Feel in my bones

心と身体のこと、自己啓発本についてとつぶやきを。

多様性とピュアリズム/イスラエルとヒズボラ/伊賀と伊勢

2006-08-11 08:20:42 | 時事・海外
今日も天気がいい。暑くなりそうだ。

昨日は新しい原稿に取り掛かる。わりあい自然に筆が動いているが、やはりところどころで考え込む。考えなければもちろん書く意味はないので考えるのはいいのだが、表現の仕方が幾らでもあることを書いているだけに書き方に迷うところが多い。それも「書く」ということの醍醐味の一つ。いろいろ考えながら書いてみたい。やはり書けば書くほどある意味余裕のようなものも出てくるし、肩の力も抜けてくる。文の選択の幅もひろがるし、やはりどんどん書かなくてはと思う。

歴史の方は昭和初期(5・15以前)について考えたが、大正時代に比べると少し勢いが下がっている感じは確かにする。なんというか、昭和になると「多様性」が失われる感じがするんだよな。特にこの時代に大きいのは左からの全体主義思想、つまり日本共産党の影響力だ。そしてもちろん満州事変以降は軍部の発言力も強まる。そして血盟団事件。右からのピュアリズム。やはり5・15、すなわち政党内閣の終焉で一つの時代を区切るのが妥当だなと思う。

昨日は仕事はまあまあの忙しさ。冷房がよく効いていて寒いので、昨日はカーディガンを羽織ることにした。どうも私は冷房は苦手だ。

SAPIOとビックコミックの新しい号が出ていたので買う。靖国「問題」をめぐり、小林よしのりとほぼ同じ考えであることが判明。まあ多分論理的に考えてそういうだろうなとは思っていたが。「左翼による昭和天皇の私的発言の政治利用に対する批判」はもっとなされるべきだ。

佐藤優がイスラエルとヒズボラの対立でイスラエルを全面的に支持すべきと言う意見を出していて、まあそれなりの説得力はあるなと思った。今回の戦闘がヒズボラの「拉致」によって始まったこと、北朝鮮のミサイル技術がイランに流れ、それがヒズボラに回っているという構造を考えればイスラエルの側に立つのがモラル的にも正しいということなのだが、なかなかそれは難しいな。イスラムとユダヤと、どちらの側に立つべきという明確な基準が日本にあるわけではない。石油の供給を考えればイスラム、アメリカとの関係を考えればユダヤ、ということになってしまうが、ことはそんな単純な二項対立ではない。

結局イスラエルというシオニズム国家の存在をどう考えるかということになって行き、現地のアラブ人を追い出して成立したイスラエル国家を倫理的に支持する思想はなかなか日本では用意できないだろう。だからといって現に存在する近代国家でありアメリカの支持とユダヤ人ネットワークを通して強大な発言力を有するイスラエルの存在を根底から否定することも現実的でないばかりか欧米の贖罪意識によって倫理的に強いサポートを受けていることを考えると倫理的にも危ない。

おそらくこの問題に関しては、日本でももっと根本的に考察が深められるべきなのだと思う。しかしそれを考えるためには日本の規範というものは弱いと痛感せざるを得ないが。

今日から伊賀・伊勢地方に旅行。中学の同級会に出席し、神宮を参拝してくる予定。よって13日夜までは更新できないと思います。皆様も良い週末を。




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ベートーヴェンとパガニーニ/20年代と80年代/オシム初采配

2006-08-10 10:01:27 | 雑記
今朝も良い天気。しかし遠くの山は白く霞んでいる。空気中の湿気がかなり多いようだ。FMで音楽を聴いていたらベートーヴェンの『エレオノーレ序曲』のあと、パガニーニがかかっている。パガニーニの書いたヴァイオリンの音はやはりいいな。しかし解説を聞くとパガニーニという人はかなり変わった人だったのだなと思う。なんとなく19世紀後半の人かと思っていたが、1840年に死んでいる。ちょっと興味を持った。

