THE RECKLESS MAN*

過ぎ行く時~後悔は少なめなMY LIFE を送ることをモットーに、日々、テキトーな日常を書き留めています。

コンタクトフォームより~......((8-(ノ ゜ρ゜)ノ カタカタカタ--

2013年09月19日 | 日記

こんばんは!今日も過ごしやすい一日でした。日中は、相変わらずほどほどに暑かったですが湿度が低くなったので何とかなりますネ。さて、今日は我がチームのホームページを見てくれて、『一緒に練習させて下さい!』って言うヤングマンからメールを頂きました。ヤッタぜ~!.+:。(`∇´●)b


メールからは、やる気満々!バレーボールが大好きなのが『ひしひし』と伝わる感じで、とても好感もてました。とにかく『おっさん化』が進む我がチーム、若い人材が入ることでチームが活性化されるのはサイコーに嬉しいこと、とくに『やる気のある若者』ってのは万々歳だ!


そんな感じで、早速こちらから返信メールを送り少しやりとりをしました。その彼は、聴覚障害者なのだが、バレーボールは7歳の頃から現在まで20年間やっているらしく、いまだバレーボールへの情熱はメラメラと燃え盛ってるらしい~Σd(-`ω´-〃)


3人兄妹で、姉と妹は東九州龍谷で2人共全国大会で優勝しているバレーボール兄妹とのこと、すごいねぇ~!そんな、兄妹の真ん中の男の子、耳が不自由らしいけど自然と期待しちゃいます。(o^ω^o)


本人は、ろう者のビーチバレー(デフリンピック英語: Deaflympics)は、4年に1度、世界規模で行われる聴覚障害者のための総合スポーツ競技大会であり、国際ろう者スポーツ委員会(ICSD、CISS)が主催する障害者スポーツにおける最初の国際競技大会である。


夏季大会と冬季大会があり、夏季大会は1924年フランスで、冬季大会は1949年オーストリアにおいて始まった。設立当初は国際ろう者競技大会という名称であったが、1967年世界ろう者競技大会英語: World Games of the Deaf)に名称変更、さらに国際オリンピック委員会(IOC)の承認を得て、2001年より現名称となった。


なお、国際オリンピック委員会が「オリンピック」という名称の使用を許可しているのは、デフリンピック(Deaflympics)のほかに、パラリンピック(Paralympics)と、スペシャルオリンピックス(Special Olympics))の日本代表を目指し、つい最近まで本格的にプレーしていたらしいがそれを辞め、インドアのバレーボールチームを捜していて家のチームのホームページにヒットしたようだ。


しかし、視聴覚障害の人とバレーボールをやるのは始めてなので、不安がないと言えばウソになりますが~そこは、コミュニケーション能力の1番高いキャプテンのオレの見せ所!頑張ってうまくやってやりますよ~!.+:。(`∇´●)b


『その人の立場に立って考える・想像する』ってことが出来れば、自然とコミュニケーションはとれるとオレは思って今までやって来てるんだけど、あまい?そんなことないぜ!上手くやれるさ!しっかりな、キャプテン!!(*>o


ってなことで、ブログを読んだチームメイトたち、今週の土曜日に彼が来るのでよろしくお願いしまぜ~!!ついでに、今日のオレのジムトレ情報~エアロバイクを1時間、JYOBAを10分、鉄アレイで肩のトレーニングを5分とストレッチ、サウナに水風呂で終了~!┐(´-`)┌ フッー。

最近、水風呂に浸かっているとき100数えるんだけど、今は亡き、おばあちゃんを想い出すんだよなぁ…おっかないけど、優しかった?どっちなんだい!?


おばあちゃんの家に泊まって、おばあちゃんと風呂に入ると身体を洗ってもらったあとは、湯船にしっかり肩まで浸かって100数えてからじゃないと風呂を出してくれないんだよね~だから数かぞえてると子供のときのこと~おばあちゃんのこと想い出すんだよな~(´-ω-`) シミジミ。


そうそう!これが、昨日、生まれた宍倉家の子供のお写真で~す!!さすがに、しわくちゃで猿みたいですね!⊂((〃/⊥\〃))⊃ウキャ♪



Congratulations having your new baby!

2013年09月18日 | 日記

こんばんは!今日は、台風一過でとても透きとおった空が印象的な一日でしたね~(o^ω^o) さて、先ずは今日、お目出度いことがありました!先日、日曜日の練習のあとに飲みに行った、宍倉の上さんの『幸子』が無事出産いたしましたーっ!男児です!良かったね~\(^o^)/ヤッター!

 

宍倉家は、上に娘のキヨカ3歳が居ますので、上手いこと生み分けたな~(*´∀`*)。うちのチームの仲間の子供は、2人兄妹が多く両方とも男・女ってのが少ないな~?確か?Σ(  ̄□ ̄;)

 

Y家~男・女、M家~女、H家~男・女、T家~男・女、A家~女・男、I家~男・女、IT家~女、O家~女・女、N家~女、K家~女・男、S家~女・男、SM家~男・女、NH家~男・男、H家~女、HR家~女・男、Y家~女、そして今回出産した宍倉家を入れると、女17-男12になりますね!こんな小さなコミュニティでも、女子が圧倒的に多いのがわかります。

 

以前、テレビで観たんですがDNAの性質上男子が地球上から消滅するって聴いてびっくりした、それはこれらが起因するからなのです。性染色体とは性別を決める染色体で、2つのペアから成り立ち、両親から1つずつ受け取る仕組みになっている。この染色体にはXとYの2種類があり、XXなら女性、XYは男性と、組み合わせによって性別が決まるのだ。

 

XとYにはもともとは同じ数の遺伝子があり、大きさも同じだったのだが、Xは1,098個の遺伝子を持っているのに対し、Yの遺伝子はだんだんと減り、現在はたったの78個しかない。

 

中身である遺伝子が14分の1程度にまで減ったのに合わせ、Yは大きさも圧倒的に小さくなってしまった。このまま減り続ければ、Y自体が消えてしまう日が必ず来るのだ。

 

1億6,000万年前の遺伝子は約1,000個もあったことから、現在までにおよそ100万年ごとに3個~6個が消えた計算になる。このままのペースが続くとすれば、残る78個は2,600万年~1,300万年で消えてしまうことがわかる。ただし「減るペースが変わらなければ」が前提で、年数は単純な引き算で求めた結果に過ぎない。

 

オーストラリア国立大学のグレーブス博士が、Y染色体の遺伝子が今日までどのような経緯で減っていったのか、さまざまなケースを想定してシミュレーションをおこなったところ、Y染色体は加速度的に減り、完全になくなるのは500万年~600万年後になるという結果がでた。

