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柴高の毎日

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『OKU NO HOSOMICHI』 第28回

2017-02-13 09:28:00 | 国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』
~A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)~

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA~HEISEI)

第28回「陽はまたのぼり繰り返す―日本海に夕日は沈み、日射病と水害」(瀬波、中条 新潟県。 1998年 夏)

副島 勇夫(国語科)

 奥の細道を歩く旅をしていると恐いものが3つある。

 泊まった宿で妙に居心地の悪い部屋、森の中で出会う熊、それにトンネルだ。出口の見えない長いトンネル。

 おまけに車が少なければ、そこは一瞬にして外界から切り離された異空間となる。私の目の前には府屋第一トンネルがあった。全長605メートル。出口は見えず、オレンジ色の明かりがトンネル内を照らしていた。時折、長距離トラックが時速80キロぐらいで通り過ぎていく。トンネル内ではその時に巻き起こる風で、体が道路側に引っぱられるのである。そして何よりもトンネル内は暗いのだ。暗さは誰が何と言おうと笑おうとイコール恐さなのである。私はどうにかしてこのトンネルを通らないで済む方法はないかと考えた。

 辺りを見ると国道の10メートルほど下に舗装されていない道が同じ方向に続いている。周囲は山だ。民家もない。前方の山を越えると集落かあるのだ。ならばその道は集落に続くはずだ。私は少し引き返し下の道に降りた。進行方向を見ると100メートルぐらいのトンネルがある。かつてはこれが唯一のトンネルだったのだろう。古びた現役引退といった感じのトンネルだ。出口も見えている。しかしというかやはり、そのトンネルには明かりかなかった。進行方向の遠くには出口の光かあるが、足元や左右は薄暗いのである。私は少しためらった。しかし出口は見えている。気を取り直して歩き出した。一歩、二歩、三歩。

 その時だった。トンネルの中、遠くで力-ンという音。私は思わず後退った。いったいどうしたら無人のトンネル内であんな音が出るのだろう。考えるまでもなかった。私は来た道を引き返し国道に上がると、605メートルのトンネルを小走りで一気に抜けていった。トラックの風にあおられながらも「まだましだ」と言い聞かせ、出口の光かなかなか近づいて米なかったことしか覚えていない。こうして10回目の奥の細道の旅の初日、7月23日は過ぎていった。

 2日目は今にも雨の降り出しそうな曇天。この日は右手に絶えず日本海を眺め歩く道だけに残念だ。磯のにおい、浜風、それほど暑くはないがべ夕べ夕とする。時折、陽が差し少しずつ焼けていく。海水浴場をいくつか通り過ぎ、今川のビーチハウスで昼食。家族連れや友人同士、カップルの中で一人浮いていた。視線がつらかった。

 再び歩き出して2時間。朝9時から歩いて約25キロ、時間は午後3時過ぎ。休憩時間も含まれているので時速5キロペースだ。2日目だけに快調である。午後4時頃、早川に入る。休憩。国道から少し外れて海側の斜面に腰を下ろす。目の前にキラキラと光る海。結局一日中雨は降らなかった。水平線。海と空の境界を白いかすみのような帯が分ける。座わってただ海を眺める。









 30分ほどして宿を探しにJRの駅前に行く。駅といっても無人駅。駅前のベンチに座って自販機のジュースを飲む。セミの声は7月というのにヒグラシ。カナカナカナ……と啼いている。カラスの声、空にはトンビ、磯の香。小さなポストが一つ、駐在所の前に立て掛けたベビーカー、民宿「しおかぜ」さびれて1軒、とても営業している風には見えない電気屋さん。その向こうで海が輝いている。何もない村に日が暮れていく。1才ぐらいの子どもをベビーカーに乗せたお母さんが通り過ぎていく。貨物列車が通り、声を上げてはしゃぐ子ども。民家か数十軒の村の生活。辺りか薄暗くなり、私はようやく腰を上げた。

 翌日はものすごい晴れ。雲もほとんどない。ジリジリと焼けていく。本当に青い海。青い空。首の後ろと手の甲がピリピリして熱い。昼食の時、「すみません。牛丼一つ。」と言っただけで、「関西の人でしょう。」と見抜かれる。そういうものだ方言とはと、妙に満足する。半島のように突き出た所にあるこの店からは、左に村上の街並、正面の海の向こうにこの日の宿泊予定地の瀬波温泉か見える。海水浴場の砂浜に隣接してホテルや旅館が30ほど立っている。夕陽の見えることを売りにしている宿が多く、私もこの日の日没を楽しみにしていた。天気は快晴。燃えるような夕陽、それも海に沈む夕陽を見てみたかった。

 午後3時、瀬波温泉到着。テレビが新潟県下越地方(つまりこの辺りだ)が36.6度で本日の全国最高気温であることを告げていた。暑いはずだ。シャワーを浴びてこの日の日没時間午後6時59分まで寝ることにした。6時過ぎに設定したアラームで目を覚ますと私は砂浜に出た。夕陽を見る人が結構多く、やや興ざめだったが、夕陽はすでに空と雲、そして海を赤黒く染めていた。これは美しい光景なのだろうか。

 夕焼けは翌日の晴天の証しと言われる。だかこの日本海に沈む夕陽は、翌日の訪れさえ保証してくれないような不安を感じさせた。前日見た夕陽は小さな村の変わらぬ明日を告げているかのようであったが、この日の日没は凄まじかった。どす黒い雲の向こうで空か燃えていた。地球最期の日の空はきっとこんな空なのだろう。たっぷりと時間をかけ太陽は壮大に沈んでいった。辺りの人影がまばらになった頃、私は立ち上がり自分の部屋に戻った。



 翌日は朝から30度を超えていた。天気はまたもやものすごい晴れである。日焼けの上に焼けていくのか痛い。手足の所々は点々と血が浮いたように腫れていた。道路に設置された気温表示板が36度を示している。そう言えば数年前、山形県鶴岡市を歩いていた時、39度だったことがある。その時の空は青をはるかに通り越していた。

 今日もそんな感じである。雲一つない。見上げると目の前が暗くなった。少なくとも24キロ先の中条市までは歩きたい。海沿いから少し内陸に入り、集落と集落の間は田畑というパターンの道が続いた。妙にしんどかった。昼食のカツ丼も残してしまった。店の外の水道で顔を洗ったり、頭から水をかぶってもみたが、フラフラした。

