一時ほどでは無いにしろ、震災以降の「自粛は正義」な世間に合っては、わずかでも連想させるところのある映像作品を放送することすらためらいの対象になるらしい。
「海のトリトン」番組変更のお知らせ
スカパー!のホームドラマチャンネルの告知だが、「海のトリトン」は見たこと有るが、どこに「震災の影響を鑑み」る箇所があるのかさっぱり分からない。ひょっとしたら一部に津波のシーンなどもあったのかも知れないが、しょせん古いアニメ。そこまで考えていたら放送出来る作品がなくなってしまうと思うのだが、ホームドラマチャンネルだから、そこまでしてアニメ放送したくないのかも。
そこまで気を配ってしまうと、自粛の対局に位置するのが特撮もの。なにせ都市破壊シーンが大抵の作品にあるし、その際に非難する人々の姿も書かれることがある。自然災害によって街が崩れていくパニック形式の作品も多い。怪獣ものの場合、放射能についての説明がなされることもある。こんなものを放送したら、いつ苦情が殺到するか分からないということで、日本映画専門チャンネルではそれまで放送していた大映系のパニック特撮ものの放送をやめ、代わりに制作に日本人が関わったり日本の特撮の影響が伺える海外の怪獣・ヒーローものの特集を行っている。「日本映画専門」らしくない構成ではあるが、合作という性質上版権がややこしくてDVD化すらされていない作品も結構あったりしてコレクターとしてはかえって嬉しかったりする。例えなんと言われようとも趣味の特撮もの鑑賞はやめられない。
今回のお題は、ディアゴスティーニの"東宝特撮DVDコレクション"でも発売された「ゴジラ×メカゴジラ」。このところ、2作続けて重い雰囲気の発売が続いた中で久々に何も考えずに見られる娯楽作品が出た・・・と思いきや、今見ると毒の感じられる作品にこっそりしあがっていた。
そもそもこの「ゴジラ×メカゴジラ」、リアルタイムで観た視聴後感想では不満の一言だった。このタイトル、「ごじらたいめかごじら」と読ませるのだが、全く同じ読み方をする作品はこれで3作目。「ゴジラ対メカゴジラ」、「ゴジラvsメカゴジラ」、「ゴジラ×メカゴジラ」。字で書けばマニアなら判別出来るが、口に出して読むと紛らわしいったらありゃしない。「メカゴジラ×ゴジラ」の方がいろんな意味で良かった気がするのだが、それはさておき。当時一番不満だったのは、"砕け散るまで戦え"というキャッチコピーが付いていながら、お互いボロボロに成りながらも勝負放棄、機龍(本作におけるメカゴジラのこと、"きりゅう"と読む)の勝ちに近いものの引き分けとなって終わってしまったことにある。
メカゴジラはものはこれで4作目だが、怪獣バトルのが曖昧な決着で終わることが多いゴジラシリーズにおいてメカゴジラだけは例外的に完全決着が付くまで、どちらかが砕け散るまで戦うのが常だったのだ。もちろん全てに置いてゴジラが勝っているのだが、徹底的に追い詰められている描写が各作品においてある。「対」では首の辺りを打たれて血が噴き出し、ミサイルが各部に刺さってハリネズミ状態になる。「逆襲」では対決シーンは少ないのだが、それでもゴジラはメカゴジラに火だるまにされてしまう。「vs」に至っては下半身の神経層を破壊されたところに総攻撃を浴び、苦痛の悲鳴を上げさせる。その際に立ち上がろうとしても立ち上がれない様が這いずり回って逃げようとするように見える、まさに無様な姿を晒すのだ。そこまで追い詰められるからこそ最後にゴジラがメカゴジラを完全粉砕する決着が痛快なのだが、「ゴジラ×メカゴジラ」はそれがなく、おかげでもう一つ印象が良くなかった。