 

染色体が加速度的に減るのはなぜか?理由は2つあり、まずYには機能しない遺伝子が多くありとても不安定だからだ。使われていない要素は退化するのが摂理で、極端にいえば、来週には世界のどこかでなくなっていても不思議ではないという。

 

もう一つの理由は、Xは父から娘または母から息子と、性別をまたいで遺伝される可能性があるのに対し、Yは父から息子だけのパターンしかないため変化に乏しい。

 

自分と異なるタイプの免疫をもらった方が丈夫になるのと同じ理屈で、男から男にだけ伝えられ続けたYは弱く、コピーミスが多発していたのだ。Y染色体の消失は男性の消滅を意味する。そんな危なっかしいY染色体に、人類は未来を託すしかないのだろうか?。

 

すでにY染色体を失った動物も実在する。沖縄諸島に生息し、特別天然記念物に指定されている絶滅危惧(きぐ)種・トゲネズミだ。からだを覆う毛の一部がトゲのようになっているのが名前の由来だが、天敵の少ない環境に生息していたため、ハリネズミのような強い防御力は持たない。

 

奄美大島と徳之島にいるトゲネズミには、なんと200万年以上前からY染色体がない。みんなメスならどうして絶滅しないの?と思うのが当然なのだが、不思議なことにオスは存在する。なぜ?と問われても、他の遺伝子が補っていること以外は、はっきりとしたメカニズムはいまだに解明されていない。

 

本来Yにあるはずの遺伝子がXに存在しているなど、少しずつ解き明かされてはいるが、それでもYなしでオスが生まれる答えには到達していない。執念 なのか科学なのか、はっきりさせたいところだが、なんといっても絶滅危惧種の天然記念物だけに、研究したくても制約が多いのが一因だ。しかし、解明されていないながらも、Y染色体の消滅=男性の消滅とは限らないと言うことで、ひとまずは安心なのかな?。

 

それから、日曜日に居酒屋で宍倉夫婦と話してたら『名前が決まってない!』とのことでしたので、9月17日生まれの男児を調べてみたら、新日本プロレスの蝶野正洋、お笑い芸人の~なかやまきんに君などがいたので、たくましく育てたいのならどうでしょう?参考にして見て下さい!.+:。(`∇´●)b

 

今日の日~9月17日の『おめでとう』を込めて、夕方、舎人公園に行って宍倉家の長男が生まれた日の『夕焼け空』を撮ってきましたので、それをオレからのプレゼントにしたいと思います。(*゜▽゜ノノ゛☆パチパチ

 

あ、そして~オレは今日も、しっかりジムトレしてきましたぜ!『継続は力也』~宍倉の息子がおっきくなっても『まっちゃんは、格好いいね!』って言われてみせるぜ~(^o^)v

 

 

 

 


退屈『万太郎』~台風一過ヾ(*´д`*)ノシ

2013年09月16日 | 日記

Good Twilight Zone? 適当な英語でごめんなし~!週末、金曜日から結構充実した日々が続いていたのですが、敬老の日の今日を含んだ3連休の最終日~台風18号のおかげでとっても退屈な日になってしまいました…。

朝から、大雨と強風で目が覚めNHKの『あまちゃん』を何となく観る。その後は、日曜日に録り貯めた番組を観て洗濯物をしていただけの一日になってしまいましたぜ~(-.-;)~ん

昨日の練習は、野原、蓑島、木村 、林、佐藤、野中 、宍倉、長谷部、松下の9人で7時~9時までみっちりやりました。長谷部は練習に来たのは久しぶり、千葉のユウイチ(野中)は昨日に続き連続で練習参加でしたネ!!.+:。(`∇´●)b

早い時間に来ていた蓑島とオレは、他の後から来たやつらがUPを終わるまで永遠と対人をしていたので、UPの状態でかなり体力を消耗してしまいました(体育館の湿度計は、75%を指してた!そりゃあ、くたびれるはずです…みんなもトライ!_ト ̄|○)。

そんな状態で、水分補給、汗でびしょびしょになった身体を直井先輩からもらった、馬場さんの『ボーイズ・オン・ザ・ラン』のタオルで拭いながら暑さで注意散漫になりそうでしたが、集中してボールを追っかけ、声出しをしながら練習!!ガンバレ━━゜+.☆ヽ(〃`・∇・´〃)ノ☆.+゜━━ ッ!!

竹ノ塚組が同乗する車中~野原、蓑島、松下なんだけど、チームの弱点についてあれこれと話しながら町屋の体育館へ向かってきたのですが、試合のときに女番長のシオリちゃんや宍倉の嫁の幸子に『元気がない!声がない!』と2人に同じことを良く言われるので、プレー云々よりも先ずはそこから始めなきゃいけないのでは?って話しになって、昨日はいつもより練習中に意識して声出しをしてきた。

 

自分では試合中、それなりに声は出してプレーしているつもりなんだけどなぁ…まあ、ダメって言われてるから、もっとやらなきゃってことですな!(; ・ω・)ノ

 

そして、レセプションの練習からいつも通りのメニューをこなし時間はあっと言う間に9時になり~練習終了!ぐったり!バッタリ!お疲れさまでやんした!!一昨日もそうだったのだけれど、昨日の体育館の暑さも尋常じゃなかった!そんな中、平均年齢42歳のわがチーム~みんなで一生懸命練習している姿は立派だとおもう!今しか出来ないこと一心不乱に!これからもこの調子で、目標に向かって突き進んで行こうぜ~!!ファイトーー! ( ゜ロ゜)乂(゜ロ゜ ) イッパーーツ!!

 

昨日、買い込んでおいたカップラーメン、カレー、おにぎりを朝と昼食べたので~夕飯は、何にしようかな?みんなは、夕飯何を食べんのかな?もう食べた?なに? (`・д´・ ;)

 

それから、良かったらTwitter欄を見て下さい!うちのチームの最年長~直井克己47歳と野原司郎45歳の高校時代のお写真が…。それにしても髪型が面白い!一体なんてパーマ?とっても仲が良さそうですが、いまは大丈夫かな?問題ない?( ゜Д゜)ナニカ??

