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柴高の毎日

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『OKU NO HOSOMICHI』 第33回

2017-07-13 19:58:00 | 国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』
~A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)~

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA~HEISEI)

第33回「OKU NO HOSOMICHIサイドストーリーズ(1)」

国語科 副島勇夫

 今回はどうして『奥の細道』を歩くようになったのか、そのきっかけとなる話を記そうと思う。

 それは大学の1年生、20歳の初秋だった。前期試験が終了したことを理由に、友人たちと梅田で飲んでいた。その中の1人がすっかり酔いの回った顔で言った。「何かしたいな。人か聞いたら、何でおまえそんなことしてんねんと言われるようなこと。意味ないようで、時間の無駄のようで、後になってよかったなって思えること。何かないか。」

 彼の呼び名は「万蔵(まんぞう)」と言った。予備校時代から自分の名刺を配り、将来のため自分のための人脈作りに励む、学内の有名人だ。彼は後に大学を休学し、自転車で日本一周をし、台湾の大学で数か月生活し、インドで病気になり日本に送り返され、離島や山奥の分校の教師になり、今は消息不明であったが、どこかの小学校で偉くなっているらしい。

 彼は続けた。「歩こか。とりあえず歩こ。行き先は…和歌山。1日歩いたら着くやろ。徹夜ハイク。出発は明日の夕方の6時。梅田で飯食って出発や。」

 半ば強引な企画で、翌日、再度、梅田に集合した。参加者は万蔵の友人のK大学生が5人、私たちの大学からその兄弟も含めて7人の計12人だった。

 夕食をとり、しばらく休憩した後に出発。夕方の6時だった。目的地は南海和歌山市駅、85キロの道のりだ。平均的な歩く速さの時速4キロで歩いて20時間ちょっと。食事や休憩を入れて約24時間。到着は明日の夕方6時と見積もった。

 まず御堂筋を南下する。難波まで5キロ。夜7時。その後は国道26号線を歩く。和歌山までは一本道だ。快調だ。参加者は皆、話しながら、ガムや飴を食べ、遠足気分で歩いている。夜ということもあって不思議な高揚感があった。「奥の細道」を歩く原動力はこの高揚感だ。歩くうちに湧き上がる気持ちの高まり。むやみに大きな伸びをしたくなるような感じ。それは開放感なのかも知れないが、それを味わうために、後年、毎年歩いていた。

 話を20歳の頃に戻そう。私はこの時初めて大和川を越え堺市に入った。梅田から12から13キロ。まだ夜9時前だったと思う。皆元気で時速5キロペースだった。12人は少し距離を空けてはいたが、まだ全員が視界の中にあった。北摂中心の生活をしていた私にとって、仁徳陵や大泉緑地といった行き先を示す標示は新鮮で、大阪ではないような気分さえした。

 9キロ、約2時間で浜寺公園、高石市に入る。夜の11時だった。歩き出して5時間。集団はずいぶんばらけてしまい、視界に入るのは6、7人だった。携帯もない頃だ。はぐれたら自分で何とかしてほしい、とにかく26号線一本道だからというのが万蔵の言い分だったが、少し不安だった。参加者には友人の弟(高校生)もいた。未成年に何かあったら、自分たちの責任なのかなどと考えていた時、その弟くんの姉(彼女は私の同級生でこの徹夜ハイク唯一の女性参加者だった。)が大声で言った。「遅い。もっとペースをあげて。のんびりしてたら明日の終電に間に合わへんで。」

 それから私たちのペースは無理矢理あげられてしまった。高石市は30分で通過。時速6キロのハイペースだった。深夜になり、道ゆく人は他にはほとんどない。泉大津市、忠岡町を過ぎ岸和田市に入った頃には日がかわっていた。このあたりで何人かが音を上げはじめた。休憩も少なく、何よりペースが速い。しばらく休憩をとり、その後は元の4キロペースに落とすことにした。

 岸和田、貝塚の両市約9キロを過ぎた頃で夜中の3時を過ぎていた。横を暴走族の単車5、6台が声援とも威嚇ともつかない声をあげて通り過ぎていく。泉佐野市に入り夜が明けた。あたりに玉ねぎのにおいが漂う。泉州は玉ねぎの産地だということがつくづく実感される。朝食だというのに皆は玉ねぎラーメンを食べた。重たくなった胃を抱え歩き出すと、何人かが、ここでリタイアすると言い出した。南海電車の駅に向かう2人を見送り、しばらく歩くとバス停で寝ている3人の友人を見つけた。

 すっかりばらけていた集団をここで1つにしようと後続を待つことになった。1時間ほどが経ち2人がやって来た。聞くと2人岸和田でリタイアしたらしい。ここで総勢8人になった。午前10時を過ぎ、この後の行程と到着時間を計算すると残り30キロ弱、到着は夕方6時から8時の間だろうということになった。