また、ストーリーも明らかにアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」からのイタダキとしか思えないものが多い。敵(本作でのゴジラ)と同等な実態を機械の中に閉じ込め、外部からのコントロールで立ち向かわせる機龍(メカゴジラ)の基本設定や、本体の心がよみがえっての暴走、クライマックスの必殺武器の電力供給のために関東の電力を止めて送り届けるなど、誰がどう見てもネタ元は一つに帰してしまう。もっとも、死んだゴジラをサイボーグ化してよみがえらせ、現ゴジラと戦わせるアイディアはトライスター版「GODZILLA」の後日談のアニメ「ゴジラ・ザ・シリーズ」でも使われていたし、「エヴァゲリオン」の電力供給作戦"ヤシマ作戦"にしたところで、「原子人間」というハマー・プロ製作のイギリス製SF映画で主人公クォーターマス教授が不定形宇宙生物を高圧電流で焼き殺すために実行させた、ロンドン中の電力供給をストップさせて集中させる、いわば"クォーターマス作戦"からのイタダキアイディアと思われるためにアイディアを外部に求めること自体はそれほど悪いこととは思わないが、わかりやすすぎるのは問題である。
映画はどんな映画であっても時代を晒す。ゆえに本当の味はリアルタイムで観なければ分からないのが普通と言えば普通である。ところが、「ゴジラ×メカゴジラ」は現在観ると当時では出なかった味が出てきてしまっている。ゴジラは「放射能の象徴」の怪獣であるがゆえに、無敵なのだが、この当時、放射能や核兵器は人間に対する驚異としては捕らえられない社会風潮となっており、そこを前面に出してもリアリティーを感じられない傾向にあった。ためにゴジラのような怪獣による被害は一種の自然災害のような姿で表現さることが多い。本作はその最たるモノで、放射能表現はクライマックスに少し出る放射能除去装置(もちろんコスモクリーナーではない。放射性物質を洗い流す程度のもの)くらいなもので、あまり出てこない代わりに冒頭ゴジラが暴風雨とともに襲来し、上陸地点の人々は一時体育館などの避難所への退避を余儀なくされる様が描かれる。海からの自然災害とともに現れる放射能を破壊力に変える存在、ゴジラ。結果現在の日本人視点に置いてこれ以上は考えられないような大怪獣となってしまっているのだ。おかげで、映画館まで見に行った当時より今の方がはるかにゴジラを感覚的に生々しく感じられてしまう。こんな感覚を覚えた映画は本当に珍しい。時代が再びゴジラの元へ来てしまっていたのだろうか?
クライマックスは先にも書いた通り、機龍のために電力会社(劇中では語られないが、当然東京電力)に関東中の電気を送電に回させ、必殺武器を発動させる。その名はアブソリュート・ゼロ、絶対零度砲と語られているが、ようするに低温による冷却攻撃である。つまり、"自然災害と放射能の産物を倒すために東京電力が関東の電力を停電させ、その力で冷却処理を行う"わけだ。しかも、そこまでやってもその産物ゴジラを倒すことは出来ず、完全成功には至らない。今観るに、これ以上の皮肉な表現もない。当然2002年当時の制作者たちが未来のあり得る姿を予想して作ったとはさすがに思わないが、これこそゴジラなのだと却って関心してしまった。
別に「ゴジラ×メカゴジラ」は観客を怖がらせようと思って作った映画ではない。むしろ前作「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」が怖がらせようと意識して作った映画だけに、その反省かあるいは監督の性格によるものか、あくまで目玉は怪獣同士の格好いいバトルシーンにあるのだという主張が前面に押し出されている。その白眉と言うべきシーンが、明らかに「キングコング対ゴジラ」を意識して演出された、バックパックを切り離して火力が落ちた代わりに身軽になって異常なほど動きの速くなった機龍とゴジラの肉弾戦シーンである。