ベートーヴェン:序曲集「レオノーレ」第1~3番
レーグナー(ハインツ), ベルリン放送交響楽団, ベートーヴェン
徳間ジャパンコミュニケーションズ

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大正後半の時代のことを考えていて、いつも政治史ばかり考えているのだが、文化史や文学史をあわせて考えるとかなり時代の印象の広がりが違うなと思ってびっくりした。平野謙の分類した三派、「既成リアリズム」「プロレタリア文学」「新感覚派」というものをもう少し掘り下げて分析してみると面白いかもしれないと思った。あまりプロ文は読んだことがないのでちょっと読まなければならないものが多いけれども。大正後半の何でもありの雰囲気というのはやはりかなり面白い。いわゆるオールドリベラリストが成長した環境がこういう時代なんだろうなと思う。私などの20代の時代、つまり1980年代に似ている部分がある気がする。

『SUPER JUMP』の新号が出たので読む。今回印象に残ったのは「バーテンダー」だろうか。レモンピールが下に張り付いたまま浮かび上がってこないマティーニ、というのは飲んだことはないが面白い。

どうも最近、自分で思っているよりいろいろなことが頭の中を渦巻いているようで、それをどうかするのは結構大変だ。仕事をはじめる前、準備段階というのは確かにいろいろなものをインプットして行くのでそういうことになりやすいのは確かなのだが。できるところから適切にアウトプットして行くべき時期になっているということなのかなと思う。

オシム監督になって最初の日本代表の試合、とてもよかった。決めたのは三都主のツーゴールだったが、川口のコメントで「希望に満ちた動きをしていた」というのがあり、なんだかこちらも嬉しくなってしまう。どんどん頑張ってもらいたいと思う。

***

おまけ。アクセス解析を見ていたら「そして確かにこのふたりを選んで生まれてこようと決めたのだ」という検索結果からのアクセスがあってウケた。さてこれは何の台詞でしょう。ついでに「平原演劇祭」という検索結果もあった。みんないろいろなものを調べてるんだなと思う。




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MSウォークマン/感動と感想

2006-08-09 08:23:23 | 読書ノート
昨日帰郷。さすがに夏休みも本番のせいか、特急の車内はほとんど満席だった。普段は窓側の席が取れるのだが、今回は通路側。ただ、通路側は窓の外の景色は見えないけど、車内で手洗いに行ったりごみを捨てたり網棚の荷物を降ろしたりするには便利なので、混んでるときはむしろ落ち着く面もある。

今回は金曜から旅行に出ることもあって荷物が多く、またしばらく使っていなかったメモリースティックウォークマンを出してきてアンジェラ・アキ『Home』を録音し、ずっと聞いていた。というか昨日は書かなかったが横浜への行き帰りもずっと聞いていたのだった。

Home (通常盤)
アンジェラ・アキ
ERJ

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私は基本的にイヤホンとかヘッドホンというものが苦手なのでこういう物はあまり使わず、初代ウォークマンもCDウォークマンもあまり使わないうちに調子が悪くなってしまったのだが、MSウォークマンは機械仕掛けの部分がほとんどないせいか、そういうことはないようだ。ただ知らないうちに型はどんどん古くなり、メモリースティックのタイプも店頭ではMGマジックゲートというタイプがなくなっていた。月曜日、単なるマジックゲートを家の裏のヤマダ電機で買って合うかどうか試してみたのだが、ちゃんと録音出来たので助かった。

普段、電車の中では本を読むことがほとんどなのだが、横浜への行き帰りも今回の特急もアンジェラと別のメモリースティックに入れてあったルイ・アームストロングを聞いていたらあっという間に眠りに落ち、気がついたらもう長野県に入っていた。少し冷房が効きすぎていて、半袖のポロシャツの上に薄手のカーディガンを羽織っていたのだが、ズボンが麻だったせいか足元が冷えて困った。旅行のときも長時間冷房に晒されるからちょっと考えておかなければ。

東京で出かけるときには雨が降っていて、仕方なく駅までバスに乗ったのだが、郷里は晴れ。結局一日中、ずっと晴れていて、夜中に少しだけ雨が降った。今朝は晴れている。例によって朝は肌寒いくらい。今(7時45分)でもトレーナーを着ている。ただこれから本格的な夏の陽射しになりそうだ。空は怖いくらい青く明るい。遠くの山は、塗りたてのグリーンの絵の具のように緑色だ。夏は湿気が多いから、それでも少しかすみがかかっているのだけど。