 泉南市、阪南市を過ぎ大阪府の南端である岬町に入る。昼食をとり腰を上げると、立てない。足先から腰までがしびれたようで鈍い痛みがある。ようやく歩き出すと猛烈な眠気が押し寄せてきた。眠い。足だけが勝手に動き、頭の中は眠っていた。見ると眼下にみさき公園の遊園地が見える。8人は無理に会話をしながら歩いていた。雪山で「寝るな、今寝たら……」という感じだ。

 昼の3峙を過ぎ山道に入る。和歌山県との県境はもうすぐだ。名前は忘れたが峠を越え、和歌山県に入る。山道を下っていくと遠くに街が見える。足が痛い。膝がガクガクする。下りの方が辛かった。夕方になり、次第に暗くなると街に灯がともりはじめた。あと1、2時間で着くと思うとうれしかった。

 ここで小さなトラブルか起こる。このまま26号線を歩くと和歌山市駅を通り過ぎることがわかった。国道15号線に入ればよいそうなのだが、その道をまちがえ少し戻ることになった。8人のムードは悪くなり、誰がまちがえたのかと言い出すようになった。

 その時、万蔵が笑いながら言った。「ここで、そんなん、しょうもないって」なぜだか笑いがこみ上げてきた。道ゆく人にじろじろ見られたが、私たちはただ笑っていた。

 紀ノ川にかかる橋の上までたどり着くと向こう岸に駅らしきものか見える。ところが足が動かない。自分の体重が重く足が支えられず、うめき声が出た。あと少し、あと少しと思いながら、1つ1つ角を曲がり、人の波が向う方へと歩いていく。南海電鉄和歌山市駅到着は午後8時を少しまわっていた。大阪から和歌山、26時間26分。爆睡で、帰りの電車の記憶はない。

 後日、万蔵が私に言った。「おれ、チャリで日本一周するで。お前は何する。」「じゃあ、いつか『奥の細道』でも歩くわ。」それかきっかけである。

 次回は第34回、「夢の日付(那谷寺・永平寺 石川県・福井県 2003年夏)」です。







拡大 大阪府上空写真.jpg

『OKU NO HOSOMICHI』 第32回

2017-05-24 00:01:00 | 国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』
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1986 OKU NOHOSOMICHI(SHOWA~HEISEI)

第32回「平家物語と昭和の花咲爺さん」(倶利伽羅峠、富山県。2002年)

副島勇夫(国語科)



 今から300年以上前の元禄2年、俳人松尾芭蕉はどのような思いでこの峠を越えていたのだろう。越中と加賀、つまり今の富山県と石川県の境がこの倶利伽羅峠(くりからとうげ)だ。

 芭蕉がこの地を訪れる約500年前、源頼朝の挙兵に応じて兵を挙げた頼朝の従兄弟木曾義仲は3万の軍勢で陣を張り、この峠で平維盛率いる平家7万の大軍を待ち受けた。私が今歩いているこの標高277メートルの峠に計10万の兵たちが、息を潜めていたのかと思うと落ち着かなかった。800年以上経った今と比べ、芭蕉は300年分はこの兵たちの息づかいをより感じていたはずだ。しかし冒頭に記した芭蕉のこの峠に対する思いはそれだけの理由ではない。

 平家の総大将平清盛が「あっち死に」と呼ばれた熱病で没した時から一族の滅亡ははじまった。その前年に富士川で、水鳥の羽音に驚いて敗走した大失態は滅亡へのプロローグだったのだろう。清盛が没した2年後、木曽義仲はこの峠で「火牛の計」という奇策を用い、自軍の倍以上の平家軍を撃破する。それは数百頭の牛の角に焚松を縛りつけ、平家軍に向けて放つというもので、虚をつかれた平家の軍勢は谷底になだれ落ち、義仲の大勝利に終わった。

 その後、一気に京都に攻め寄せ、平家一門はあわてふためきながら都落ちし、一の谷、屋島の合戦を経て、壇の浦の合戦で1185年春、滅亡する。この峠で7万の平家軍が自分たちの半分以下の敵に屈した時、滅亡への歯車はさらに大きく動いたのだ。それを思うと、この木ばかりの山中の道は重苦しく感慨深いものがあった。芭蕉は何を思いこの道を歩いたのだろう。

 芭蕉は1694年に大坂(今の大阪)で客死したが、遺言でその墓は滋賀県大津市膳所の義仲寺にある。そして木曽義仲の墓に並んで眠っているのである。この寺の草庵である無名庵に芭蕉が滞在したのは「奥の細道」の旅の後だが、この峠を越える時、芭蕉は後の因縁を感じなかったのだろうか。それとも、もうすぐ金沢だという安堵感で一杯だったのだろうか。

 麓から1時間半ほどで峠の頂上に到着。かつて平維盛が布陣した猿ケ馬場は整備され公園のようになっており、そのブナ林の中に「源平古戦場猿ケ馬場」の碑が高く立つ。少し先に2頭の火牛の像まである。このあたりはのどかな雰囲気が漂う。腰を下ろしガイドブックを取り出す。