 

 




台風18号来襲!((((;@ロ@)))

2013年09月15日 | 日記

どうも~~~-v(* ̄・ ̄)ノ ヨォ 昨日の洗濯物をしながらブログを更新中~…((8-(o*・_・)o カタカタ…。こちら足立区は『台風接近してんの?』って感じの今の天気であります。早朝は、めちゃくちゃ大雨でしたがネ~。


さて、今日も夕方から練習ありますが、これからまた大雨になるのか?ちょいと心配です。さきほど、日曜日の練習を統括している『キム兄』から様子をみてやるかどうか5時くらいに連絡します~って一斉メール。オ~レ~は~やりたいのだが…モジ(((*´ε` *)(* ´З`*)))モシ


昨日の練習は、男だらけでした。先週から久しぶりに顔を出した、千葉の専務~マコトは昨日も参加!3連休の最初の土曜日だったので、道が混んでたらしく体育館に来るのがすこし遅くなっちゃいましたが…。先週お休みだった伊興中のかわいい後輩タケイも、元気?に来ました。あと、数ヶ月ぶり~これまた千葉の住人、ユウイチも来たんですね!o(`・ω・´+o) ヨシッ


そんな面子で、しっかり汗かいて練習がんばりました。きのうの体育館は、すごく蒸していて窓を開け放っていたのですが風があまりなかったのでサウナ状態、『どんだけ湿気あんだよ?』み~んな汗でビショビショ!オレもパンツまでビショビショになってました~(´゜д゜`)ヤダ


暑さで集中力を欠く中、どれだけ自分にムチ打って一つ一つの練習に打ち込めるか?こーいうときの課題です!みんな出来たかな?オレはそれなりに集中してやったつもりだけど?つもり?ダメでしょ!まあ、本番でそれが試されるときがくるでしょう~( ̄ー+ ̄)ニヤリ…


練習メニューは、対人~UPを15分、レセプションを2人一組で5分間、コート2面でスリーマン~2分でワンローテ×8箇所(打ち手の順番を数にいれないとレシーブは6回)、ディグからバックアタック8分間、ディグから二段トス~スパイクでライト・レフトを4分間づつ、チャンスボールを自分でセッターに入れて好きなコンビを打つ練習を15分やって終わり~インターバルは2分間です。これで、2時間の練習みっちりという感じですね~┐(´-`)┌ フッ~。


最近、スパイク練習がふえた?多くない?コレで良い?オレが練習メニューを考えているのだけれど、みんなはどんな感じに思っているのかな?時間がもう少しあれば、シートの練習をここに入れて行きたいと思っております。


いまのところ、天気も荒れてないので今日は練習決行!?今日もバレーでどっぷり汗かいて、身体の中の灰汁をしぼり出したいぜ~!!台風さん、しばらく東京には来ないでおくれ!!ネェ~オネガイ~♪(●‘∀‘)σ)゜ω゜)、ツンツン



 


 


やっぱり、東京タワー!w(゜0 ゜)w~ワオッ!!

2013年09月14日 | 日記

 

こんにちは!(・д・)ノ オス 今日も暑いですね~、9月も中旬に入ったというのに残暑!そして、明後日は台風18号が東京直撃との予報です。敬老の日を向かえ3連休の頭の土曜日、朝からタラタラしていました。⊂⌒~⊃_Д_)⊃

そんな中、先ほどテレビのチャンネルを回していたら、Eテレで水泳の国体男子平泳ぎ決勝が放映されていて、隣の区~荒川のいや日本のヒーロー北島康介が出場してました。

北島も、もう31歳?対戦する選手の中では最高齢、最近では若い選手が平泳ぎでも台頭してるし、このレースも『どうかな?』ってチャンネルをとめて観てました。すると、安心のレース展開、終始先頭でレースを引っぱる北島、ゴール付近では少し詰められたものの見事一着でゴールイン!東京代表として、優勝をさらっていました~やるね、北島!!

昨日は何をしていたかと言うと、夜に日比谷線の神谷町から下車し、増上寺~芝公園ないなどを一眼レフを持ち歩いて、気分は『SUMMER NUDE』の山ピー?その辺りの写真をパチパチ撮ってきました。しかし、『夜景撮り』ってとってもむずかしく三脚なしではピンぼけ続出、出掛けに『三脚持って行こうかな?』って思っていたのですが荷物になるので却下。

写真を撮るのがメインなわけの『お出掛け』でもなかったので…。しかし、東京タワーの周りを歩いて写真を撮っていると、明らかに高額な一眼レフと三脚を肩にかついだ人がたくさんいました。自分も写真を何枚か撮りながら背面の電子モニターで確認するとブレブレの写真のオンパレード、次回の夜景撮りは三脚持参に決定です!

夜の芝公園内を歩いたのは初めてで、意外な位置から東京タワー&増上寺を眺めることができて『なんでも、経験だな~』って思いました。やはり場所柄、セレブな人がちっこいワン公を数匹つれてあるいてお散歩してました。

芝公園からは、東京タワーを狙う人は少なかったですが、芝公園を抜け東京タワーふきんにでると途端にたくさんスマホの人、一眼&三脚の本格派がライトアップされた東京タワーをカメラにおさめてました。Σ【◎】ω ̄*)パシャッ

芝公園を抜け、東京タワーへ上がる坂道の途中、高級とうふ屋『うかい』(食べたことはないのですが、かなり高そうな感じのとうふ料理のお店です。)の前には黒塗りのハイヤーやタクシーがたくさん待機、悪い人がたくさん利用しそうな雰囲気ですね~( ̄ー+ ̄)、その前にある公園からは、近くの高校の演劇部?の生徒さん達が暗がりの中、一生懸命大きな声で練習していたのが印象的でした。

そんな景色を横目に、東京タワーの足下からカメラを向けてたくさん写真撮ったのですが、気に入った写真は一枚も撮れず自分のセンスのなさや技術のなさに飽きれてました。残念…ま、しかし、これからでしょう!頑張れオレ!!o(`・ω・´+o) ヨシッ

 

世界一高い電波塔『東京スカイツリー』が押上に出来た。しかし、東京都の港区芝へ足を運び麓(ふもと)から眺める『東京タワー』長きにわたり東京~日本のシンボルとして君臨してきた存在感は今も健在!いまでも日本の電波塔の代表は東京タワーだな~と思いました。(o^ω^o)

さあ、もうブログもこの辺に~スポーツバックにトレーニングウエアーを押し入れてジムへ、少し汗をかき~のストレッチして体育館へ。今日もバレーボールの練習、思いっ切り楽しんできます!(-`_´-*)ノ.:゜

 

 













人間に翻弄された人生?『Project Nim』

2013年09月12日 | 日記

こんばんは!(・д・)ノ オス 今日は、みっちりトレーニングしちゃいました!けっこう頑張っちゃったよ、おれ!.+:。(`∇´●)b 今日は、そんな中、エアロバイク、ルームランナーで走りながら『奇跡体験アンビリバボー』を観ていました。