 それから2時間ほど歩く。顔がピリピリとする。鼻の皮が軽い音を立てて剥けていく。消耗していた。民家の立て込んだ所に出た。水分補給をしなければと自販機を探す。欲を言えばベンチも欲しい。我慢してしばらく歩くと乙(きのと)という集落の物産館があり、休憩するには願ってもない環境だ。屋外の自販機で十六茶を2本買い、1本を一気に飲みほすと残りをためらうこともなく頭からかぶった。

 ベンチに腰を下ろす。立てそうな気がしない。手にした十六茶の缶を見たまま動けなかった。「ハトムギ、大麦、緑茶、玄米、黒豆、ウーロン茶、ハブ茶、……」ハブ茶のハブって何だ。ヘビのハブかなどと思いながら、その黄緑色の缶を見ている。頭の中では「ハトムギ、玄米、月見草」とCMソングか流れる。違う。それは爽健美茶だと思っていると、目の前が白くゆらゆらとして、セミの声が遠のいていく。眠い。全身の力が抜ける。熱中症?ああそうなんだ。これは熱中症な……。

 それからどれほどか時が経って、物産館の人の困惑した顔が目に写った。どうしたんだと、どこかへ行ってくれの混ざった表情だ。すでに陽は傾き、辺りは夕景であった。またしても夕陽だ。こうして地球最期の日も無事終了し、その後も炎天下の中を3日歩いた。しかしこの年の「奥の細道」の旅はもうこのタイミングしかなかったのである。

 帰阪後、数日して新潟は記録的な大雨。河川は氾濫し、新潟市内も含めて各地で1メートルの浸水。私が歩いた辺りも水浸しになった。大雨の後も一度回復した天候が再び悪化し、東北・北陸の梅雨明けは宣言しないという宣言が出される。新潟の夏はあの7月末の猛烈な暑さだけとなってしまうのである。

 次回は第29回「リアリズムの宿、弥彦祭りの夜、新潟で一番の景色」(白根、弥彦、出雲崎
新潟県。1999年 夏)です。



『OKU NO HOSOMICHI』 第27回

2017-02-10 18:20:00 | 国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』
~A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)~

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA~HEISEI)

第27回「「鳥海山との再会」(象潟、温海 秋田県、山形県。1997年 夏)

副島 勇夫(国語科)

 目の前には日本海があった。それも怒涛の日本海だ。午前中に台風による暴風警報が解除されたばかりの秋田県地方は、午後に入ってもまだ強風が残り、海は大荒れだった。



 1997年8月5日、私は2年ぶりに奥の細道を歩く旅に帰ってきた。その前年は子どもが産まれたことと3年生の担任だったこともあって、うまく日程が組めず、毎年のように続けていたこの旅を中断したのだった。秋田県南部の名勝象潟(きさかた)の小高い丘の上から、緑の水田に浮かんでいるかのような小丘の数々を眺めた前回の旅の終わりからちょうど2年が経った。今日が東北から南を目指す旅の始まりだった。

 欠航も心配されたが何とか午前の便で山形県西部の庄内空港に着き、昼ごろJR象潟駅に到着した。北上する電車の中から見える北国の空は、象潟に近づくにつれて明るさを失っていった。午後だけでも歩こうと私は国道7号線を南下しはじめた。小さな街はすぐに途切れ、右は日本海、左は林または小集落という感じになった。

 海側の歩道に立つと10メートルほど下に海があった。遠い彼方から次々と波が生まれては、海一面を白く染めながら押し寄せ、岸にぶつかっては砕けていた。唸るような音が絶えず響き、時々特別大きな波がドシンと陸地に衝突している。砕けた波は水しぶきとなって国道にまで降りかかる。岸の先にある漁船の倉庫にはまともに波がかかっていた。飛ばされそうな強風。雨も小雨ではあったが降り続いていた。そして何よりも刷毛で白く掃いたような海は恐怖さえ感じさせた。

 私はしばらく考え、今日は歩かないことにした。中途半端に進んで宿探しに苦労するより、観光地象潟の方が遥かに楽だった。象潟に泊まることにしたのにはもう1つ理由があった。この町の東には東北地方最高峰2237メートルの鳥海山があった。私は1993年の旅で鳥海山の上に美しい虹のような空を見た。夏でも白く雪の残る山頂の上にオレンジ色、薄い黄色、白みがかった青緑色、青と層になった空が、山の稜線にまとわりつくように重なり、空に虹色のグラデーションを作り出していたのだった。それは夢のような光景だった。

 しかし、それ以降、私は鳥海山が見えるはずの場所を歩いていても、いつも山頂もしくは山の半分ほどが雲に隠れ、虹のような空どころか山の全景さえ見ることができなかったのである。今回の旅の最初の2日間がこの山を見る最後のチャンスだった。その後は南に下りすぎてしまうのだ。私は鳥海山があるはずの方角を振り返ったが、黒い雨雲に覆われて全く見えない。海の上にはわずかながらも青い空が覗くようになったが、陸の上は灰色または黒い空で、私はこの海沿いの国道でちょうど雨雲を背負う形で海を眺めていたのである。

 この2日間でせめて山の全景だけでも見たかった。旅に限らず、日々を過ごしていると、その時にしか経験できないということがある。見た景色、出会った人、一期一会というのだろうか。後になってもう一度と思っても、それはなかなかうまく実現しないものだ。見逃したり、言いそびれたり、会えなかったりということになると過ぎ去った時への思いは一層強まる。今しかできないことは、やはり今しかできないのだ。偶然を含めて様々な要素が組み合わさって一瞬一瞬があり、その連続の中で私たちは生きているのだ。

 だから、あの鳥海山の空を見ることはもうないのかも知れない。いやあの一度の経験を記憶にとどめておくことが正しい選択なのだろう。そんなことを思いながら私はこの白い日本海を眺めていた。30分ほどして象潟の町に戻り、私は海に近い宿に泊まった。部屋のテレビが明日は晴れることを告げていた。夜の空では相変わらずの強風で、雨雲が吹き流されていた。