 この峠一帯は「加越の吉野山」と呼ばれる八重桜の名所でもあり、それは「昭和の花咲じいさん」こと高木勝己夫妻の25年にわたる努力の結果だという。1年に500本、計7000本の桜苗を植えて守り育てた。木曽義仲と昭和の花咲じいさんという取り合わせが面白かった。京都に攻め入った後のその無法な振舞いにより、同門の義経軍によって挙兵からわずか3年で滅ぼされた義仲と25年の地道な努力。その賜の7000本の桜の下に7万の平家の兵が眠る。平家一門の約20年の栄光。そういった数字的な対比や一致が不思議な縁を感じさせる。

 そういえば北海道か青森だったか忘れたか、ゴミ捨て場のような状態だった池を一人でコツコツと清掃し続けた結果、何年にもわたる努力が実り、ツルが飛来するようになったという話を聞いたことかある。桜といいツルといい、なかなか良い話だ。17年間で14回目のこの旅もあと数年で終点の岐阜県大垣に辿り着く。その時に何が待っているのか、どのような心境になるのか楽しみだ。

 長めの休憩を終え、ようやく腰を上げ出発する。桜の季節ではないのでどれがそうなのかわからないが、心なしか緑が柔かく、夏山の深い緑とは異なるようだ。まったく人に会わない、時折、車が通り過ぎていくが、ただそれだけのことだ。東北地方を歩いていた頃はよく対向車や追い越していく車のドライバー、特にトラックが手を振ったり、声をかけたりしてくれたものだ。福島、宮城、山形あたりで特にそう感じた。

 それが南下し、西に向うにつれて、ほとんどなくなったように思う。時代が変わったのかも知れないか、この旅の最大の魅力である「人」との出会いは東北地方がハイライトだったのだろう。今はひたすらゴールに向けての旅といった感じで、それか少し寂しい。終わることのない旅のように感じていたあの頃に比べ、今は確実に終盤、帰路なのだ。

 本当にクマと出会う恐怖を感じながら山道を歩いた宮城や山形、この富山でも一応クマよけに木や缶を叩いて歩きはするが緊張感はあまりない。しかし、「クマに注意」の看板がここでもあるように、人間の身勝手な生態系の破壊によりクマは里に下りるようになってきたのだ。用心するに越したことはない。

 1時間ほどでJR倶利伽羅駅を囲む小さな集落に到着。鄙びた小さな無人駅だ。勝手にホームに入ってみるが誰もいない。蝉の声しか聞こえない駅。ベンチで10分ほど横になる。そう言えば今までもいろいろな所で腰を下ろし、いろいろな所でごろりと横になった。川の堤防、海岸、山の中、無人駅。ゴールか近づくにつれ、そういう場所もなくなっていく。

 今回の旅もこの倶利伽羅峠越えの1日だけが人目の少ない道であって、残りは街または町の道なのだ。店も自販機もふんだんにある何も困ることのない、それでいて面白味のない道。山中で草をかき分け、ヒルに血を吸われた道や3時間誰にも会わなかった道、どこからか現れた2匹の犬とひと山越えた道やクマに会った道がとても懐しく思われた。倶利伽羅を過ぎると津幡、そして金沢と街から都市へと道からの風景も姿を変えていく。

 芭蕉は金沢に10日間滞在している。加賀百万石の城下町で兼六園はじめ見るべきところの多い都市だが、芭蕉の頃は兼六園も殿様だけのものであり、この名園を見たはずもない。それでは芭蕉に代わってのんびり見てやろう。奥の細道らしい旅はまた来年、今回は観光でまったりしよう。遠くにかすむ金沢の街を眺め、そんなことを企みながら山道を下っていった。

 金沢城 撮影:筆者



 次回は、第33回「番外編「OKU NO HOSOMICHI」サイドストーリー」です。

『OKU NO HOSOMICHI』 第31回

2017-05-23 00:01:00 | 国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』
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1986 OKU NOHOSOMICHI(SHOWA~HEISEI)

第31回「「イチローの夏、日本の夏」(親不知、市振、新潟県。2001年 夏)

副島勇夫(国語科)



 今となってみれば、それが前任校での最後の夏だった。6月末から体調を崩した私は、いつまでたっても治らないまま通院を続け、1か月近く経った頃には薬も合わなかったせいか1日中、身体がフラフラとした。13回目の「奥の細道」の旅の出発予定日まであと数日だった。医者は反対したが、結局、紹介状のようなものを書いてもらい、悪化すればそれを旅先の医者に見せるようにと言われた。思い出しても、あの頃はつらかった。