「キングコング対ゴジラ」で使われた演出、それは「観客から観て右手に位置する怪獣が優勢である」という定義である。これは歌舞伎の舞台における上手(かみて)の側、または相撲でテレビ画面で観るところの東の方。日本文化に置いて上・強い方とされる側に常に優勢な方を配置している表現方法であり、日本人ならば感性で感じられる上下関係表現である。それは後に幾多の特撮演出者が同様の表現に挑んでは失敗している演出でもある。それは、この画面構成ではどうしても立体的にならずに二次元的になるため、対決する両方に激しいアクションが求められるが、それは怪獣の動きに人間の動きが出てしまう、あるいはこだわる余り動きが少なくなってしまうという失敗と隣り合わせの危険なやり方でもある。また、その演出を行うには両怪獣(あるいはヒーローと怪獣)に同格性が求められる。格が同等だからこそ右手を取り合う陣取り合戦に演出者としての意味があるのであり、同格で無いのなら結局主役側を右手に配置した方が画面構成が栄えるからだ。ゆえにゴジラは優勢劣勢にあまり関係なく右手に居ることが多かったのである。それに対して本作ではゴジラを脇役に添え、機龍が主役であることに、本編演出が徹底させている。もちろん機龍もゴジラであるという設定もそれを手伝っている。それゆえに絶対的存在感と歴史を持つゴジラと機龍を、少なくとも本作に置いては同格に据えることに、ある程度成功している。それがやりたいがために本作は構成されたのではないかとすら思えるほどだ。ただ、現代人の視点で見ると、格闘ゲームではコントローラーの配置から見て自然に感じられる左手側にプレイヤーキャラクターが配置されるため、右手側を中心に見る習慣を持たない人も多いので右手側に画面の重心を置く方式は古いやり方と言え、必ずしも最善であったとは言い難い。が、それでも分かる人間としては、特撮マニアで有名な手塚昌明監督の見事な計算が心憎く感じられる。
なお、ディアゴスティーニの雑誌版はプルダウン処理できないらしく、PowerDVDのTRUE MOTIONの効果が発揮できないが、市販版のDVDを使うとそれが存分に発揮され、バトルシーンの迫力が倍増する。雑誌版を買ったのにわざわざそっちを出して観てしまった。
難点は二つ。その構成を保つために明らかにカメラが反対側に移動してしまった箇所があることと、機龍のジャイアントスイングが不自然に見えるところである。ここら辺は特撮演出の菊地雄一氏(ウルトラやアニメの演出経験者)にもう一つ凝って欲しかったところだ。それ以外の部分は新鮮な画作りが多くて面白くできているが故に、残念である。
ただ、そういう末端の部分が計算高い割に肝心の「生命」や「共鳴」と言った中盤までは軸となる話が後半どこかへ言ってしまうのは本末転倒と言わざるを得ない、甘い作りだ。その設定は次作「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS」に引き継がれ、そっちで完結するのだが、続編が前編を見ていないと少しわかりにくいというのならともかく、初めから宣言していない限り「完結は次作で」という一作でスッキリしない構成にしてしまうのは監督としては逃げの行為であろう。付かなかった決着に不満があるという当時のモヤモヤした気分も、やはり仕方のない話ではあった。
わたしは海外製の怪獣映画も数多くみていて、そちらの良さも十分分かっているつもりだが、それでもやっぱり日本製が一番面白いと思う。それは怪獣は畏怖される存在、神である(だからゴジラの英語表記はGODZILLAなのだ)というぶれない軸があるからだということが、今回改めて感じた。それだけに、バトルの決着は置いておいても、続編を意識しない作品にして欲しかったと今だからこそ思う。
「海のトリトン」番組変更のお知らせ
スカパー!のホームドラマチャンネルの告知だが、「海のトリトン」は見たこと有るが、どこに「震災の影響を鑑み」る箇所があるのかさっぱり分からない。ひょっとしたら一部に津波のシーンなどもあったのかも知れないが、しょせん古いアニメ。そこまで考えていたら放送出来る作品がなくなってしまうと思うのだが、ホームドラマチャンネルだから、そこまでしてアニメ放送したくないのかも。
