大規模公共事業における入札の多くが現在、価格と技術及び性能等の評価を含めた総合評価落札方式に移行されている。中には異例もあるが、それが価格重視と見られる結果では「一般競争入札と同じ」という見解の出ることから、その多くは施行中の環境面での影響を含めた技術、性能を重視した評価にウェイトがおかれて落札者が決定される傾向にある。だが、その評価点が外部には解りにくく、そこで「イコール官製談合」という見解が出るのも確か。
その評価は建築、土木、機械等の専門的な学者による審査、検討委員会から出されて決定するが、某種の審査会で同メンバーの委員が「審査会をセレモニーと言われれば、それは否定しません」と証言。発注側が「専門家の審査委員による選考決定であって、文句の着けようもない」と、そう見解を述べた結果後での話。
セレモニーとは本来、宗教的な儀式を意味するが、野球の試合前における始球式と同じで、日常生活とは異なる一定のルールに基づいて行われる行為を意味し、さらに簡単に語れば「装飾」、そして「付け足し」である。次にこれを別の角度から論理的に考え、検証してみる。
例えば、今回の事案である焼却炉施設の審査であるが、炉型によって審査方法が異なる点、また自然工学、環境社会が専門で炉の工学的な専門家ではないとか、総合的な判断は困難という条件等を外して考えても、同一の審査メンバーが揃って選ばれる地域で、改良の加わらない期間において、特定のメーカー(仮ストーカ型Z社)の炉に優秀評価が決定されたと仮定する・・・そうなると常識的にはA市もB市も、またC町もその落札決定、導入はZ社になるはずだ。ところがB市はY社、C町はX社となると、それは逆に不可解な結果という話になる。これが別の角度から観た場合の「審査委員会による審査はセレモニー」という見解で、この論理からも先の審査委員による容認と一致することになる。
また各メーカーの賛助によって運営されている環境衛生センターの審査委員長となると、次々と決定を下す全国各地で「Z社の落札決定」の見解を示せば、他社は経営危機に陥るし、また環境衛生センターの運営も厳しくなる。パンドラの箱を開けるような話になるが、「審査、検討委員会はセレモニー」という論理は明らかに成立する。
それでは真の落札決定者とは誰なのか、ということになるが、「表は組合長で裏は建設地の首長」と関係者の中からも名前が挙がる。汚臭、汚水はともかく騒音、交通等の環境問題と直面する市民を抱えることになると、それも当然な権利か。5、10億円の公共事業ならどうあれ、今回の菊池環境保全組合のように257億円規模となると、一部市民の反対運動はあっても、その争奪戦が市町間に存在したことは想定される。
ところで2016年、宇佐・高田・国東広域組合(大分県)の実施した焼却施設の建設に向けた入札で、同入札に参加希望した日立造船、荏原環境プラント(両社とも菊池環境保全組合の入札にも参加)を代表者とする2企業体の1企業体が、この入札の寸前になって辞退し、その企業体に参加の一社から「官製談合、暴力団等による圧力があった」と訴えが出て、その入札結果が1年間も棚上げとなった。
また昨年、鹿児島県の伊佐北姶良環境管理組合が実施した焼却施設の入札では、ドイツの焼却炉メーカーを買収して「積極的な営業展開を進める」と発表していた新日鉄住金エンジニアリングが落札決定後、それを辞退するという不可解な事態も発生。この新日鉄では10数年前、「営業本部長が裏社会との約束を履行出来なくなり、アメリカへ逃亡」という噂も浮上。
建築、土木事業と違って、その汚水、ごみという土壌の環境が関係するのか、焼却炉施設の入札は「死人も出る競争」とも語られ、表現は悪いが「表は幼稚園でも裏の受注競争は古い昔のシカゴ・外人街」(捜査関係者談)と聞かされた。
それでは彼らの営業ルートとなるが、これについて焼却施設の入札を巡る疑惑捜査で、首長や議会議長まで逮捕した福岡県警の元刑事は、
「汚泥、下水道施設部門も抱える業界で、先ずはその関連の業者筋から入る。首長や議長と近い距離にある後援会幹部の設備業者、設備業界の調整役辺りが、そのライン。臭いを感じたら、こっちもターゲットはそこ」
断っておくが、菊池環境保全組合の予定する焼却炉の入札が「疑惑」と、そう断定しているわけではない。昨今の事例からの一般論で、約257億円の超大型事業の入札となると、眠っている子でも寺の団子に目が眩んで起き上がるのと同じで、そこで色々と注目、注視されるのは当然。それも残り4ヶ月の勝負・・・(熊本レポート・ブログ2015年6月4日号参照)