 前年の旅の到達地点から始まる旅というのは楽しいものだ。その土地の小さな変化を見つけることも、変わらない町の様子を見ることも嬉しいものだ。大阪での日常の生活での自分と、もうすでに十数年にもなるこの旅での自分という二重の時を過ごしているような感じが、解放感を与えてくれるとともに、旅先では旅を始めた頃の20代の自分のままでいるような錯覚に浸らせてくれる。
 
 この旅に出ると、夏の大阪の暑さと湿度、特に旅先との湿度の違いか強く感じられる。到着して駅や空港を出たときに感じる湿度の違い、その少しサラリとした感じによって旅の始まりを実感する。今年も戻って来たという思いが湧き上がる。ところが、今回は前述のフラフラ感が相変わらずつきまとい、大阪での日常を引き摺ったまま歩き出すことになった。

 新潟県の西部に位置する糸魚川を昼過ぎに出発した。歩き始めて30分もしないうちに、自分が揺れているのを感じた。私はたまらず座りこみ、10分ほどして一軒の食堂に入った。私の気分はすっかり萎えていた。テレビでは衛星放送のメジャーリーグ中継が放映されていた。快進撃を続けるシアトル・マリナーズの試合だった。一杯のかき氷を食べ終わる頃にイチローの打席が回ってきた。客席からは日本式のイチローコールが聞こえる。

 イチローのオリックス時代のエピソードの一つに「究極の空振り」というのがある。投手の投げたボールが狙い球と異なることを瞬時に察知したイチローは、始めてしまったスイングに微妙な修正を加え、ボールに当たらないよう、つまり凡打に終わらないようバッ卜の軌道を変え、あえて空振りをしたというものである。そして空振りをしたイチローは確かにニヤリと笑っていた。

 人は誤りに気づきながらも惰性で続けてしまうことが時としてあるが、イチローのこの判断力と技術はさすがだった。この年アメリカン・リーグの最優秀選手、首位打者、盗塁王、新人王など各賞を総ナメにしたイチローも、この頃は調子が下降気味で凡打を繰り返している。平凡な内野ゴロに終わったのを見とどけると私は店を出た。

 さあどうするか。イチローのように技術はいらないが、判断はしなければならなかった。私はこの日は歩かないことにした。ムリをせず、明日もダメなら大阪に帰ろうと思った。宿を探し、部屋に入るなり布団を敷いて寝た。目が覚めると夕方の6時。ニュースではイチローがこの日の最終打席でホームランを打ったことを告げていた。

 旅の2日目。この日は朝から気分も良く、よしと思って出発した。数日前から薬を飲んでいないことも良かったのだ。やはり合っていなかったようだ。約20キロ先の、旧北陸道最大の難所、「親不知(おやしらず)」を目指し歩き始める。水が滴るほど濡らしたタオルを首に巻き、いつもより休憩を多く1時間歩いては10分休むというペースで歩くと、吹く風も心地好く感じられた。天気は快晴。ようやく旅が始まった気分だ。青海町に入り、町並みか途切れ、道が登りになる。いよいよ天険「親不知」が近づいているようだった。

 この辺りから市振までの約15キロの海岸を親不知・子不知(おやしらず・こしらず)という。北アルプスの北端が、この辺りでそのまま急激に日本海に落ち込み、高さ400~500メートルの断崖絶壁を作っている。旧北陸道の最大の難所で、明治16年(1883年)の国道開通までは、この断崖の下のわずかな砂浜を人々は波を避けながら通っていた。所々にある洞窟が天然の避難所になり、大懐、小懐、大穴、小穴などの名が付けられている。

 大懐から大穴までは最も危険な所(天険)で、走り抜けないと波にさらわれることから、長走りと呼ばれている。波打ち際を通る時、親は子を忘れ、子は親を見る余裕もなかったことから「親不知・子不知」の名がついたとも言われる。文字通りの命がけの旅であった。芭蕉もこの難所を越えて、疲れきったことを記している。



 現在は海の侵食により、旧街道跡は寸断されており、遥か下に海を見下ろす国道を歩くしかなかった。わずかにスピードを落とすだけで通っていくトラックに注意しながら、歩道もない道を歩く。右手は遥か下に日本海、青い夏の海だった。左はというより歩いている場所そのものが山の中腹だった。洞門と呼ばれる、海側の壁がスリットになった落石よけのトンネルが連続する。後ろから轟音がするたびに立ち止まり、目で確認しながらトラックをやり過ごす。日陰なので涼しいのだが、歩くペースは落ちてしまった。糸魚川を出発して3時間ほどが過ぎた頃、目の前に絶景が広がる。小さな展望広場があり、休憩を長めに取る。





 親不知の山並が日本海に落ち込んでいる様子がよくわかる。潮の満ち引きの加減もあるのだろうが、波打ち際といっても幅などほとんどない。満ち潮の時や海が荒れた時などは通れるはずもなく、冬など何日も足留めを余儀なくされたのも当然だと思われる。新潟から富山の間にこのような道とも呼べない道があり、その10数キロでかつて多くの人が命を落としている。そのような状態がわずか120年前まで続いていた。移動が多く交通の発達した現代では考えられないことだが、この場所でこの眺めを見ていると充分に実感できた。