 翌朝、窓を開けると雲一つかからない鳥海山があった。思いのほか近くに、そして拍子抜けするほどあっさりとした再会だった。南から眺めた4年前の流れるように広がる山とは違って、西からの全景は力強かった。



 私は宿を出て、砂浜に向かった。早朝の海水浴場は人影もなく、白い海鳥だけが波打ち際で遊んでいた。昨日とは比較にならないほどの穏やかな海だ。見上げると鳥海山にはすでに雲がかかり、とうとう半分ぐらいが隠れてしまった。山の全景を見ることができたのは20分ほどであっただろうか。実にあっさりとそしてあっという間の4年ぶりの再会だった。

 旅の2日目は2年前の旅で泊まる所がなく夜を明かした無人駅、JR女鹿駅に立ち寄った。何も変わっていない。1日に6本しか列車が停まらない駅。小さい駅舎の壁に墨で書かれた「女鹿」の文字。うさぎのぬいぐるみが2つ。2年の月日が閉じこめられたかのような空間。誰もいないホームで休憩。誰も来ない。何もない。ついでに列車も来ない。ホームでごろりと大の字になる。青い空に雲が流れる。鳥の声、蝉の声以外に何も聞こえない。このまま昼寝でもしたいところだが、今日中に酒田までは着きたい。あと20数キロある。旅もまだ2日目。元気なうちに距離を稼ぎたい。

 3日目の午後、鶴岡に到着。この町は私が第2の故郷と慕う町だ。そしてここまでが前回北上した道を逆に南下するコース、明日からが初めての道を歩くことになる。私は前回の旅で泊まった旅館を目指した。

 古びた食堂の隣の小さな旅館。すいません、部屋空いてますかと呼ぶと奥から見覚えのあるおばあちゃんが出て来られた。前回この宿で2泊することになり、その際、奥の細道の旅の話を長時間聞いて下さった。冬には年賀状まで頂き、今回是非ともお会いしたい方だった。少し自己紹介するとすぐに思い出されたようだ。2年ぶりの再会、積もる話はそれほどなかったが、それでも懐かしかった。

 夕食は自分の部屋ではなく、旅館のおじいちゃん、おばあちゃんと食べることになった。前回この宿を発った後の旅の話。出会った自転車少年、無人駅で泊まったこと、象潟の美しさ、怒濤の日本海。楽しそうに聞いて下さった。やはり積もる話はあったようだ。もうこの先、この旅で鶴岡に来ることはない。それが寂しかった。

 今までの9回の旅で実に多くの人に出会った。足を引き摺り歩いていたところを拾って下さったトラックのおじさん。山中で泊まる所もない時に見ず知らずの私を泊めて下さった農家のおばあちゃん。通りがかりにトマトを頂いたり、宿で出発の際にパンや土産を頂いたことも何度かあった。旅の話を熱心に聞いて下さった方も何人もおられた。すべて一期一会、再びその方々にお会いすることはないだろう。私は寂しかった。それだけにこの旅館のおばあちゃんとの再会が嬉しかった。

 翌朝、鶴岡の町を遅めに出発した私は町外れの庄内物産館で昼食をとった。ここは前任校の修学旅行で最後の夕食をとった土産物センターである。あの時はセンター内のうどん屋が緊急の病室となって、大量発生したインフルエンザ患者が布団を敷いて寝ていた。その2年半前に私はここを訪れていたわけで、当時はもちろん一般観光客で賑わっていた。

 食後にラ・フランス・アイスクリームを食べ、温海温泉を目指して歩き出した。道は次第に登りはじめ、峠越えになる。夏の日差しは厳しく、じりじりと日に焼けていく感じがする。峠を下りはじめた頃、私の周囲には沢山の蜻蛉が飛んでいた。風は心なしかひんやりと涼しく、私は数十匹の蜻蛉と峠を越えていった。東北の秋はもうそこまで来ていた。



 次回は第28回「陽はまたのぼり繰り返す―日本海に夕日は沈み、日射病と水害」(村上、中条、新潟県。1998年、夏)です。





[庄内使えるサイト]より

 日向川と鳥海山



 鳥海山の紅葉が中腹まで



 鶴岡 赤川河川敷



 鶴岡 鶴岡公園のお堀



『OKU NO HOSOMICHI』 第26回

2017-01-23 00:25:00 | 国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』
~A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)~
1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA~HEISEI)

第26回「そして南へ?自転車少年と無人駅のぬいぐるみ」(鶴岡、酒田、女鹿、山形県、秋田県。1995年、夏)

副島勇夫(国語科)

 旅を続けている中で、住んでみたいと思う町に時々出会う。私にとってその第1位は山形県の鶴岡市だ。鶴岡は山形では5、6番目の規模の街である。といっても都会というほどのものではない。高槻や吹田と比べ、2回り、いやそれ以上小さい。駅前や繁華街のたたずまいは似たところもあるが、ビル街はすぐに途切れ、住宅地もしばらく行くと途切れ、広大な田畑、庄内平野が広がっている。飛行機から眺めると鶴岡の町は、夏は田畑の緑、冬は雪の白さの中に浮かぶ島のようで美しい。最もこの辺りの町はすべてこのように見える。

 鶴岡 [やまがたへの旅 観光画像より]



 鳥海山





 そんな緑の中に浮かぶ町の東端に赤川が流れ、はるか北には最上川、その北に標高2237メートルの鳥海山が見える。東には羽黒山、月山、湯殿山の出羽三山。南にも数々の山が連なる。歩いて7、8時間、車なら1時間の距離に数多くの名勝、温泉があり、日本海も近い。米が旨く、人情も深いと良いことづくめである。私は庄内空港が近いこともあって、奥の細道の旅の最終日はこの地で過ごすことが何度かあった。人口も多すぎず、ちょうどいい街という印象だ。



 前日に出羽三山を下山した私は鶴岡に1泊し、次の宿泊地である酒田を目指して歩いていた。小雨が降ったり止んだりの空模様で、本来なら見えるはずの烏海山の美しい山並も見えなかった。