今回は、実験のために数奇な運命をたどったチンパンジーの『ニム』のお話し。ものすごく感慨深い回だったので、番組の詳細を番組のホームページから文章まるごと転載しましたので、興味があったら読んでみてください。


壮絶人生★人間に翻弄されたチンパンジー


果たして、人間と動物が会話することができるのか? そんな夢のような実験がアメリカで行われていた。 その実験の対象となったのは、我々人間と遺伝子の97%が同じと言われるチンパンジー。

実験には、中でも知能が高い母親から生まれた雄の赤ちゃんが選ばれた。 名前は「ニム」。


今から40年前、アメリカ・オクラホマ大学霊長類センター、生後わずか二週間だったニムは、この後実験のために壮絶な人生を歩むことになる。 野生のチンパンジーの赤ちゃんは、4歳まで常に母親と行動を共にし、母乳を飲み、夜も一緒に眠る。 しかし、ニムは実験のため、生まれて間もなく母親と引き離され、人間と同じ生活を強いられることになったのだ。


人間とチンパンジーに会話をさせる、そんな夢のような研究をしていたのは、コロンビア大学で心理学を研究していた、テラス博士。 しかし、人の場合、声帯で出した声をのどの奥と口の広い空間を使って変化させることができる。 だがチンパンジーはその空間が狭いため、声を変化させることができない。 つまり、言葉を発することができないのだ。


そこで博士はニムに手話を教えることにした。 言葉を交わし、人間と動物がお互いの感情を分かち合う、進化の歴史に新たな1ページを刻むこの実験は、『プロジェクト・ニム』と名付けられた。 人間の子供と同じように、ニムを家族の一員として生活させ、遊びながら手話に興味をも持たせる計画だった。 そこで博士はニムを人間の家庭で育てることにした。


チンパンジーは、生後1か月で他のチンパジーと母親の顔を見分けられるという。 よって、生後2週間から人間として暮らすことで、人間を本当の母親だと認識すると考えたのだ。テラス博士がニムの母親として選んだのは、ステファニーという女性だった。 テラス博士が彼女を選んだのには理由があった。 それは・・・ステファニーは心理学者を目指していたが、大家族の母親でもあった。 ニムに言葉を教えるためには、ただ訓練を続けるだけではなく、たくさんの子供達と遊ばせながら覚えさせようと考えたのだ。


実はステファニーにも、この大役を引き受けた理由があった。 彼女は再婚したばかりで、元々、自分にも夫にも子供がいた。 新しい家庭を一つにするためにニムが大きな役割を果たすと考えたのだ。そんな人間の思惑や実験のことなど知る由もないニムは、本当の母親から引き離されたにも関わらず、すぐに人間の生活に慣れた。 そして、自分の母乳を与えて育ててくれるステファニーを本当の母親だと認識していったのだ。


さらに、生後2か月を過ぎた頃から手話を教え始めた。 手話ができたら、褒めて、ご褒美を与える。 この方法でニムは、徐々に手話を覚えていった。

そんなある日、ステファニーがニムの記録を取っていないことが判明。 ニムの母親と手話の先生、やることが多すぎて記録など取っている時間がないと言うのがステファニーの言い分だった。 だがこの時、テラス博士には焦りがあった。 研究費の予算が承認されず、早く結果を出さなければ研究を続けられなくなる可能性があったのだ。 博士は、このままステファニーの家でニムを育てると研究の妨げになると考えた。


そこで博士が新たな母親に選んだのが、プロジェクトを手伝っていた学生、ローラだった。 こうしてニムは、1年半もの間共に過ごし、母親だと思っていたステファニーと引き離された。 そして、慣れ親しんだ生活が一変する。


ニムが新しい母、ローラと暮らし始めたのは、コロンビア大学が所有する、ニューヨークの広大な一軒家。 ニムは、新しい環境に戸惑いを見せていた。 しかしローラは、ニムをこの環境に早く慣れさせようと、ニムに新しい生活を教えることにした。

人間の洋服を着て、人間と同じ物を食べさせた。 それだけではない、人間の子供と同じようにおしめをして、トイレを使うことも教育した。 こうしてニムは、本来あるべき姿とは離れ、人間の文化に馴染み、手話を覚えていった。さらに、なるべく多くの言葉を覚えさせるために、手話の教育は大学でも毎日行われた。 ローラはニムのための部屋を作り、これまでとは違う形で手話を教えることにした。 それは、飾り一つない部屋で集中させるという方法。 初めて入る狭い部屋。 手話を教えようとしても、不安からか、ニムはなかなか手話を覚えようとしなかった。


だが、やがて、ローラを信頼していたニムは、ここでも遊びながら手話を覚えていった。 もうこの頃には、ニムに取っての母親は、すっかりローラになっていた。こうして、プロジェクト・ニムは、ローラの働きもあって成果が上がり、次々と新聞や雑誌に取り上げられた。 そしてついには、テレビ出演まで果たしたのだ。 ニムは一躍、全米で話題のチンパンジーとなった。


実験は、全て順調に思えた。 しかし、ローラがハーバード大学の大学院に合格、ニューヨークを離れることになったのだ。 ニムは本当の母、ステファニー、そしてローラと、生後わずか3年の間に3回も母親と引き離されることになった。


ローラが家を出ようとした時、突然、ニムがローラを襲った!! ニムは母親であるローラが自分から去ろうとしている気配を感じ、それを止めようとしたのだろうか?


こうしてローラは去り、ニムの世話は新しいスタッフが当番でするようになった。 しかし、あの事故以降、ニムは変わった。 母親を次々と失った不安と怒りのせいか、次第に凶暴になり、手話を教えるのが難しくなっていった。


そして、1年が過ぎようとしたころ、再びスタッフが教われるという事件が発生! 彼女は顔に大怪我を負った。 そして・・・これ以上研究を続けるのは危険だと判断したテラス博士は、プロジェクトチームを解散することにした。


だがこのとき、テラス博士は、実験は終わっても今まで集めた膨大なデータから良い結果が出せると確信していた。 しかし、映像資料を見ているとき、博士はとんでもない盲点に気がついてしまった。

それは、研究員が手話を教えている映像にあった。 ニムと研究員が手話で会話をしているように見えるが、研究員は無意識にニムにして欲しいサインをニムがサインする前に自分から出していた。 全ての映像を見直したところ、全ての研究員は無意識にニムにサインを出していたことが判った。 手話を覚えれば、ご褒美がもらえると学習したニムは、ご褒美欲しさに手話をまねていただけで、自発的に会話をした訳でないと結論づけざるを得なかった。 こうして、プロジェクト・ニムは4年10か月で終了した。


実験終了に伴い テラス博士は、ニムを霊長類センターへ返すことにした。 これでもう言葉を覚える必要も無い、本当の母親や仲間と平凡に暮らせるはずだった。  しかし、生後二週間でこの場所を離れ、5年近く人間の子供して生活してきたニムにとって、ここでの生活はあまりにも違いすぎた!