 20分ほど休憩したあと、再び洞門が続く道を歩く。相変わらず、右下にはどこまでも続く日本海。ダラダラと続く登りを20分ほど行くとトンネルが現われ、その脇に「親不知観光ホテル」があった。周辺の地図をもらいにフロントに行くと、部屋が一つ空いたと言うので、無理をせず一泊することにした。この辺りでは下の海まで下りることができる。

 10分ほどかけて階段を下りると砂浜とも呼べない石だらけの小さな浜があり、かつての旅の苦しさが想像できる。波と岩で西に行くことはできなかった。かつては潮が引いている時に歩いたのだろうか、波によっては海に引き摺りこまれる恐怖が3、4時間続く、所々の洞窟以外は岩壁ばかりで逃げ場はない。長さ50メートルほどのこの浜でさえ満潮時と荒天の時は危険なのだ。

 試しに西に続く岩壁を登ってみる。フナムシの群れが一斉に逃げていく。それは我慢できたとしても、長時間岩にへばりついていられそうにない、波が来れば落とされ海に引き摺りこまれるだろう。街道と呼べるようなものでないことは明らかだった。再び階段を登り、ホテルに戻って展望風呂に入る。名前の割には小さなホテルだが見晴らしは良い。まだ明るい時間の誰もいない風呂は気持ちが良かった。

 翌日、ホテルの方に教えて頂いた国道から下って海沿いの道を行くルートを歩く。本当はここは立入禁止なのだ。危険だというのではなく、護岸工事中の工事現場のためであった。そのためかつての北陸道の面影もない。ただ海が近く横を通る車の心配がないことが長所だった。その道の終点らしいところから再び登って国道に戻ると正面に1本の松の木が見えた。小さな町並みの入口を示すかのように立っていた。これが市振の町の東端にある「海道の松」だった。かつて親不知の難所をやっとの思いで通り抜けた旅人が安堵し見上げた松の木だ。芭蕉も恐らくそのような心境でこの木の下に立ったことだろう。それから312年、すっかり元気を取り戻した私は、ようやく夏が始まったという思いでこの老木を見上げていた。



 次回は、第32回「平家物語と昭和の花咲爺さん」(倶利伽羅峠、富山県。2002年 夏)です。

『OKU NO HOSOMICHI』 第30回

2017-03-21 00:05:00 | 国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』
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1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA~HEISEI)

第30回「「道ならぬ恋の聖地、トンネル駅の村」(青海川、筒石 新潟県。2000年 夏)

副島勇夫(国語科)

 「春の木漏れ日の中で 君の優しさに埋もれていた僕は 弱虫だったんだよね……」

 今から25年ほど前、森田童子の歌う『僕たちの失敗』をリバイバルヒットさせたTBSドラマ「高校教師」は、主演の真田広之、桜井幸子を中心に、いくつかの禁断の愛を描いて茶の間の話題を集めた。当時としてはなかなか衝撃的な内容で、放送翌日は授業でもその話題になった。

 そのドラマの最終回で死を決意した2人が訪れるある駅は、ホームの向こうがすぐ冬の日本海で白い波が寒々しく立ち、印象的だった。レンタルDVD店に行って、「高校教師」第4巻のパッケージを見れば、裏側にこのシーンが載っている。この駅は新潟県の西部にあるJR青海川(おうめがわ)駅といい、日本一海に近いことでも有名な無人駅だ。(ちなみに日本一海に近いとアピールしている駅は多数ある。)

 2000年7月22日、奥の細道を歩く旅の第12回目。前年の到達地出雲崎を出発し柏崎で一泊。歩き出して2日目のこの日、途中雨に降られながら国道を歩き、2時間もしないうちに青海川駅を限下に見下ろす高台に着いた。ここから駅までの近道を下りていく。

[photo library]フリー写真より 現在の青海川駅



 本当に海の横であることがよくわかる。駅の右手、つまり北側は小さな狭い海水浴場。海の家も売店さえもない、地元の人しか来ないような砂浜だ。左手は駅のすぐ近くまで山が迫り、その斜面に家がへばりつくように建っている。落ちそうと言いたいぐらいだ。山が入り組み、谷のようなところに集落がある。小さな集落だ。ロケの時はたいへんな騒ぎだっただろう。小さな駅だがホームは2本ある。

 10分ほどかかって駅舎の前に出た。振り返り見上げると、今下りてきた細い山道の上に国道がある。普通は同一平面に並ぶことの多い駅と民家と国道が、下から順にあるという奇妙な風景だ。駅には誰もいない。無人駅なので勝手に改札を抜け、離れた陸橋を渡るのも面倒なので線路に下りて海側のホームに行く。その下を覗くと真下に砂浜。天気が悪いせいもあって5、6人の海水浴客しかいない。山側のホームに戻り腰を下ろす。