 歩き出して2時間ほど経ち、川沿いの道を北上していると、荷物を左右に振り分けた、自転車の高校生が私を追い越して止まった。「こんにちは」と挨拶をする日焼けした顔が逞しい青年だった。互いにどういう旅なのかを説明し合い、彼は自転車を押しながらしばらく同行してくれることになった。高校生と高校教師ということや、私が大阪から来たということに興味を持ったのか、話は弾んだ。彼は北海道の釧路から宮城県の松島まで、一日100~140キロを走行する、テント持参の旅の帰りだそうだ。

 釧路での2度の地震の話から阪神大震災の話、釧路は夏でも30度を越えず、クーラーのある家は珍しい、冬はマイナス25度で、吐く息が服にかかるとそこから凍るという話、大阪のタコ焼きは本当においしいのかから、大阪には阪神ファンしかいないのかと素朴な疑問まで、会話の途絶えない1時間だった。大阪弁が珍しいのか、何を言っても面白がってくれる。なかなかできた人物である。

 去っていく後ろ姿を見ながら、この高2の青年の計画性、実行力を頼もしく感じた。自分が励まされたように思えた。旅を続けていると、時々こういう同士に出会う。さすがに歩いてという人には会ったことがないが、自転車、バイクの旅行者とは挨拶を交わし、どちらからともなく旅の話になる。それもこの旅の喜びの1つだ。

 午後3時頃、酒田市に到着。酒田は港町だ。ロシアからの船が着く。街の中の至る所でロシア語の文字が目に入る。ロシア人と思われる人も多い。地元の女子高生と記念写真を撮っている2人組もいる。街の規模は鶴岡と同じかそれ以上だが、なぜか人が少ない。どこか寂しい感じがするのは、ここが以前、大火で焼けた街だからかもしれない。私は街見物もあまりせずに翌朝、酒田を出発した。

 次の目的地は「奥の細道」最北の地、秋田県象潟(きさかた)である。酒田から36キロ北にあり、何とか1日で到着できる距離ではあったが、今回の旅ではすでに月山、湯殿山という2000メートル近い山を登下山しており、足腰ともにいっぱいいっぱいの状態だった。途中、酒田の10キロ北にある「十六羅漢」という名勝で寄り道をしたこともあって、この日の象潟到着は困難に思われた。

 午後に入り少し薄日が差すようになったが、相変わらず晴れ間の少ない空の下、私は歩行者のほとんどいない国道7号線を歩いていた。左には曇天の下の青暗い日本海。右は民家か山裾という道である。前方右には晴れていれば鳥海山が見えるはずだった。夕方になり次第に日没が近づく。あとのことを考え小さな食堂で夕食をとる。どこに泊まろうか。地図を広げて思案する。1時間ほど前、温泉宿を通り過ぎてしまったことが悔やまれた。その時は先に進めば何とかなるだろうと思ったのだった。

 天候が悪いこともあり、8月5日はあっさりと日が暮れてしまった。今晩をどう過ごそう。私はこれまでの約10年の旅を振り返った。見ず知らずの方の御宅で泊まったこと、交番の椅子で眠ったこと、野宿。野宿だけは避けたかった。雨でも降れば悲惨である。そして蚊や蛾の襲来に眠るどころではなかった。駅のホーム。その手があった。一度無人駅のホームで寝たことがあった。虫よけスプレーを手足にかけ、ついでに周辺の壁にも振りかけ眠った。自販機やトイレもある安心感は野宿よりはるかに快適だった。

 地図を見ると近くにJR女鹿(めが)駅があるはずだった。恐らく無人駅だろう。私は痛み始めた足を引きずり、駅舎らしいものを探して歩き出した。ところがそれらしきものが一向にない。線路すら見えない。右も左も林ばかりで、時折左の視界が開け崖下に日本海が見える。右の竹やぶの切れ目に木製の立て札がある。文字を読むと「JR女鹿駅入口」と書かれている。そこから林道が頼りなく続いていた。まさかという思いと不安が込み上げ、足が止まってしまう。意を決して、駅に続くとは思えないその道を歩き出した。道はうねうねと曲がり最後に下ると、小さな倉庫か公園のトイレぐらいの大きさの建物があった。壁に墨で「女鹿」と記されている。どうやらこれが駅舎らしかった。

 中に入ると木製の古びたベンチと台があり、中央のストーブが冬の寒さを想像させる。カレンダーだけが新しく今年の8月を示している。ホームへ出てみると周囲の暗さの中に常夜灯の明かりが等間隔で浮かんでいる。少し気味が悪かった。虫の声しか聞こえない林の中である。私は駅舎に戻りほこりだらけのベンチに座った。壁に掛けられた時刻表を見て驚いた。何とこの駅には上り下り合わせて1日に5本しか電車が停車しないのだ。上りの酒田行きは朝に2本、下りの秋田行きは昼、夕、夜に1本ずつなのである。

 時計を見ると夜の8時過ぎだった。この駅に停まる電車は明日の朝の6時31分までなかった。私は次第に不安になっていった。窓ガラスにあたる蛾の羽音、虫の声、時々聞こえる烏の声に私は過剰に反応していた。目の前の古い本棚に古い雑誌とノートが置いてある。よくある旅の雑記帳というやつだ。それによるとこの女鹿駅は小さな無人駅として有名らしかった。深夜に到着した自転車旅行の大学生が一泊している。皆この駅に驚いているようだ。私も不安を紛らわすために3ページほど書いた。内容は自分の旅ノートにも控えてあるが、あまりも青臭い文章なのでここでは記さない。

 本棚の上に古いウサギのぬいぐるみが2つ置いてあり、「こんにちは!女鹿駅のマスコットです。可愛がってあげて下さい。JR東日本」と書かれた紙が立て掛けてある。その赤と白の2匹のうさぎの間の抜けた顔を見ているうちに私は笑いが込み上げてきた。何故か無性におかしかつた。そして笑い終わったときには私はすっかり落ち着いていた。どうとでもなれというような覚悟ができたようだった。

 夜9時を過ぎ、何もすることのない私は寝ることにした。この経験を楽しもうと思っていたのだが、今にして思えば無理をしていたのだと思う。夜中に通過する列車の音に何度か目が覚め、その度に間の抜けたぬいぐるみを見ては目を閉じた。私はこの2匹に救われたのだと思う。

