先日お客さんとの会話の中で、
「なんでもかんでも、まずは値段から話がはじまるよね」
という話題になった。
どれだけ性能が良いとか、あるいは快適なものだとか、どれほど良い素材を使っているかとかいうファクターはどっかに置いといて
「それはいくらするんだ」
と直ぐに値段の話になる。
私もモノを買う際に値段は聞くが、それは「今、買えるか」ということのみであって、値段ありきではない。
最近の若者は車に興味がないという話を良く聞く。
それだけ娯楽が増えたということなのだろうが、本当にそれだけなのだろうか。
昔は車=ステイタスだったし、男なら助手席に可愛い彼女を乗せたい!、女なら好きな彼のファーストレディになりたい!といったことが大切だったように思う。
モテたい!
という一心で高級車を買う若者がたくさんいたもんだ。
それはただ安ければ良いと同義語の「それいくら?」という現在のそれとは間逆の価値観である。
最近の「ものの価値」というとまず最初に「値段」というもが注視される傾向に警笛を鳴らさずにいられない。
モノには価格という価値観があるが、同じくそのモノには別の価値観というものがあるものだ。
他人にとっては取るに足らないモノでも本人にとってはかけがえのないモノであったりするのも人によっては価値観が変動するという好例だし、どんな車に乗っているかで自分がどんな趣味を持ってどんなファッションを好み、どんな考えを持った人間なのかということを他人にアピールする最大のアイテムだったりしたのも価値観である。
そもそも「価値」というものは「良いという性質」「他よりも上位に位置づける理由のこと」あるいは「真・善・美などの絶対性をもつ性質」だったりするはず。
いつかモノを買うときはそのモノの背後にある歴史や文化、背景をも一緒に買うとブログに書いたことがある。そのモノに含まれたテイストも値段という単一の基準では到底評価出来るはずがない。
これだけモノが溢れた時代だ。市場も成熟してきてユーザーもいっそう目が肥えなければならないはずなのに、今の市場はとにかく安くて(コストパフォーマンズに)良いモノだけを求めているのではないだろうか。
私のモノに対する哲学は「自己表現するためのアイテム」だと捕らえている。パソコンに強くなくてもmacを使いたいし、アメリカ好きだからスピーカーもアメリカ製だ。モノに拘っているという自分を表現したいのだ。
誰とは言わないが、「俺は工具に拘りを持っている」と豪語するア○トロ使いのメカニックを見て絶句することがあるし、
ろくに工具を持たないで「今ある手持ちの工具でどこまで出来るか試しているんだ」と立派な事を言いながら平気で人から工具を借りるメカニック等
それがあなたの自己表現ですか?と聞きたくなる。
モノって値段だけですか?ってこと!
もっと見栄張って生きようぜ!
もっとカッコ良く決めようぜ!
もっともっとモノから溢れ出るテイストを感じようぜ!
以上!
カルバン高岡の前川君(写真)と越本くん(手のみ出演!)
「じゃあ記念撮影!」ってこちらから振ると
「じゃあもっと買うよ!かっこ悪いじゃん!」と
レンチを追加購入してくれた!
いいねえ!この見栄っ張り!男はこうでなくっちゃ!
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