は菅原朝臣や秋篠朝臣を賜姓された、とある。

山部親王が桓武天皇として即位すると、新笠は皇太夫人と称された。とwikipediaにある。

当時「土師氏惣有四腹」とあるように、四つの出自から構成される党のような存在にあったようで、「土師宿禰真姝」はそのうち「毛受腹」の出身だった。「毛受」とは「モズ」と思われ、現在の藤井寺市の百舌古墳群を守っていた土師氏の流れだろう。土師氏はもともと古墳や埴輪などの造営や管理を司っており、大王の墳丘墓が築かれた河内国の百舌地方を本拠としていたと思われる。百舌系土師氏とは別の流れの土師氏は平城京近郊の菅原や秋篠などに移住している。
とあるが、この「毛受」(モズ)は近江国の湖北にも何かがあったと思う。

余呉町新堂にある毛受兄弟墓 戦国時代であったカ。 
https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/5098d6f4a562f92f9d71763779bd9ae4

===*===
話を戻そう。

桓武天皇が大枝氏の血を継いでいる事は、平氏全体に及んでいるという事ではないのだろうか。

そこで、時代は飛ぶが大江宗秀のと長田広常が婚姻関係となり…となっても特別な事、不自然な事ではなかったのかもしれない。(因みにこの長田広常と平氏寄りであったにもかかわらず頼朝に許された長田広経とは年代が違っている。)

大江(長井)宗秀の祖母が佐々木信綱の娘であったことから、宗秀には佐々木氏の血も継がれ、かつ、婚姻関係で孫には長田の血も入る。

(もしも、佐々木氏の経方が長田氏からの養子であったならば、もとから繋がっていたということになるが。)

佐々木経方の息為俊(季定)は、初めは平為俊であったことも、もしかすると長田氏との関係であったかもしれないと思う。

平為俊が「晩年に村上源氏右大臣顕房の養子になり源季定と改名し」たとの仮説が、以下のブログにも出ていた。
佐々木哲学校より
http://blog.sasakitoru.com/200505/article_14.html

つまり、その前までは平氏であったという事になるのではないだろうカ。

===*===

蛇足かもしれないが、長井宗秀の妻は 北条実時(金沢実時)娘である。
宗秀の姉妹には斯波宗氏の妻となった者もおり、その斯波氏とはwikipediaによると「斯波氏は、鎌倉時代に足利泰氏の長男家氏が陸奥国斯波郡(しわぐん、現・岩手県盛岡市の一部および紫波郡)を所領とし、宗家から分かれたのに始まる。家氏の同母弟兼氏(義顕)は、室町時代に九州探題を世襲する渋川氏の祖である。」とある。

つまり足利氏である。この長井(大江)宗秀を中心に、様々なこれからを動かしていく人々が行き来しているように思える。

長井宗秀、宮内権大輔、東使(関東使)、甲斐宮内大輔を務めている。(勘仲記) 長井掃部頭入道(醍醐寺文書)ともある。

この人物の娘と長田広常が結ばれたことから、江戸時代初期に「永井氏」が誕生したという事になる。



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