 翌日、やはり曇り空の下、今回の旅の最終目的地象潟を目指した。女鹿から16キロ、約4時間の距離である。歩き出して10分もすると女鹿の集落があった。旅館などはないが、昨晩の悪戦苦闘を思うと、なあんだという感じである。背負った荷物が重く肩が痛い、足もつらい。心の中で、「キサカタ」と何度も唱えながら歩いた。象潟は「奥の細道」の旅の最北地である。つまり折り返し地点、南下の旅の出発点なのである。

 実際は象潟までの道のりより、そこから日本海に沿って新潟、富山、石川、福井、岐阜と歩く後半の方が距離はあるのだが、何と言っても東北を目指した旅の終わりなのである。歩き始めて10年、8回目の旅で象潟までようやく来たという思いを味わいたくて私は次第に足速になっていた。

 午後1時30分、JR象潟駅に到着する。駅前の観光案内板を参考に私は住宅地を抜け、古来よりの名勝、歌枕の地である象潟の中心を目指した。芭蕉が訪れた当時この地は東西2.2キロ、南北3.3キロの陸地が陥没した入江で、九十九島、八十八潟があった。つまり入江に無数の島が浮かぶ浅い海であった。鳥海山を背景とする風光美をうたわれたのである。宮城県松島を規模を小さくし、島の密度を高めた感じだ。ところがその後、文化元年(1804年)の大地震で隆起して、入江は陸地となってしまった。今はかつての島が、点々と散らばる松の茂る小丘として、田畑の緑に浮かぶようである。私はその水田地帯を通り抜け、なるべく全景を眺めようと低い山へと続く道を歩いていった。20分ほど丘を登り、全景とは言えないまでも数多くの小丘が見渡せる所で腰を下ろした。相変わらず雲の多い空だったが、私は感無量だった。

 ここは秋田県なのだ。10年前、ふらっと東京へ行った最初の旅。暑さのためにクラクラした初日。あれから10年経ったのだ。今では旅装も計画性もすっかり変わっている。1日で歩く距離を定め、1時間毎に休憩を取り、歩きやすい服装、靴、荷物の詰め方、背負い方も考えている。すっかり旅慣れた。そして10歳分年を取った。私はこの10年で何を得て、何を失くしたのだろう。

 次回の旅はここを起点としようと思った。今までとこれからの10年を考えて歩くのだ。ここから南を目指す旅の始まりである。このまま北を目指したい、東北という土地を旅していたい、その思いをもって南下しよう。来年の夏、東北に別れを告げ、越後路へと踏み出す旅となる。しかし、期待感と高揚感に衝き動かされて東北を目指したこの10年の旅は、20歳台ということとも合わせて特別なものになるのだろう。

 翌日、庄内空港を出発した全日空762便は、夜の8時過ぎに大阪伊丹空港に到着した。機内から眺めた大阪の夜景は、途中に見えた名古屋の100倍ほど明るく華やかで、ビル街のネオン、高速道路、一般道の車、人家の無数の明かりに溢れ、そしてどこか苦しそうだった。

次回は第27回「鳥海山との再会」(象潟、温海 秋田県、山形県。1997年夏)です。















『OKU NO HOSOMICHI』 第25回

2017-01-22 13:33:00 | 国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』
~A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)~

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA~HEISEI)

第25回「白い神、赤い神」(月山、湯殿山、山形県。1995年、夏)

副島 勇夫(国語科)

 前任校であるS高校27期生、346名を乗せたバスは、ほぼ予定通り、午後4時に蔵王国際ホテルを出発した。今から20年ほど前の2月のことだ。

 宮城と山形の県境に連なる山々を右手に見ながら、バスはチェリーランドで30分の休憩を取り、月山の南から鶴岡市を目指して再び走りはじめた。修学旅行の実質の最終日。1月30日から始まった旅は、3日間のスキー講習とその総仕上げに当たる蔵王山頂の樹氷原スキーツアーを無事終了し、あとは夕食を取り、夜行列車で大阪まで帰るだけだった。バスの中ではビデオが流されていた。皆はその「マネキン2」を見るともなく眺めていた。後ろの席ではかろうじて元気な数名が騒いでいた。何名かの生徒がインフルエンザの症状を示していた。

 今回の修学旅行は、約50名という、S高校修学旅行史上最多のインフルエンザ患者を出した旅だった。皆疲れていた。次第に日は暮れ、どこをどう走っているのかわからなくなりつつあった。しかし、ここからが私にとっての最後の楽しみなのだ。バスの運転手の後ろの席から私は雪の積もる夜の道を見つめ、その場所を探していた。時刻は7時半を過ぎ、月山、湯殿山の麓を回りこむように続く道は、バスのライトに照らされた場所だけが見える状態だった。

 私はこの修学旅行の5年前の夏、月山、湯殿山から下山し、やっとの思いで辿り着いた場所、旅の日記を書いている途中に土砂降りの雨に打たれた、その場所を探していたのだ。そして、そこから後にこのバスが走る道は、恐らくすべて私が5年前に歩いた道のはずだ。記憶は5年前に遡る・・・。



(以下庄内観光コンベンション協会が提供する無料画像より)

 月山山頂付近



 月山山頂



 月山登山



 月山 弥陀ヶ原



 冬の月山 [庄内使えるギャラリー]より



 1995年8月2日。少しあやしくなりだした曇り空を見上げ、私は荷物を背負い、再び歩き始めた。私は山形県の霊峰月山の6合目にいた。6合目といっても車も通る舗装された道路で、山道らしくなるのは8合目からだ。振り返ると眼下の遠くに、緑の水田に浮かぶように町が見える。2日後には着くであろう鶴岡の町だ。

 「奥の細道」を歩く8回目の旅のこの日が初日だった。6合目で休憩を取っていると次第に周囲が白くなっていった。ガスがかかり始めたのだ。麓の眺望はなくなり、寒くなってきた。あっという間に前方30メートルが見えなくなる。急ごう。何とか夕方までに、8合目の月山御田ヶ原参寵所に着かねばならない。

 月山は標高1984メートル、夏でさえ雪の残る山である。日が暮れた後のことなど考えたくはなかった。「7合目合清水(ごうしみず)」と記された茶色い標識がガスの中に浮かんでいる。あと1合だ。目の前の道は白いガスの中に吸い込まれるように消えている。山頂どころか自分が今いる場所から上の眺めがほとんどない。そもそも月山の山頂を見たことなど一度もなかった。月山があるはずの方角を見ながら歩いた前回の旅。月山の麓まで辿り着いたその最終日。そして今日といい、月山の山頂は常に雲の中だった。この道はどこに続いているのだろう。白いガスの中で私は一人不安だった。