そこまで気を配ってしまうと、自粛の対局に位置するのが特撮もの。なにせ都市破壊シーンが大抵の作品にあるし、その際に非難する人々の姿も書かれることがある。自然災害によって街が崩れていくパニック形式の作品も多い。怪獣ものの場合、放射能についての説明がなされることもある。こんなものを放送したら、いつ苦情が殺到するか分からないということで、日本映画専門チャンネルではそれまで放送していた大映系のパニック特撮ものの放送をやめ、代わりに制作に日本人が関わったり日本の特撮の影響が伺える海外の怪獣・ヒーローものの特集を行っている。「日本映画専門」らしくない構成ではあるが、合作という性質上版権がややこしくてDVD化すらされていない作品も結構あったりしてコレクターとしてはかえって嬉しかったりする。例えなんと言われようとも趣味の特撮もの鑑賞はやめられない。
今回のお題は、ディアゴスティーニの"東宝特撮DVDコレクション"でも発売された「ゴジラ×メカゴジラ」。このところ、2作続けて重い雰囲気の発売が続いた中で久々に何も考えずに見られる娯楽作品が出た・・・と思いきや、今見ると毒の感じられる作品にこっそりしあがっていた。
そもそもこの「ゴジラ×メカゴジラ」、リアルタイムで観た視聴後感想では不満の一言だった。このタイトル、「ごじらたいめかごじら」と読ませるのだが、全く同じ読み方をする作品はこれで3作目。「ゴジラ対メカゴジラ」、「ゴジラvsメカゴジラ」、「ゴジラ×メカゴジラ」。字で書けばマニアなら判別出来るが、口に出して読むと紛らわしいったらありゃしない。「メカゴジラ×ゴジラ」の方がいろんな意味で良かった気がするのだが、それはさておき。当時一番不満だったのは、"砕け散るまで戦え"というキャッチコピーが付いていながら、お互いボロボロに成りながらも勝負放棄、機龍(本作におけるメカゴジラのこと、"きりゅう"と読む)の勝ちに近いものの引き分けとなって終わってしまったことにある。
メカゴジラはものはこれで4作目だが、怪獣バトルのが曖昧な決着で終わることが多いゴジラシリーズにおいてメカゴジラだけは例外的に完全決着が付くまで、どちらかが砕け散るまで戦うのが常だったのだ。もちろん全てに置いてゴジラが勝っているのだが、徹底的に追い詰められている描写が各作品においてある。「対」では首の辺りを打たれて血が噴き出し、ミサイルが各部に刺さってハリネズミ状態になる。「逆襲」では対決シーンは少ないのだが、それでもゴジラはメカゴジラに火だるまにされてしまう。「vs」に至っては下半身の神経層を破壊されたところに総攻撃を浴び、苦痛の悲鳴を上げさせる。その際に立ち上がろうとしても立ち上がれない様が這いずり回って逃げようとするように見える、まさに無様な姿を晒すのだ。そこまで追い詰められるからこそ最後にゴジラがメカゴジラを完全粉砕する決着が痛快なのだが、「ゴジラ×メカゴジラ」はそれがなく、おかげでもう一つ印象が良くなかった。
また、ストーリーも明らかにアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」からのイタダキとしか思えないものが多い。敵(本作でのゴジラ)と同等な実態を機械の中に閉じ込め、外部からのコントロールで立ち向かわせる機龍(メカゴジラ)の基本設定や、本体の心がよみがえっての暴走、クライマックスの必殺武器の電力供給のために関東の電力を止めて送り届けるなど、誰がどう見てもネタ元は一つに帰してしまう。もっとも、死んだゴジラをサイボーグ化してよみがえらせ、現ゴジラと戦わせるアイディアはトライスター版「GODZILLA」の後日談のアニメ「ゴジラ・ザ・シリーズ」でも使われていたし、「エヴァゲリオン」の電力供給作戦"ヤシマ作戦"にしたところで、「原子人間」というハマー・プロ製作のイギリス製SF映画で主人公クォーターマス教授が不定形宇宙生物を高圧電流で焼き殺すために実行させた、ロンドン中の電力供給をストップさせて集中させる、いわば"クォーターマス作戦"からのイタダキアイディアと思われるためにアイディアを外部に求めること自体はそれほど悪いこととは思わないが、わかりやすすぎるのは問題である。