そこには、今まで寝ていたベッドなど無く、しつけられたトイレも無い。 食事も、ボールに入ったチンパンジー用の餌のみ。 この日からニムは、食べ物をほとんど口にしなくなった。そんな落ち込んだニムを見つめる一人の男がいた。 それは、この施設で働いていたオクラホマ大学の研究生、ボブ。 ボブはニムをできるだけ支えたいと思っていた。


本来チンパンジーは、森で暮らすもの、そこでボブは毎日 ニムを森へ散歩に連れ出すことにした。 しかし、檻を出たニムが最初に興味を持ったのは、自然ではなく、人間での生活で慣れ親しんだ椅子だった。 そして、ボブのシャツを着たがり、チンパンジーとして本来の姿に戻れずにいた。


ボブは、捉えられたチンパンジーにとって、自由であるという錯覚が大事だと思っていた。 そこで、ニムが行きたいところにどこでも連れて行くことにした。 だがニムは、ボブに心を許せずにいた。 それでもボブは、ニムがやりたいことにとことんつき合うことにした。


ボブは幼い頃、家庭の事情で引っ越しを繰り返していた。 そのため、学校になじめず、友達も作れず、孤独な生活を送っていた。そして、こうした幼少期の体験がニムの辛い体験と重なった。 だからこそボブは、ニムにチンパンジー本来の姿に戻って欲しいと願い、献身的に尽くしたのだ。

 

そんなある日、驚くべきことが起こった! 何と!ニムのほうからボブに「遊ぼう」と手話で話しかけてきたのだ。 それ以来、ニムの動きが変わった。 ニムは徐々に、本来あるべき野生の姿を取り戻していったのだ。 そこには、テーブルでご飯を食べ、コップで水を飲んでいた姿など、想像もつかないニムがいた。

 

しかし、こうしてボブに心を開き、元気に遊ぶようになっても、一つ心配なことがあった。 本来、チンパンジーは群れで暮らす動物。  しかし、人間としか暮らしたことがないニムは他のチンパンジーを怖がり、近づこうとしない。 ボブが他のチンパンジーの側に座り、優しく、「おいで~」と声をかけ、待つ。 すると、ニムが仲間のチンパンジーの側に座った。 さらに、檻越しなら遊べるまでになった。

そんな、ボブとニムの散歩は毎日続けられた。 それはいつしか、お互いに無くてはならない時間となった。 こういった生活が5年続いた。ボブはこのとき、ニムと本当の友人になったと感じたという。ところが、2人を引き裂く事態が起こった。 実はこのとき、霊長類センターは運営の危機にあった。 資金がなくなり、人になれたニムをある施設に売ろうとしていたのだ。 ボブは必死で止めたが、ニムは霊長類センターから売られていった。


ニムが売られた場所、そこは・・・ニューヨーク大学 霊長類研究所。 50頭から60頭のチンパンジーが新薬の効果を試すための実験台になっていた。何とかニムを救いたいと、ボブはニューヨーク大学の関係者に片っ端から電話をかけた。 だが・・・だれも話を聞いてくれなかった。 それでもボブは諦めなかった。 手紙でも訴え、あらゆる手段を使ってニムを救い出そうとした。


そして数ヶ月後、ボブはある方法を思いつく。 ビデオメッセージを撮り、マスコミ各社に送ったのだ。 同じ頃、手話研究をしていたテラス博士もニム救出に動き始め、彼らの行動がマスコミの目に留まると、ニムのことが新聞で報じられた。

当時、動物愛護団体によって、それまで容認されてきた動物実験への反対運動が盛んになり始めていた。 この記事を読み、弁護士も立ち上がった。 彼を買った研究所を相手取り、裁判の手続きをし、ニムを返すよう要求したのだ。 ようやく、ボブの願いだったニムの救出が始まった。すると、かつてマスコミに取り上げられ、有名になったニムを実験に使うとなると、他の動物実験まで非難されかねない。 研究所はニムを手放すことにあっさり同意した。


しかし、ボブとニムが過ごした霊長類センターは、ニムを売ったにも関わらず、資金難が続き、閉鎖されていたのだ。 このとき、すでにニムには帰る場所がなかったのである。 だが、チンパンジーを飼育するには、設備と経費が必要だ。 学生であるボブに、それを用意するのは不可能だった。

するとそこへ、新聞でニムのこと知った牧場のオーナーが名乗り出たのだ。 彼は、虐待され見捨てられた飼い主のいない動物を引き取り、自身の牧場で飼育することで知られていた。 ニムは、専用の小屋を作ってもらい、最高の環境で暮らし始めるはずだった…。


本来、チンパンジーは群れを作って暮らす動物。 だが、そこに暮らすチンパンジーはニム一頭だけだったのだ!! しかも、ボブが会いにいくことも認めてもらえなかったl! 牧場主がニムを引き取ったのは、お金のためだったのだ! かつて、マスコミに取り上げられ、有名なニムはお金になると考えたのだ。


 ニムはせっかく実験施設から逃れらたものの、小屋で孤独に過ごし、誰の目から見ても弱っていった。 そんな中、ボブは牧場主に手紙を書き続け、他のチンパンジーと一緒に生活させてほしいと訴えた。 だが、牧場主はボブの訴えを無視した。そんなある日、ニムが小屋を抜け出し、オーナーの愛犬を襲うという事件が起きた。 この事件はオーナーにとっても衝撃だった。 オーナーは、ボブの訴えを聞き、牧場に新たにメスのチンパンジーがやって来た。 ニムに、友達ができたのである! 友達ができたことで、ニムは元気を取り戻していった。

 

そんなある日、ニムを訪ねて一人の訪問者がやって来た。 その人物とは、ニムに母乳を与えて育てたステファニーだった。

 