 1時間ほど前に1台の車が私を追い越していった。その1台のハイラックス・サーフが私の支えだった。寒い。そして水滴が手や足を伝った。1時間ほど歩くと前方に人影のようなものが見え、上り坂が平らになる。広々とした空間に出た。駐車場のようだった。私が人影だと思ったものは月山8合目のバス停であった。皆、車でここまで来たのだろう。大勢の人が8合目にはいた。高山植物が保護整備された通称「御花畑」の中を通り、今日の宿の月山御田ヶ原参寵所に着いた。

 部屋は教室3つ分ぐらいの大部屋で、奥の方には明治大学スキー部が数日前から泊まっていた。最悪の状況だ。消灯後は静かに眠ることができるのだろうか。深夜のどんちゃん騒ぎ。一般客とのトラブル。そんなことを考え、気が重くなった。私の隣は、左が尾花沢から来られた老人。隣といっても自分の布団を敷くだけのスペースが与えられた場所だ。この老人は自称「アマチュア修行僧で、各地の名山に登っては気に入った場所でビニールシートを敷き、座禅を組むそうだ。右隣りは定年退職後、百名山を登ることを目標とされている名古屋からの2人の男性。他にも老夫婦など全部で8名が対学生連合チームだった。誰もが十数名の大学生の挙止動作を意識していた。

 私はその場にいる気になれず1階に降り、外に出た。夕方の5時過ぎだというのに辺りは暗く、白く濁っていた。そして湿った寒さがさらに私の気を重くした。身体を暖めようと風呂に行くが、浴槽の湯は少なくなっていて、シャワーも湯があまり出なかった。外は雨になったようだ。かなりの雨音が聞こえる。私は情けなくなった。夕食を済ませても午後6時半。部屋に戻ると皆布団を敷き床に就いている。私も毛布を被った。寝てしまおう。雨音と学生の話し声だけの広い部屋。明日は山頂に着くことができるのだろうか。夜はまだ八時だった。

 バイトの高校生の声に目を覚まし時計を見ると午前4時、スキー部の学生は寝ている。心配していた事態はなかったようだ。見回すと何人かの人が荷作りを始めていた。5時半に朝食。同好の士同士で話がはずんだ。参籠所の外に出ると雨は上がっていたが、一面のガス。気温は2、3度ぐらいか。地面では100匹以上の蛾が羽をバタバタさせている。夜に明かりを求めて集まるそうだ。もがき苦しんでいるようで、あまり気持ちの良い光景ではなかった。ここは霊場だという思いが強まった。

 ほかの人々とともに朝6時に出発。白いガスと足元の高山植物の中、前だけを見て歩く。雨天用のレインポンチョを着てはいるが寒い。月山を少し甘く見ていたようだ。9合目の山小屋を過ぎたところで3分ほど陽が差す。雪渓の白と植物の緑、黄色や薄紅色の花が鮮やかで、斜面を登っていく人々の背負った荷物がそこだけ浮き上がって見える。小学4年生ぐらいの男の子とその父親らしき人が元気に登っていく。その前方のおばあちゃん3人組も健脚だ。山頂付近は大小の石が散在し、歩きにくい。雪渓と寒風の吹きつける中を8時20分頂上到着。山頂には簡素な神社が石垣の中に建っており、白いガスの中、次第にその輪郭を鮮明にしていく。今回の旅の最大の目的はここなのだ。

 自分の話になるが、この年の冬に第一子の誕生を控えていた。初めての子だった。私はこの2000メートルの高さにある月山神社で、安産と我が子の無事な誕生、その後の健康を願おうと決めていた。もちろん松尾芭蕉もこの山を登っているのだが、今回ばかりは生まれてくる子供のための登山だった。入り口で300円を払い、人の形をした小さな紙をもらう。それで身体を何度もなでた後、その紙を水にうかべ社の前に立つ。私は信仰もなく、日頃手を合わせることもないが、このときばかりは感動していた。強い風と寒さもあって身体が震えていた。願うという気持ちをこれほど素直に感じたことはなかった。

 山頂の山小屋で熱いお茶をすすり、見ず知らずの人々と話す。わたしの服装はこの山を登るには軽装だったようで、何人もの人から指摘された。わたしはレインポンチョの下は半袖のTシャツに短パンだったのだ。足や手に鳥肌が立っていた。芭蕉も「息絶え、身こごえて頂上に至れば」と記している。

 あたりは相変わらず白く、日が暮れていった前日と比べ、朝である分だけ明るかった。休憩を取るだけ身体が冷えていく。靴のひもを結び直し出発する。まだ午前9時にもなっていない。石ばかりの道を下り始めると膝がガクガクする。下りのほうがはるかにつらい。前方には小学生の集団、担任の先生か保護者らしき人が盛んに檄を飛ばしている。小学生に笑われてはいけないと軽い足取りを演じ山道を下るが、内心はもう一杯一杯だった。

 彼らの姿がガスの中に消えたところで思わず座り込んだ。腕に寒冷じんましんが出ている。しかし、こんなところでバテているわけにはいかない。この先にはまだ金月光(かながっこう)、水月光(みずがっこう)という難所があるのだ。鍛冶小屋を過ぎ、牛首まで来て慎重になる。ここは山頂の分岐点だ。数日前ここで道を誤った夫婦が遭難している。前後にはあいにく人がいない。標識を確認して歩き出す。浄身川、施薬小屋を過ぎた辺りでようやくガスが消え、眼下の景観が開ける。

 天気は曇りのようだ。10分ほど下ると金月光の標識。落ちるような急坂に鉄のハシゴが掛けられ、鎖を持ちながら後ろ向きになって降りる。それが30メートルほど続くのだ。登山というよりアスレチックのようだ。背中の荷物が重く、はしごを降りるバランスが崩れる。