関東の人の日記を読んだら今日は土砂降りのようだ。台風はあっちの方へ行ったのか。

最近睡眠時間が少ない傾向にあるが、昨夜は涼しかったのでよく眠れた。少し冷房病の気が出ているので気をつけなければと思う。

電車の中で(少しは起きていた)『文学界』9月号を読む。高橋源一郎「ニッポンの小説」は小島信夫『残光』。これを全文引用で批評しようという試みだ。高橋という人はあまり読みたいと思ったことはないのだが、こういうエッセイ的なものは時に面白いことがあるのだなと思う。小島という人は全く奇妙な作家で、どの小説も最後まで読めたことがないのだが、ある種の人びとにはたまらなく面白いらしい。私は基本的に(今のところ)小島ワールドには縁なき衆生のようだが、好きな人が情熱的に語るのを読むのは面白い。その向うに空トボケている小島が見える気がして可笑しい。

文学界 2006年 09月号 [雑誌]

文藝春秋

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残光

新潮社

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鴻巣友季子「カーヴの本棚」。これは書評だが、ワインに喩えた本の雑談という感じ。鴻巣はクッツェー『恥辱』の訳者でもあり、この癖のある小説をみごとに訳している人はどんな人なのだろうという興味はある。「ワインの質を計るのに信用できる指標がたった一つあるとしたら、それは余韻の長さである」と言うワイン・ジャーナルの記述がなるほどと思わせる。私が今まで飲んだワインで一番印象に残っている、つまりその余韻が今でも口の中で思い出せるワインは10年程前だったか銀座かどこかの道場六三郎の店で飲んだボルドーだった。あれはとんでもなく美味くて、鴻巣が書くように「フラッシュバック」がある。私は舌の記憶はそんなにある方だと思わないが、あれはよく覚えている。シャンパンでは浦安のベイヒルトンで飲んだルイ・ロデレールが一番美味かったが、そこまではよく覚えていない。あのボルドーを思い出すと、シャンパンもきっともっと美味いのがあるに違いないと思う。いったいいつ飲めるのかは見当もつかないが。

話はずれたが、要するに作品をワインに喩えて語っているのである。詩人の荒川洋治に「感動とは忘れ去ることであり、感動をこえて残っていくのが感想だ」という言葉があるらしい。つまりその場で感動し、直ぐ忘れ去られるワインや作品は幾らでもあるが、その後に感想、つまり余韻が残るのがよいものということになる。ちなみに「感想の出ないワイン」について、「そういうのは、娼婦のワインというのよ。余韻もなにもあったもんじゃない」というワイン生産者の言葉を紹介しているが、含蓄がある。娼婦を買ったことがないのでへえそういうものですかとしか言いようがないが。ただ感想の残らないセックスというのはあるのかもしれないなとは思う。少なくとも後味の悪いそれは…止めておこう朝っぱらから。

『文学界』も3月号からずっと買っているが、続けて読んでいるとあまり普段は関心のない作家の連載を読むことで好奇心から読んでみようという気が起こったりもする。雑誌の力というものはやはりあるなあと思う。





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文学の中にある断絶/メロンとフジタ

2006-08-08 09:12:58 | 雑記
きのうはいろいろと用事を片付けた後、3時過ぎに出かける。地元の書店で『文学界』9月号を買い、電車の中で読む。佐藤優「私のマルクス」が面白い。ある種の青春アドベンチャーだ。高校1年で単身社会主義圏を旅行するというちょっと破天荒なことをする行動力のある人なのだ。そのほかの記事はまだあまり読んでいない。文学がいま抱えている課題というのは何なのか、いろいろな形で考えてみているのだが、そもそも「課題」という考え方と「文学」という営みとがそぐわない感じもする。そこが作家と批評家の深くて暗い河なのだろう。

文学界 2006年 09月号 [雑誌]