 ドラマの場面は思い出せなかった。主演の二人がこのホームに立っていたようなという程度の記憶だ。駅舎に戻り中を見ると、電気も付かない薄暗い中に1冊の自由帳か置かれている。無人駅にはこの手のものがよくある。パラパラとめくると、やはりドラマのことに触れた記述が多い。

 それにしてもこの寂れた無人駅に実に多くの男女か訪れていることかわかる。夕陽の名所にもなっているようで、夕陽を見に来ました的な内容も目立つ。そんな中に48歳で会社を辞めた男性が若い女性とここに来て、明日から海外に逃げる。これからの人生などどうなるかも、どうしたいかも考えたくないという記述。他にも詳しくは記せないようなドロドロとした人間関係がいくつもいくつも記されている。どうやらここはあのドラマ以降、道ならぬ恋の聖地になっているようだ。

 学校のブログなので、あえて記さない、記せないが、ドラマの中の主演2人の関係もいわく付きだった。そのためこの場所は秘められた関係を持つ者を引き寄せるようだ。







 そして、この自由帳を見ていると気になる記述が何箇所も出てくる。ノートの片隅に、記された文の途中に、「あの虫、何だ」とか「虫、ムシ」の文字。ページをめくると、また「あの虫」。少し気持ち悪くなって振り返ると一匹の蛾が目の前を過る。駅舎の中を見回すと壁のいたる所に薄茶色のマユのようなものや、おそらくそれが潰れた跡がある。そして天井を見上げると、いるわいるわという感じで3~5センチぐらいの蛾が何十匹といる。これがアメリカのドラマ「Xファイル」なら、私は血液を全て吸い取られ、数時間後にはモルダーとスカリー(登場人物)がこの小さな無人駅に到着するはずだ。ノートの「あの虫」とはきっとこの蛾のことなのだろう。恋の聖地は蛾のサンクチュアリでもあるようだ。

 興がそがれた私はこの場所を発つことにした。

 それから2日後の24日、私は新潟県最西部の街である糸魚川を目指して歩いていた。しかし、この日も少し寄り道があった。それはトンネル内に駅があるというJR筒石駅を見ることだった。どうも今回の旅は駅に縁があるようだ。海沿いの国道8号線は歩道も狭く、トラックが猛スピードで横を擦り抜け危ないため、そこから3、4メートル高い自転車道を歩くことにした。左側はすぐ山で、右下に国道、さらに下は日本海だ。天気は晴れ。それほど暑くもなく快適だった。

 人気のない場所が続いた後、数軒の民家が現れたと思うと次第にその数を増し、やや大きな集落になった。自転車道はいつの間にか民家の間の道になっている。この辺りか筒石のようだ。私のいる所は高台で、見下ろすと川沿いに3階建ての民家がまるで温泉宿のようにびっしりと並んでいる。その一方で一番下の国道と同じ高さに一層目の民家か建ち、そこから数メートル高い所に二層目の民家、そして私がいる辺りが三層目で小さなスーパー、郵便局などがあり、保育園からは子供の声が聞こえてくる。

 当たり前のことだが、そこには生活があった。小さな村だ。人通りもほとんどない。小さな寺の見晴らしの良い境内で休憩する。山の方を見上げるとさらに民家が建ち並んでいる。つまり大きな段々畑に家か建ち並んでいるようだった。

 日本海側を歩いているとこういった海と山の間のわずかな平地に、肩を寄せ合うような集落を多く見かける。日本海からの風と雪、冬の厳しさが想像される。周囲を見回すが目当ての駅らしいものはない。トンネル駅なので線路など見えないだろうとは思っていたか、駅がありそうな気配さえもない。きっと山側にあるのだろうと上り坂を山へ山へと進んでいくことにした。

 そのうちに小学校が現れ、ますます民家はなくなっていく。見上げると左右の山と山の間を空中に道路が架かっている。それは鉄道ではなく高速道路だった。駅はさらに奥のようだ。左側の谷の向こうの山肌には、むき出しの巨大な地層が見える。この道は絶えず上り坂でほとんど山道と言っても良かった。歩くこと20分ほどして「筒石駅(JRトンネル駅)」の看板に出くわす。



 そこから左に曲がると少し広い空間があり、山の斜面にへばりつくように駅舎がある。小さな待合室を駅長さんと思しき人が掃除している。無人駅だろうと思っていたが、やはりこの駅が無人では問題も多いのだろう。中を覗くと後ろの山に向かって暗い通路が口を開けている。私は入場券で中に入り、薄暗い通路を下りていった。しばらく行くと突然ホームに出た。ホームは幅か狭く、暗かった。大阪の地下鉄の駅をイメージしてはダメだ。まるで鍾乳洞や炭坑の中のような感じだ。不思議な駅だ。今か何時なのか、まるでわからない。この駅を毎日利用し生活している人々がいるということが何よりも不思議だった。私はその異空間を後にして筒石の集落への道を下りながら考えていた。