だがニムは、突然ステファニーに襲いかかった!! 牧場のスタッフがニムを射殺しようとしたそのとき、ニムはうずくまったステファニーを見て、彼女から離れた。 人間として育てられ、手話を教えられた毎日。 母親代わりのステファニーとの突然の別れ、研究熱心なローラとの手話付けの日々。 再び故郷に戻り、今度は動物としての生活を強いられ、そして、新薬の実験台となる直前、救出されたものの、牧場で待っていたのは孤独な生活。 生まれてから7年、ニムは人間達の都合に翻弄され続けた。

あのとき、なぜニムはステファニーを襲ったのか? 再び、人間の生活に戻されると警戒したのか?それとも自分を振り回した人間への復讐なのか? 本当の理由は分からない。ニムの事件を聞いたボブは、類人猿の研究者になることをやめ、動物保護の活動をすることを決意した。 そして実家近くの土地で、チンパンジーを受け入れる準備も始めた。


ニムが牧場に移されて10年が経った頃、牧場主の知り合いから雌のチンパンジーが死に、ニムが再び孤独な生活を送っていると連絡があった。  幸運にも、牧場を管理していた責任者が代わり、新しいスタッフが再会を許してくれた。 しかし、10年という歳月はあまりにも長い。 果たしてニムはボブのことを覚えているのか? ボブを受け入れるのか?それとも、ステファニーのように襲うのか?


ボブと再開してニムが撮った行動は・・・なんと、ニムから遊ぼうと話しかけたのだ!! ニムは最愛の友人と共に過ごした日々を、10年経った今も色あせず、しっかりと記憶していた。


ここに、ボブが最も好きだという一枚の写真がある。 この写真を見れば、ニムが自分がしてしまったことを後悔しているとうことが分かるという。 このとき、ニムがボブを引っ掻いたのだが、血が出ていることに気づき、すぐに動きを止め、そして・・・「ごめんなさい ごめんなさい あなたを怪我させて」と手話をしたという。 そして、ボブの怪我を触って、大丈夫か確認したという。

研究のため、人間に利用され、悲惨な運命を辿ることになったニム。 しかし、ボブと過ごした日々だけは、楽しい思いでだったのかもしれない。 変わることの無かった2人の絆。 その理由についてボブは、「ニムの心とずっと一緒にいたからだと思います。研究者としてではなく、友人として僕は彼の側にいました。自分に必要なことを彼 に要求するのではなく、彼に必要なことは何かを常に考えていました。なぜならそれが、僕とって楽しいことだったからです。」と語ってくれた。


人間にとって、動物実験は必要なことなのかもしれない。 しかし、人間の都合によって振り回される動物もいるということを忘れてはいけない。


ボブとの再開を果たしたニムに、さらに嬉しい出来事が、そう、友達がやってきたのだ! ほどなくして、新たな友達も。 こうしてニムは、やっと群れとして暮らすというチンパンジーにとって当たり前な暮らしを手に入れた。チンパンジーの寿命は50歳程度と言われている。 しかし、ニムは心臓発作が原因で26歳でこの世を去った。 ボブが目指していたチンパンジーの施設の完成は、ニムの生前には間に合わなかった。 しかし現在、100頭以上のチンパンジーが施設で生活している。

 

この回をふまえて、人間がどう生きていくかでいろんな生き物の『生』を左右していることを目の当たりにした。地球上の生物の頂点に立つ人類、生きるためには仕方のないこともたくさんある、しかし、無下に他の生き物の命や自然を粗す行為だけはしてはならない。まずは、身近な簡単なことからは始めていきましょう。

 


 

『鳥銀』

2013年09月12日 | 日記

iPhoneを片手に布団に転がりながら、今日のことをブログを書き込んでいましたが、もう少しで書き上がる~ってときに、操作ミスで『全選択~ペースト』になってしまい、『鳥銀ネタ』の全ての文章が~おじゃん!!( ̄O ̄; ))!?(だから、タイトルとまったく関係のないことを書き込んでいます!)

 

全く違う内容の文章が貼られてしまい、ガックリ((((;@ロ@))) なので、これは『神様の思し召し?』ってことにして、今日はもうブログの更新をこれでやめようと思います。

 

ああ、面倒だけど何とかピコピコとiPhonenのちっこい画面で必死に書き込んで、『おっ!やる気が無かったわりには、いい感じに書けたじゃん?』な~んて、思っていたのに~この始末…残念無念とは、このことでありますね。

 

では、こんなにはやく眠るのもめづらしいので、夜中に目がさめて気がむいたら再びちゃんとブログの更新をするかも?ま、ないだろうネ~(o^ω^o) では、いつもより一足はやく、おやすみなさ~い…(PД`q。) マジネムィ…

 

と、一言?みなさんは、今日、いいことありましたか? 

 

おれは、帰って来たら部屋の片隅から~『ギシギシ!ギシギシ!!』って何かをかじる音が聴こえてきたので、オオクワガタのカゴをみると…オオクワガタのオスが、カゴの上蓋のへりに大顎を突っ込んで足をバタバタとして抜けなくなっていた~(゜д゜)<あらやだ!

 

なので、強力な大顎のちからで蓋を締め上げるクワガタの顎をグリ~グリ~!棒で、折れないように慎重に押し込んで外してやりました。ε-(´▽`) ホッ

 

それに気が付かず、ほっておくと顎が折れたり、そのまま成仏しちゃったりすることがあるらしいから、夏ももう終わり、来年までもうすぐ冬眠の時期なのに死んだら悲しいですから、よかったよかった~って感じでした。(o^ω^o)

 


何か、書かなきゃ…(ノ_-)ゴシゴシ

2013年09月11日 | 日記

こんばんは~(ノ_-)ゴシゴシ 日課のジムトレ、しっかりして来ましたよ~。火曜日は、いつも混でいるのに今日は空いてたな~どうしたんだろう…。そんな感じのジムではありましたが、自分は自分のことをやるだけ!エアロバイクとウエイトをやってきた。


ウエイトは、最近、膝、アキレス腱、右太腿の痛みもほとんど消え掛けているので、バーベルスクワットを再開しています。いまのところ、ケガをしてやれなくなる前のウエイトには、まだまだ遠く及ばないのですが日々徐々にウエイトUPできているので、この調子でしっかり続けていれば元の状態にもどるのも時間の問題でやんす!