文藝春秋

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横浜に出かけ、友人に頼まれたパソコン関係の疑問解決業を延々と。外語大に合格した娘とも会ったし、なんとなく充実はした。しかし人のパソコンというものは扱いにくい。帰りは終電になった。だいぶ感謝されてメロンをもらい、藤田嗣治の『腕一本』を貸してくれた。(借りたのは単行本。装丁がさすが。)

腕(ブラ)一本・巴里の横顔―藤田嗣治エッセイ選

講談社

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おととい昨日と東奔西走ならぬ北奔南走だったが、これから帰郷して週末は関西。忙しいが久しぶりで、楽しみでもある。

アンジェラ・アキの『情熱大陸』を何度もビデオで見返している。



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平原演劇祭2006/アンジェラ・アキの『情熱大陸』

2006-08-07 06:44:01 | 雑記
昨日。いろいろやった後、夕方から東武動物公園に出かけて、平原演劇祭2006を見る。

いくつかの劇団を見たが、ラストの『桃と安酒Z』がお目当て。大駱駝鑑出身で、つまり土方巽―麿赤児の暗黒舞踏を受け継ぐ安田理英とモダンダンス出身の牧桃子、プログレッシブな音を追求する鍵盤奏者酒井康志のユニットだが、今回は踊り手・演奏家とも応援を呼び、かなり大規模な公演となった。

進修館中庭という場所がなかなか味わい深く、ちょうど花火が上がったり月が出たりして風情も良好。題材はチュツオーラ『やし酒飲み』というアフリカ文学だが、アフリカに留まらず世界の化け物、魑魅魍魎の世界を醸し出していた。

やし酒飲み

晶文社

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黄色い貫頭衣的な衣裳に面をつけた安田の踊りは強くアフリカを感じさせ、彼女の踊りの充実ぶりに舌を巻く思いがした。個々のディテールはいろいろ興味深いものがあったが、全体にお祭り的な混沌としたパワーの中に、クラシカルなものさえ感じさせる静謐な瞬間があった。屋外の公演であるだけに、ディテールよりも野太さが要求されたが、だからといって細部が疎かにされたわけでないのがよかった。安田主宰の『ささらほうさら』の面々の金粉もあり。

終演後主催の高野君に聞くとスタッフ一人でやっているそうで、超人的な話だ。酒井君・安田さんとも話しをしたが、途中でPAが飛んでてんてこ舞いになったりしたといい、それを乗り切るアコースティック楽器の充実がよかったのだなと思った。久々にいいものを見た。

それにしても東武動物公園は遠い。村上春樹訳『世界の果て』という書名を思い出した。行き帰り半蔵門線住吉まで歩いたが、やはり30分はかかる。それもたまにはいいかと思ったが。

ワールズ・エンド(世界の果て)

文藝春秋

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思ったより早く帰ったので、夕食を取りながら『情熱大陸』のアンジェラ・アキを見る。彼女は、実は目は悪くない、というのが昨日の最大の発見。東京タワー「メガネっ娘ライブ」はいままでも何度かでてきたが、それにしても本当に売れっ子だな。徳島、ワシントンとロケで撮影。相変わらず心のしみる歌声だ。結果的にビデオも撮ったし、また見よう。

Home (通常盤)
アンジェラ・アキ
ERJ

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原爆忌/「モーツァルト 神か天才かそれともアホか」

2006-08-06 09:30:01 | 雑記
今日は原爆忌。アメリカが広島に原爆を投下し、世界最初の核兵器が日本に対して使用されてから今年で61年。ある意味遙か昔のことだが、こうの史代『夕凪の街 桜の国』といった優れた作品が生み出されるほどには、日本の人々にまだ大きな傷跡を残している。起こったことは取り消せない。そこから生まれる無数の物語が、せめて未来になにかの美しさを残すことが出来ればと祈るばかりだ。原爆に関連したたくさんの記録、作品を子供のころから無意識のうちに見てきているけれども、ここまで珠玉に昇華された作品はないような気がする。逆に言えば、記憶が生々しいうちは、この美しさは受け入れられなかったと思う。60年たったからこそ、こうした表現が可能になり、また受け入れられたのだと思う。そして、まだまだ受け入れられない人は、おそらくいるのだと思う。