映画はどんな映画であっても時代を晒す。ゆえに本当の味はリアルタイムで観なければ分からないのが普通と言えば普通である。ところが、「ゴジラ×メカゴジラ」は現在観ると当時では出なかった味が出てきてしまっている。ゴジラは「放射能の象徴」の怪獣であるがゆえに、無敵なのだが、この当時、放射能や核兵器は人間に対する驚異としては捕らえられない社会風潮となっており、そこを前面に出してもリアリティーを感じられない傾向にあった。ためにゴジラのような怪獣による被害は一種の自然災害のような姿で表現さることが多い。本作はその最たるモノで、放射能表現はクライマックスに少し出る放射能除去装置(もちろんコスモクリーナーではない。放射性物質を洗い流す程度のもの)くらいなもので、あまり出てこない代わりに冒頭ゴジラが暴風雨とともに襲来し、上陸地点の人々は一時体育館などの避難所への退避を余儀なくされる様が描かれる。海からの自然災害とともに現れる放射能を破壊力に変える存在、ゴジラ。結果現在の日本人視点に置いてこれ以上は考えられないような大怪獣となってしまっているのだ。おかげで、映画館まで見に行った当時より今の方がはるかにゴジラを感覚的に生々しく感じられてしまう。こんな感覚を覚えた映画は本当に珍しい。時代が再びゴジラの元へ来てしまっていたのだろうか?
クライマックスは先にも書いた通り、機龍のために電力会社(劇中では語られないが、当然東京電力)に関東中の電気を送電に回させ、必殺武器を発動させる。その名はアブソリュート・ゼロ、絶対零度砲と語られているが、ようするに低温による冷却攻撃である。つまり、"自然災害と放射能の産物を倒すために東京電力が関東の電力を停電させ、その力で冷却処理を行う"わけだ。しかも、そこまでやってもその産物ゴジラを倒すことは出来ず、完全成功には至らない。今観るに、これ以上の皮肉な表現もない。当然2002年当時の制作者たちが未来のあり得る姿を予想して作ったとはさすがに思わないが、これこそゴジラなのだと却って関心してしまった。
別に「ゴジラ×メカゴジラ」は観客を怖がらせようと思って作った映画ではない。むしろ前作「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」が怖がらせようと意識して作った映画だけに、その反省かあるいは監督の性格によるものか、あくまで目玉は怪獣同士の格好いいバトルシーンにあるのだという主張が前面に押し出されている。その白眉と言うべきシーンが、明らかに「キングコング対ゴジラ」を意識して演出された、バックパックを切り離して火力が落ちた代わりに身軽になって異常なほど動きの速くなった機龍とゴジラの肉弾戦シーンである。
「キングコング対ゴジラ」で使われた演出、それは「観客から観て右手に位置する怪獣が優勢である」という定義である。これは歌舞伎の舞台における上手(かみて)の側、または相撲でテレビ画面で観るところの東の方。日本文化に置いて上・強い方とされる側に常に優勢な方を配置している表現方法であり、日本人ならば感性で感じられる上下関係表現である。それは後に幾多の特撮演出者が同様の表現に挑んでは失敗している演出でもある。それは、この画面構成ではどうしても立体的にならずに二次元的になるため、対決する両方に激しいアクションが求められるが、それは怪獣の動きに人間の動きが出てしまう、あるいはこだわる余り動きが少なくなってしまうという失敗と隣り合わせの危険なやり方でもある。また、その演出を行うには両怪獣(あるいはヒーローと怪獣)に同格性が求められる。格が同等だからこそ右手を取り合う陣取り合戦に演出者としての意味があるのであり、同格で無いのなら結局主役側を右手に配置した方が画面構成が栄えるからだ。ゆえにゴジラは優勢劣勢にあまり関係なく右手に居ることが多かったのである。それに対して本作ではゴジラを脇役に添え、機龍が主役であることに、本編演出が徹底させている。もちろん機龍もゴジラであるという設定もそれを手伝っている。それゆえに絶対的存在感と歴史を持つゴジラと機龍を、少なくとも本作に置いては同格に据えることに、ある程度成功している。それがやりたいがために本作は構成されたのではないかとすら思えるほどだ。ただ、現代人の視点で見ると、格闘ゲームではコントローラーの配置から見て自然に感じられる左手側にプレイヤーキャラクターが配置されるため、右手側を中心に見る習慣を持たない人も多いので右手側に画面の重心を置く方式は古いやり方と言え、必ずしも最善であったとは言い難い。が、それでも分かる人間としては、特撮マニアで有名な手塚昌明監督の見事な計算が心憎く感じられる。