今日は、もう眠さに勝てないので大好きな俳優『キアヌ・リーブス』主演の47 Ronin』の番宣を貼付けて眠りに入っちゃいますよ~!アメリカでは2013年クリスマス公開予定、日本での公開日は未定です。20歳の時に観た映画『ハートブルー』以来、ハードボイルドな路線のキアヌが大好きで、彼が出演している作品はけっこう観ています。( ▼Д▼#)


ロマンス系のキアヌの作品には興味はなく、まったくと言って良いほど観ていません!それでファンと呼べるのか?いや、ファンです。『ハートブルー』『SPEED』の頃の、キアヌの見事な身体つきにやられ『オレも、コレぐらいになっちゃるわい!』と筋トレの日々、いまでは少し筋肉つき過ぎ?微妙な感じです。(o^ω^o)


さて、今回の作品は日本の『忠臣蔵』が題材のようですが、番宣を観たら『何じゃい、こりゃあ~!』ってな感じでした。思いっ切りファンタジック!?日本の俳優さん、真田広之など、他たくさん出演しているようなので、観てみるのもよろしいかと~.+:。(`∇´●)b



オリンピックのメダリスト(*-`д-;)ス、スゲェ…

2013年09月10日 | 日記

こんばんは!今日は、ジムの休館日なので自宅で大人しくしてました。(毎回、月曜日のブログに同じこと書いてますネ。w)今日は、どんなネタを書こうかといろいろバレーボールのことで調べていたら、YouTubeでロサンゼルスで銅メダルを獲ったときの全日本の18歳(高校生が4人って凄い!)のメンバー4人の紹介VIDEOがあったので、それと、その中心人物『中田久美』の文章を見付けたので掲載します。


ロサンゼルスの全日本女子の銅メダル、この時期の全日本女子バレーは実力がありゴールデンでよく国際試合などが放映され人気も凄かった(中学校に入学して、バレーを始めたときの女子のバレー部の人数の多いこと!ひと学年に20人位いた!)、自分がバレーボールを始めたのも3つ上の姉がバレーボールをしていて、よくTVで女子の試合を観戦~『強え!面白い!』って思ったからなのです。


今の全日本女子は、やっとこさ復活しロンドン五輪でも銅メダル。現在は、実力どおりのテレビ放送!しかし、男子バレーはそれの『抱き合わせ』~チャラチャラお洒落なんかしてないで、もっと頑張って!強い男子バレーになって!最近の『バレーボール離れ』にブレーキを掛けて欲しいもんです。アジアのチームに何か負けんじゃねぇ~気合いだ!└(゜∀゜└)ハッスル!ハッスル!!


YouTubeで紹介されている中の1人、『宮島恵子』さん。以前、うちのチームの女子に所属していた子が、クラブチームの全共栄にいたときに一緒にプレーしていたのがご縁で何度か一緒に練習させていただき、更には女子チームの試合に出てもらったり。一番の想い出は、お酒をご一緒して全日本時代の話し、同期の中田久美の話し、男子全日本の裏話し~あの選手が!?などなど~聞かせて頂いき、とっても楽しかったです。


まさか、ブラウン管の中で活躍していた全日本女子チームの一員の方と、それを観て触発された自分が一緒にバレーボールをさせてもらったり、お酒を酌み交わすなど~奇跡!バレーボーラー冥利に尽きますね、バレーボールの神様に感謝してます。では、この辺で~('ヮ^*)ノ゛




The Goddesses of Olympic Games
女神たちのメダル



中田久美
(ロサンゼルスオリンピック バレーボール・女子銅メダリスト)


 




●なかだくみ/第23回ロサンゼルスオリンピック銅メダリスト。1965年9月3日東京生まれ。'79年 故山田重雄氏に見込まれ「山田バレー塾」入塾。史上最年少の15歳で全日本入り。'81年日立入社、日本リーグ新人王受賞。天才セッターの名をほしいまま にする。'86年右膝じん帯損傷。'89年ワールドカップベストセッター賞受賞。'92年引退まで3連続オリンピック出場。'96年日立ベルフィーユアシ スタントコーチ就任。'97年からフリーとしてテレビ解説や講演活動のほかモデル業も務める。


「年表」どおりの五輪


オリンピックは、私にとって夢というものではありませんでした。


結局3回、そう、ロス('84年、18歳)からソウル、バルセロナと3回も出たんですよ、オリンピックに。4年間って、周りが思うような、そんなに簡単 な時間ではないんですね。ひとつ終わるとね、ああ遠いな、次はどうやったらそこまで行けるか、と思うくらい本当に長く、苦しい時間でした。


ロス五輪では、1日4部練習(4回の練習)をしていたんです。まず6時半から練習をし、朝食をとって今度は9時から、昼食をはさんで今度は午後練習をし、最後は夜の練習。現地に入ってから練習を落として調整をして……、というのとはまるで違っていました。


とにかく4回の練習を淡々とこなしていたんで、それは先生(故山田重雄氏)の考えでもあった、と思うのですが、雑音が全く入りませんでしたね。ここは日 立の体育館で、と言われても全く違和感がないくらい、本当に練習だけに没頭していたので、あとで思っても、緊張とかプレッシャーとか、感じないでいられた んですね。そのくらいハードでした。オリンピックを楽しむとか、バレーが楽しいとか、思ったこともありません。そういうものではなかった。


この銅メダルを胸にかけてもらった時のことは覚えています。ああ重いんだな、とか、うれしいな、とか全然思わなかった。あ、こんなものだったのか、ってそういう感覚だけ覚えています。ただ表彰台の上は良かったですね。


思えば、バレーを深く知ってキャリアを積んで迎えたはずのバルセロナ五輪が、一番恐怖感がありました。慣れる、ということで言うのなら逆で、最後が一番 怖かった。自分の置かれた立場も変わっていたからでしょうね。100%の力を出しても勝てない場所が、オリンピックだということをわかっていたんで、それ が怖かった。


でも、メダルの存在なんて本当はあまり重要なものではなかったのかもしれません。こうやって今、手元に残っているからお見せできるんですが、それでもこ れを見て思うのは、結果じゃなくてそこに至ったプロセスのほうです。もちろん、結果を手に入れようとやっていたんですが、今、極端な話、メダルは手元から なくなっても構わない。でも、そこまでの道のりに、深い思い入れがあります。


私にとって、バレーボールでオリンピックに行くことは、夢ではありませんでした。人生の年表にあらかじめ書き込まれた……必ず通り過ぎなくてはいけない義務でもあったんです。


年表に書き込まれていた五輪──目の前にいる中田久美がふともらした言葉に、彼女が「バレーボールの天才少女」と呼ばれていた、はるか昔のことを思い出す。


中学2年の頃、当時女子バレーボールのエリート育成を目的に、人材発掘を行なっていた山田重雄氏(当時日立)にその才能を見出された。中学に入ってから 始めたというキャリア自体、テストを受けに来ていた900人もの生徒の中でも最も浅く、しかもアタッカーだった。