 大阪に比べここでの生活は何百倍も不便に違いない。電車やバスの本数、駅からの距離、平地の少なさ、店の数、厳しい冬。何もないと言えば何もない集落。私たちの中の欲求はこういった場所を否定しながら増大していく。我慢できない。面倒だ。その言葉とともに自分の中で壊れていくもの。我慢の許容量の変化とともに変わっていく社会。せめて自分は不便を当たり前と思うようにしよう。何も起こらない平凡な時の流れをありがたく思うようにしよう。漱石の頃から山路は人を考える生き物にするようだ。擦れ違うクラブ帰りの高校生の表情はやはり晴れやかだった。

 次回は第31回「イチローの夏、日本の夏」(親不知、市振、新潟県。2001年、夏)です。



『OKU NO HOSOMICHI』 第29回

2017-03-20 13:10:00 | 国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』
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1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA~HEISEI)

第29回「弥彦祭りの夜、新潟で一番の景色」(弥彦、出雲崎、新潟県。1999年 夏)

副島勇夫(国語科)

 「お父さんは今、山の上にいます。弥彦山。海が見えます。船はいません。青と黒と緑の混ざったような色。天気は晴れてる。紫陽花がいっぱい咲いていて、後ろを見ると山の下の方に田んぼがいっぱいで、その中に家とか学校とか駅が見える。え、弥彦山。や・ひ・こ……」



 この年の旅から携帯電話を持つようになった。当時3歳の娘が電話で話したいと言うので、なるべく文明の利器は持たないように、少しでも松尾芭蕉の気分に近づきたいという考えを曲げて持って来たのだった。

 弥彦山



 奥の細道踏破の旅は、この年で11回目を迎えた。弥彦山は638メートルの海に面した山で、南には越後平野に点在する吉田、巻、燕、三条といった町の様子が一望できる。芭蕉は登らなかったようだが、来た道行く道を上から眺めてみようと登ってみた。そして山頂で休憩しているところに着メロが鳴ったのだった。当然圏外だろうと思っていただけに驚いたが、やはり山頂だけに入りやすいのかと感心した。風が心地よい。日本海を眺めながら娘と話しているのが不思議だった。弥彦山の麓には越後の国の一宮である弥彦神社がある。その神社の御神体がこの山なのである。そしてこの日、7月25日は弥彦祭りだった。

 祭りの当日にそれほど大きくない町で宿探しをするのはひと苦労だ。何軒か尋ねたあげく、ようやく旅館の離れならと言われ、部屋に向かうとプレハブ小屋の不思議な建物だった。20数キロ歩いた上に山まで登ったので、早速風呂に入り、夕食を食べた。部屋に戻り、何となくウトウトとしながら松坂大輔(今や見る影もないが)の初オールスターゲームを観ていた。時計を見ると午後8時前だ。

 その時だった。ドーンという轟音とともに部屋が揺れた。次いでバーンという音。慌てて窓を開けると旅館に隣接する公園で花火を打ち上げている。続いて2発目。部屋の机の上のコップが震動で音を立てる。部屋から飛び出し裏口から路地へ出る。3発目。頭上一面の花火。思わず笑ってしまった。人は予想外の事に出会うと笑うものである。それが楽しいことなら尚更だ。

 私はそのまま引き寄せられるように祭りの中心まで歩いていった。かろうじて部屋には鍵をかけたが、フロントも通らず宿の下駄履きのままだ。カランコロンと下駄を鳴らしながら車輌通行禁止となった道の真ん中を歩く。道の左右はシートを敷いた人で埋まっている。旅館の窓、民家の屋根の上の人々が皆うれしそうだ。屋台でイカ焼きを買い、路上に座り込んで花火見物をする。一発一発の大型花火を、町内の会社や店が費用を出して打ち上げている。どこの何という団体による花火なのかということが放送で一発ずつ説明される。

 30分ほど夜空を見上げていると、山の方からたいまつの行列が来たので、私は腰を上げた。ちょうどいい。宿にカメラを取りに帰ろうと思った。ところが宿の近くまで来て、ポケットに入れたはずの部屋の鍵がないことに気がついた。部屋の名前が記されたプラスチックの棒がついた、よくあるタイプのものだ。落とせばわかりそうなものだが、それに気づかないのが祭りの夜だ。路上に座りこんでいたときに滑り落ちたのかも知れない。

 急いでもとの場所に戻ったが、たいまつの行列が通り過ぎた後、再びレジャーシートが敷かれ大勢の人が座っている。私は仕方なく事情を告げ、20人ぐらいの人にシートの下を見てもらった。こういう文章の常として、皆、心安く調べてくれたといいたいところだが、実際は露骨に嫌な顔をされた。「え-っ。弁当広げたのに。」とか言われてしまった。恥ずかしく情けなかった。仕方ない、持ち出した方が悪いのだ。