なお、ディアゴスティーニの雑誌版はプルダウン処理できないらしく、PowerDVDのTRUE MOTIONの効果が発揮できないが、市販版のDVDを使うとそれが存分に発揮され、バトルシーンの迫力が倍増する。雑誌版を買ったのにわざわざそっちを出して観てしまった。
難点は二つ。その構成を保つために明らかにカメラが反対側に移動してしまった箇所があることと、機龍のジャイアントスイングが不自然に見えるところである。ここら辺は特撮演出の菊地雄一氏(ウルトラやアニメの演出経験者)にもう一つ凝って欲しかったところだ。それ以外の部分は新鮮な画作りが多くて面白くできているが故に、残念である。
ただ、そういう末端の部分が計算高い割に肝心の「生命」や「共鳴」と言った中盤までは軸となる話が後半どこかへ言ってしまうのは本末転倒と言わざるを得ない、甘い作りだ。その設定は次作「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS」に引き継がれ、そっちで完結するのだが、続編が前編を見ていないと少しわかりにくいというのならともかく、初めから宣言していない限り「完結は次作で」という一作でスッキリしない構成にしてしまうのは監督としては逃げの行為であろう。付かなかった決着に不満があるという当時のモヤモヤした気分も、やはり仕方のない話ではあった。
わたしは海外製の怪獣映画も数多くみていて、そちらの良さも十分分かっているつもりだが、それでもやっぱり日本製が一番面白いと思う。それは怪獣は畏怖される存在、神である(だからゴジラの英語表記はGODZILLAなのだ)というぶれない軸があるからだということが、今回改めて感じた。それだけに、バトルの決着は置いておいても、続編を意識しない作品にして欲しかったと今だからこそ思う。
![]() | ゴジラ×メカゴジラ [DVD] |
菊地雄一,富山省吾,三村渉 | |
東宝 |
昔の映像を知ってるだけに綺麗になっててびっくりでした.やっぱ綺麗になってると昔のものでもまた見ようという気になったりしてしまい通してみてました.
TVKは見られないので見たことはないのですが、最近のデジタルマスターは驚異的と思えるほど傷が消えていますね。
ただ、そっちに見慣れると今度は傷だらけの古い映像の方が懐かし映像にはふさわしそうだ、とか思えることもあります。
ゴジラ×メカゴジラは私は好きですよ。初代ゴジラ以後がリセットされるのは何度目になるんだろう?特撮シーンが異常に多くて単純に楽しみました。釈由美子のヒロインもカッコよかった。続編で交代したのはマイナスでしたね。
手が勝手に動いて長文になってしまいました(^^)
トリトンは一度見たことがあります。富野監督の原点という話でしたが、あの後味の悪い最終回は、よく怒られなかったなぁと思います。
「×メカゴジラ」はネタのイタダキがわかり安すぎるところと決着がつかないところ以外は好きです。この作品は、ある意味第一作すら完全に踏襲していないんですよ。第一作は骨も溶けて残りませんでしたが。「×メガギラス」もそうですが、踏襲していないからこそ第一作の再現映像があるところが面白いです。
>ニキビがあると楽しくないし・・・さん
すいません、第一作のBDは持ってないんです。日本映画専門チャンネルのHD放送が十分満足の行く画質だったもので。BD買ったのはDVDと両方画質が不満だったもののうち、発売されたものだけです。
宝田明氏のコメンタリーは、多分DVDと同じものだと思うんですけど。