しかし、全日本を目指すために選抜されたポジションは、チームの「頭脳」ともいえるセッターのポジションである。
「驚きました。セッター? 何それ、って感じだったのです。なにしろ900人もいたのですから。選ばれることなんて考えもしなかった。先生があとで言うには、目が違ったそうです」


当時を思い出したのか、懐かしそうに笑った。


負けん気、意思の強さ、そして純粋さ。山田氏が900人の中から賭けた「目」は、間違いではなかった。最初に連れて行かれた監督室に、年表が置いてあり、そこには、「中田久美」と書かれていた。不思議そうに見つめていると、監督が切り出す。


「今、おまえは14歳だが、ここ、16歳で全日本のセッターに入る。それでこの18歳のところで最初の五輪だ。次は……」
 年表は隙間もないくらい、ぴっしり書き込まれていた。


「全日本に入ることも、五輪に出ることも、みんなもう『予定』に入っていたんです。夢とかそういうものではなかったんです。あの時からずっと……」


年表どおり、極めて順調に「天才少女」は時代を刻んだ。16歳になる少し前に全日本に入り、初めてのロス五輪でメダルを獲得し帰国する。すぐにソウル五輪を目指して練習が始まった。しかし、選手生命にかかわる事態が起きる。


ひざの十字じん帯損傷で、全治4か月の重傷を追う。当時は30センチ近くもメスを入れなくてはならず、リハビリも時間を要した。勢いと、天性のカンや能 力で一度は頂点に上った少女の周囲に、「引退」の文字がちらついた。何とかコートに立ったものの、とても以前のような練習をこなせる状態ではなかった。


「おまえなんて、二束三文のセッターじゃないか。安売りしてやる、一山いくらでもってけ!!」


山田監督の言葉は激しさを増し、それにいつものようにプレーで「反抗」できない自分に腹が立った。
合宿所を飛び出した。荷物も持たないで。山田監督は引きとめには来なかったが、冷静になると、怖かったのは監督のことではなく、「4年の月日を逃がすこと」のほうだった。


それからは、ただがむしゃらにやっていただけの競技に、少しずつ違った面が見えてきたという。ゲームの流れ、勝負カン、これらがわかるようになった。


あの頃は、体育館でよくこんな練習が行なわれていた。


矢のように降るボールをレシーブし、ネット下の山田氏のもとヘダッシュする。監督が示す指のわずかな動きに村して、息さえできないような状態でも、中田 は数字とアルファベットのサインを繰り返す。当時監督から、中田は300種類のフォーメーションを暗記している、と聞かされた。どんなに頭に血が上ってい ても、疲れていても、彼女はそれを間違わない、と。


「あの怪我ですべてが変わった。ひざは最後まで万全にはなりませんでした。結局2つの五輪でもメダルは取れませんでしたが、それでも、後悔はありません」


中田はメダリストの肩書きすべてを「ご破算」に戻して、モデルという仕事に挑戦している。趣味程度なのかと見ていたが、そうではなかっ た。現役時代よりも痩せ、さらに徹底した体重管理、歩き方、服の見せ方を一から学んでいる。年齢からいっても、楽な選択ではない。昨年はエルメスのショー にも出た。


インタビューの途中、同行してくれた関係者が言った。


「本当にすべてにベストを尽くすんですね。あの年齢で、あんなに自分を追い込むモデルさん、そうはいないでしょうね。ちょっとは楽をすればいいのに……」


14歳から親元を離れて3回の五輪に出場し、大手術に耐え、300のフォーメーションを覚えていた人に、それは、無理な注文かもしれない。



(婦人公論・'99.5.7号より再録)




2014 世界バレーアジア予選~男子

2013年09月08日 | 日記

こんばんは~(o^ω^o) 今日は気温が低かった割には、湿度が高くて汗ばむ日でした。今日のバレーボールの練習は、昨日の時点で、E・ミノシマとS・ノハラの皆勤メンバーが休みと言うことで、『今日の練習は、ちょっと少ないだろうな~』って思ってました。

 

おまけに雨が降っていたので、ちゃりんこマンのオレは自転車を封印されてしまい、電車で町屋の体育館へ。出掛けたときは、丁度雨が止んでいて『お⁈、自転車で行っちゃおうかな?』と思ったのですが、天気予報は雨だったので駅へ向かって電車に乗りました。

 

体育館に着くと、キム兄、シオリちゃん、宍倉、シオリちゃんの会社の女の子とその友達くんがストレッチをしていて、『お!偉いね~2週連続参加じゃん!(o^ω^o)』って声を掛けたら、ニコッとしてくれました。

 

対人をしながら、男の子といろいろお喋りして情報収集。出身は長野県で、3年前に上京したらしい。バレーボール9人制の強い会社に高校卒業後に就職して、社会人バレーボールの9人制で全国大会にも出場した経験をもつ手練。ブランクを考えても、年齢と経験のアドバンテージがあるので、打ち込みをしたりすれば充分6人制で活躍できる実力はもっているので、是非真剣に取り組んで、うちのチームの一員として活躍して欲しい人材だ。

 

そんな彼を含めて、今日の練習は6人で。対人から、レセプション、シート、ディグからのバックアタック、2段トスからのスパイク、3人入ってのチャンスボールからのコンビ練習~2時間、しっかり汗かいて来ました~ε-(´o`;A そして、今日も楽しかった!

 

帰りは、Y・シシクラに竹ノ塚駅まで車で送ってもらい自転車で帰宅。食事をしながら、録画した男子の韓国戦を観戦!エースの決定率、コンビバレー、サーブどれをとっても今日の試合は韓国が日本を圧倒。一度も流れをつかむことなく、ストレート負け!来年ポーランドで行われる『世界バレー2014』には参加できなくなりました。1960年から連続で出場していた記録もストップ~今日の試合では、守備面での問題が目立ちましたね。

 

『ゲーリージャパン』これからどんな風に巻き返して行くのか?頑張って結果を残して欲しい!。試合観戦中に気になったのですが、いまの実力でどうなんでしょう?ベテラン勢の越川、ゴッツ石島~エースの福沢、清水もネックレスなんかして、髪型を格好つけて、眉毛をシャープに決めて…。韓国の選手のネックレス率は、1人~2人でしたぞ?(¬д¬。)。

 

日本の男子チームのメンバーは、もっと強くなってから格好付けた方が良い。いまのままじゃ格好ついてないだろ?おまけに『龍神NIPPON』のネーミングも、いまの実力じゃみっともないのでヤメて変えたほうがいいんじゃないか?。