 鍵は出て来ず、私は宿に戻り頭を下げた。すると、宿の主人が言うには鍵の落とし物の連絡があり、今バイトの学生を祭りの本部まで取りに行かせているとのことだった。宿の主人は丁寧な口調でそう言ったが、目は冷ややかだった。ホッとしたと同時に反省した。こういうことになるから横着は禁物だ。見つかってよかった。そうでなければ何人もの人が嫌な思いをした。

 今度はフロントに鍵を預けて祭りに戻る。花火は9時前に終わり、次いで灯籠祭りが始まっていた。1000年続くこの神事は、男たちが歌いながら、燈篭と呼ばれる花や低木で飾られた台を差し上げ、回し、練り歩くというものだ。その灯籠が歌声とともに次々とやって来る。若い者も年配の者も一緒になり、熱気と酒で真っ赤になって見物人にいいところを見せようとする。伝統あるそれでいて身内意識の高い祭りだ。



 周囲から掛け声か掛かり、担ぎ手の男たちかそれに応える。「若い者にはまだまだ負けん」と「まあ自分たち若い者に任せて少しは気を抜いて」という世代ごとの思いがぶつかり合うこともなく収まっている。男たちの「よーいとこ、よーいとこだー。」の歌声か心地よく耳に残る。ふと見ると通りの反対側に宿の主人かいる。目が合うと笑って手を上げて下さった。うれしかった。その目が「いい祭りでしょう」と語りているようだった。

 弥彦祭りの日から2日後、私は出雲崎を目指して歩いていた。この日は朝から異様な暑さで、宿を出た時から空気は淀んでいた。ものすごい気温になりそうだ。前年の日射病のことを思い出した。しかし、この日の行程はわずか15キロと今回の旅の中で最短である。1日平均25キロを昼食、休憩含めて7、8時聞で歩くのが、この旅の基本パターンなので、15キロは楽勝だった。

 昼頃には出雲崎に着く。その後はのんびりとこの古い港町を味わおうという狙いなのだ。それにしても暑かった。小さな海水浴場を時々右手に見ながら海岸線を歩く。平日ということで人は少ない。快晴。海の家の白い柱に掛けられたラジオが、今日の予想最高気温が38度以上であることを告げていた。暑いはずだった。それにしても38度以上とはどういうことなのだろう。そもそもそういう予報はありなのだろうか。38度なのか40度なのか、はっきりしてほしい。一番暑い時間帯までに着こうとの思いで先を急いだ。

 昼を過ぎた頃、出雲崎町に入る。出雲崎は日本海と背後の低い山に挟まれた細長い小さな町だ。その山を越えるとJRの駅があり、その周辺は現代の小さな町という感じだが、海沿いの方は芭蕉が訪れた往時を偲ばせる。古い木造りの二階家か道の両側を埋める町並みになっている。当時は佐渡ヶ島への渡船場として賑わっていたのだが、今ではすっかり鄙びた田舎町だ。



 ところがその鄙びた感じに、狭い道に、背後に迫る低い山の中腹に町を見下ろすようにある社寺に、何とも言えぬ風情があるのだ。またこの町は芭蔦か通過した約70年後に生を受けた、良寛和尚生誕の地として有名である。町の中ほどの生家跡に小さな堂が建ち、その裏に日本海を見つめて良寛坐像がたたずむ。それほど古い像ではないだろうが、あまり大きくないのがなかなか良い。このまま何百年も海を見つめていてほしいものだ。どこか高い所からこの小さな町を眺めてみたいと思い、急坂を登り裏山の頂上付近の良寛記念館を目指す。そこには夕日の丘公園があり、日本海を見下ろす眺めは新潟一だと何かの観光案内で読んだことかあった。





 記念館から木の生い茂る丘を蜂に追われながら登る。うねうねとした道を進んでいくと突然目の前が開け、公園の遊具のような、山頂から突き出た見晴らし台がある。登ると目の前を遮るものは何もなく、空中に投げ出されたような感じである。眼下に薄く伸びたような町並み。黒を基調とした屋根瓦の二階家。良寛堂が小さく見える。狭い道。そしてその向こうにどこまでも広がる日本海。思わず声か出る。これこそ新潟一の眺めだ。町が鄙びているからまた良い。

 電話をしようかと携帯を出すと圏外。でも、まあいいか。これは電話で伝えても意味かない。いつか自分の目で見るべき眺めなのだ。「お前が3歳の夏、お父さんはこの眺めを見せたい」と思った。そんな話をしながら再びこの場所に立ちたいものだ。そう思い見つめる紺碧の海の向うで、夏の霞の中から佐渡ヶ島が姿を現わしはじめていた。

 次回は第30回「道ならぬ恋の聖地、トンネル駅の村」(柏崎、青海川、筒石 新潟県。2000年 夏)です。