 金月光を過ぎるとすぐに水月光に出る。これも急坂ではしごを掛けるほどではないが、足下を絶えず湧き水が流れていく。なぜここを登山道にしているのだろう、水のないところは降りられないのかという憤りがこみ上げてくる。タイミング悪く、小雨が降りだした。膝はガクガクで、レインポンチョの外も内も濡れている。難所はさすがに難所である。芭蕉の頃は鉄のハシゴもなく、坂に這いつくばるようにして下ったのだろう。

 湯殿神社 本宮(庄内観光コンベンション協会が提供する無料画像より)



 午前11時、月山を下った尾根続きの湯殿山中腹にある湯殿山神社に到着。ガスと雪渓の中を歩き続けた白の神域は、これより赤茶の巨岩をご神体とする赤の神域へと移る。湯殿山神社に到着した私は雨とガス、汗で濡れたレインポンチョを脱ぎ、拝観料を払い中に入った。空は雲こそ多いが青空だ。

 山頂にある月山神社と比べ人が多い。入り口で人の形をした紙で身体をなで、水に浮かべるのは同じだ。違いはその後裸足になり石の敷き詰められた道を歩く点である。そうして歩いていくと少し開けたところに巨大な赤茶色の岩がある。小さな丘のような形と大きさだ。そしてその岩の上のほうから熱い湯が流れ出している。つまりここは温泉の源泉なのだ。

 岩の周囲には湯気が立ち、岩肌はぬるぬるとした光沢がある。その岩を足を滑らせながら登り、一周することが参拝することなのだ。私は月山神社と同様に我が子のことを願ったが、正直言ってこの神社の特異さに対する興味と滑りやすい足下のために集中はできなかった。写真撮影も禁止されている。私はこの不思議な光景を目に焼き付けようと、30分ほど赤茶色の巨岩を眺めていた。

 その後、「熊、出没注意」という恐ろしい立て看板を何枚も見ながら麓の田麦俣まで下山した。民宿が1軒あり、泊まろうか次の集落まで行こうか迷いながら歩いていると、観光バスの通る大きな道に出た。ガードレールの向こうは建設中のダムがある。下山したとは言ってもまだまだ山の中だった。私は腰を下ろし地図を広げ、次の集落を探した。まだあと数時間の道のりだった。田麦俣の民宿に引き返すことにして、私はその場所で荷物の中から毎日書き記している旅日記を取り出した。

 起床4時の長い1日だった。白いガスの中を彷徨うように歩き、山頂の月山神社に着いたのが8時過ぎ。寒く白い山頂での出来事。金月光、水月光の難所。湯殿山神社の赤い巨岩。そんなことを書いているうちにノートにポツリと雨が落ちた。どしゃ降りになった。あっという間だった。私は慌てて荷物をまとめ、田麦俣の集落に向かった。

 S高校27期3年4組を乗せたバスは、小雪の降る暗い夜の道を鶴岡市街を目指して走っていた。右手に湯殿山、左手に深い谷。私が探していたその場所はまもなくのはずだ。車内の話し声。流れるカセットの音楽。隣の座席では副担任のK先生が目を閉じている。初日の宮城県松島では仙台銘菓「萩の月」を買うために、大量の生徒が店を訪れ、バスの出発が遅れ、このお菓子を事前にあまりにも宣伝した推薦者として冷や冷やした。とにかく、ふわふわの生地の中のカスタードがトロリとしてなくて美味なのだ。

 初日の大浴場事件。続出するインフルエンザ。夜の雪合戦。露天風呂で某先生がまいた湯のために階段が凍り、そのために全裸で滑り落ちてできた尻の傷。厳寒の中の樹氷スキー。それに加え、5年前の月山、湯殿山。12年前の松島を再訪することができ、個人的には二重の喜びの修学旅行だった。その後、柴島高校に転勤した今でも、約20年前の日々が懐かしく思い出される。

 次回は第26回「そして南へ? 自転車少年と無人駅のぬいぐるみ」(鶴岡、酒田、女鹿、山形県、秋田県。1995年、夏)です。











『OKU NO HOSOMICHI』 第24回

2016-12-06 00:09:00 | 国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』
~A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)~

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA~HEISEI)

第24回「「空のグラデーション」(羽黒山、山形県。1993年、夏)

副島勇夫(国語科)



 羽黒山、月山、湯殿山を称して出羽三山という。

 この三山はまさに隣り合う形で並び、羽黒山頂がそのまま月山の登山口となり、月山を下っていくと湯殿山に行き当たる。そしてこの三山は平安時代より信仰の山であり、大和の大峰山(崖から腰ひも付きで突き落とされそうになり「親孝行するかぁーっ」と怒鳴られる山である)、九州の英彦山と並ぶ三大修験道場であった。

 古代の霊山信仰と、平安時代の山中に浄土があるという考えが結びつき、修行により法力を得ようとする修験者や救われたい庶民が100人、500人、1000人と列をなして押しかけた。交通不便の時代に東日本各地から年間15万7千人が登山参拝したという記録が残っている。当時は約300件の宿坊があったそうだが、今では35軒、それでもさまざまな県名が記された看板が掛けられ、信仰の今に至ることを示している。

 出羽三山登山がいかに大変なものかということは次回記したいが、羽黒山419メートル、月山1984メートル、湯殿山1504メートルであり、中でも月山は8合目以上は夏でも雪が残り、夏の朝の気温でさえ零度ということもざらである。そろそろ話を始めようと思う。

 8月2日、天気は晴れ。前日雨の中を20キロ歩き、羽黒山の門前町の手向(とうげ)に到着した私は今回のこの旅の最終目的地である、羽黒山頂を目指していた。

 目の前には羽黒山の入り口とも言える随神門がある。これより遥か湯殿山までが神域である。登るのかと思いきや下りの石段。少し拍子抜けしながら跳ねるように駆け下りる。朱塗りの神橋を渡ると杉木立が深くなる。樹齢1000年の天然記念物「爺杉」が立っている。

 羽黒山は樹齢300から600年の杉が多いが、この木は中でも飛び抜けて老木である。1000年という圧倒的な時の重なりに敬意を表し一礼した私の目に次に映ったものは、杉木立の密集がやや開けた空間の中に立つ、奥羽最古の五重塔だった。この室町初期に作られた素木作りの国宝は、華美な装飾、彩色を排し質実な飾り気のない見事な美しさだった。そしてその風雪に耐え鄙(ひな)びた姿、木材の色は塔ではなく土中より生じた一本の木を思わせた。

 眺め続けていたい心を抑え歩きだした私を待ち受けていたのは、これこそ羽黒山、名所中の名所、そして難所、杉並木の中、約2キロ、果てしなく続く2246段の石段であった。のぼり50分、下りは40分の一段一段が普通よりやや低い平たい石段である。このときの旅では2日目に立石寺の1018段の石段を往復しており、合計6528段を上り下りすることになる。

 目の前のだらだらと登っていく石段道に足を踏み入れる。すぐに「一の坂」と呼ばれる急な石段道。少ししんどいがまだまだ余裕でクリアー。何人も追い越し得意気であった。しかし、それもここまで、次の二の坂を前にして私は立ちつくしていた。

 これはすごい、そしてひどい。まるで壁だ。途中からは手前に反りかえっているかのように見える。「よしっ」と声を出すが、足が上ることを拒否している。今回はここまでに130キロほど歩いている。その最後に2246段はきつかった。仕方がないので登り始める。汗があごや耳、指先や肘からポタポタと落ち、息は乱れ、目の前には、☆◎?△□のような図形が見える。倒れそうだ。後ろから「ほい。ほい。ほい。ほい。」という声が登ってくる。振り返ると先ほど一の坂で追い越したおばあちゃんだった。

 悔しかった。そして情けなかった。これではまるで教訓おとぎ話である。しかし、私はあっさりと追い越された。その時のおばあちゃんの目が「まだまだ甘いわ。お若いの。」と語っていたことは言うまでもない。ハアハア、ヒイヒイ、フウフウと誰もが息を切らしながら登っている。そんな五段活用の中、私も覚悟を決め一気に登り始めた。荷物が重い。膝がわなわなとする。全身から湯気が立つかのようである。

 頭の中がツンと痛くなった頃ようやく「二の坂」を登り切る。するとそこには一軒の茶店。ありがたいと思うとともに卑怯者めと言ってやりたくなる。商売上手だ。誰もが、ここで休みたいだろう。

 名物「力餅」をいささか手遅れの感はあるが食べる。「力」はこの石段を登る前にほしかった。一休みの後、歩き始める。「三の坂」の脇に芭蕉が滞在した南谷別院の跡がある。木立がわずかに開けたところに草地と池がある。蚊の大群がいたので引き返す。この辺りの杉並木は樹齢300年というから、芭蕉が訪れた頃はまだ芽が出たぐらいである。

 そしてダメ押しの「三の坂」をゆっくりと自分のペースで登り、ようやく本殿の三神合祭殿に到着する。1818年の建造というから芭蕉が訪れた1689年には当然なかったものである。茅葺き屋根が巨大で、朱塗りの重厚かつ豪壮な大建築である。

 雪深い冬に月山、湯殿山への参拝ができないため、もともとの出羽神社に月山神社、湯殿山神社の二神を合わせ「三神合祭」と言い、出羽三山神社と呼ぶのだそうだ。本殿前には鏡池があり、この池から500枚以上の鏡が引き上げられている。今回の旅の到達点はこの出羽三山神社と決めていた。来年はこの地点から月山に登るところから始まるのだ。

 境内でしばらく過ごした後、今度は「三の坂」、「二の坂」、「一の坂」の順で坂を下る。膝が笑うどころか砕けそうだ。痛い。「二の坂」は下ると言うより落ちそうだ。もう一度五重塔で時間を過ごし、ゆっくりと眺める。周囲を杉の巨木に囲まれ、のしかかられるような中、しゃんと立っている素朴な塔。森林特有の靄(もや)が、呼吸しているかのようだ。

 何かとてもありがたい気持ちで随神門を出る。手向の村を通り抜け、鶴岡の町を目指して歩く。このあたりは町と町の間は田畑ばかりで、その中を道路がまっすぐに延びていく。だから高い所から見下ろすと、夏は水田の緑の海に町が島のように浮かんで見える。来年は月山から見下ろそうと思う。

 鶴岡へ向かう舗装されたバス道を下って行く。角を曲がり視野が開けると朱塗りの大鳥居。最近作られたものだろう。あまりに巨大すぎる。立派ではあるが、五重塔のような枯れた風情がない。それでも雲のほとんどない青い空を背景に鮮やかにそびえ立っている。残っていたカメラのフィルムを使い切ってしまおうと数枚写真を撮る。振り返ると羽黒山が丘のように見え、その右奥に月山が半ば雲に隠れている。

 当時はまだ、デジカメやスマホなどない時代、フィルムのカメラしかない。

 ところが、この時までまったく気がついていなかったのだが、進行方向の鶴岡の右後方に美しい山が見える。標高2337メートル、なだらかな稜線を持つ、東北最高峰の鳥海山だった。

 山頂付近は雪のため白く、陽光に輝いている。薄雲がかかり、その雲も白と薄いクリーム色に輝いている。その上は薄いオレンジ色に染まった空である。その空の上は薄い黄色の空であり、その上は白みがかった青緑色の空、そしてそこから上方に行くにつれ少しずつ青味が増していく。青緑から青へ、青から濃い青へ。薄い層になった空が平たい山頂の稜線にまとわりつく虹のように重なり、美しい空のグラデーションを作り出していた。私はその夢のような美しさに見とれていた。現実の光景ではないように思えた。

 しばらくして私はカメラ、カメラと思ったが、何ということかフィルムがない。近くに店もない。田んぼの海の中に赤い大鳥居と「大鳥居」という名のバス停があるだけだ。当時の旅日記を見ると次のように記されている。「残りのフィルムを使い切って、ふと見ると、見事な鳥海山。雲の上に雪をのせて、そびえ立つ山。空の青が薄いから濃いへ。言葉もない。フィルムもない。来年はこの山を見ながら歩こう。」

 私は誰も来ない、そしてバスも来ない大鳥居のバス停のベンチで、白い烏海山と虹のような空を見つめ続けていた。

追記 その後、1995年、1997年と2度、鳥海山が見えるあたりを歩いたのですが、天候にも恵まれず鳥海山を見ることができたのは1日だけ、この時のような空を見ることは2度とありませんでした。

次回は第25回「白い神、赤い神」(月山、湯殿山、山形県。1995年、夏)です。