夕凪の街桜の国

双葉社

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昨日はあまり動けずにいたが、朝気付いてこれは冷房病だと思い、膀胱系を活性化させる行法をいくつかやってみる。効果はかなりあったように思う。下半身のケアを怠っていたということを痛感。足は第二の心臓というが、腰から下が実際には体全体の健康にかなり大きな役割を果たしている。頭や眼、腕や指などどうしても認識しやすい場所に意識が行ってしまうが、どうもそれだけではないような感じがしていた。夏はじっとしていると気持ち悪いが、だからといって冷房をかけて休んでいてはだめなのだと痛感。熱中症になっては困るが、なるべくからだを動かした方がいい。体の中に夏をためておけ、やがて秋が来て冬が来る、とは石森章太郎の初期作品、『ジュン』にあった言葉だが、それは正しいなと思う。

ジュン

小学館

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昨日は早く寝るつもりだったのだがつい夜更かししているとテレビで『私のこだわり人物伝』という番組をやっていて、「モーツァルト 神か天才かそれともアホか」を4回分まとめて再放送していたのをつい見てしまい、3時過ぎになってしまった。今年はモーツァルト生誕250年ということでそこらじゅうでモーツァルト特集をやっているが、自分が聞いている作品にはかなり偏りがあるので、語られるエピソードや、小米朝師匠が推薦する20曲というのをチェックしつつ見た。

第1回のゲストは池田理代子で、この人がソプラノを歌っているのははじめてみたが、「芸術家の苦しみの上に私たちの鑑賞が成り立っている」という言葉には深く頷かされるものがあった。やはりものを作る人の言葉は違うなと思う。この回に紹介された作品ではK.364協奏交響曲とK.495ホルン協奏曲が印象に残った。

モーツァルト:ホルン協奏曲第1番
ブラック(ニール) シヴィル(アラン), シヴィル(アラン), アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ, マリナー(サー・ネヴィル), モーツァルト
ユニバーサルクラシック

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第二回のゲストは指揮者井上道義。この人、存在自体がインパクトがある。(彫りが深いと思ったらお父さんはドイツ系アメリカ人なのか。後で知る。)「コシ・ファン・トゥッテ」が話題に上ったが、モーツァルトのオペラは日常性を持ち込んだところが革新的だ、という話が興味深かった。日常的・等身大のことを描きながら芸術的というのはある意味凄いことだと思う。どこで読んだか忘れたが、中国のアニメ事情を取り上げたものの中で、今でもやはり日本アニメの方が人気があり、それはたとえばヒーローものでも小学生や中学生など、身近な人間がそういう能力を得て戦うという、主人公が等身大・日常的であるところに魅力がある、という話を思い出した。考えてみればほかの国のアニメでそういうものはないかもしれない。オペラという最高の舞台に見慣れた庶民が出てきてある意味くだらない恋の鞘当を最高のメロディで歌うという発想は、当時やはり相当衝撃的だったんだろうなあと思った。この回に紹介された5曲のうち3曲は持っていた。

第三回のゲストはジャズピアニスト小曽根真。モーツァルトには無駄な音がない、技術が裸にされる、というのはそうだなあと思う。私もたとえば小説なら、無駄な言葉がない、読み手に緊張を強いるような作品が描けたら最高だなあと思う。「モーツァルトの自信とは、音楽を信頼していく力、魂をすべて音楽に委ねる力」というような表現に当たるともう「生きててよかった」という気持ちになる。「変なエゴがない、神の曲」だというのはなるほどと思うし、小米朝がそれに相槌を打って「惟神(かんながら)」だ、といっていたのもうーん、と思った。音楽の自然な流れに委ねて描き続けるのが楽しくて仕方がない、その自然な流れを見出せるというのがまさに天才ということなのだろうと思うけど。小林秀雄とかが魅かれるのはまあもっともだ。この回に紹介されたものではK.620『魔笛』をぜひ聴いてみたいと思った。断片的にしか見たことも聞いたこともない。

魔笛*歌劇

ユニバーサルクラシック

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第四回のゲストはふたたび井上道義。インパクトのある親父がハープシコードを弾いていた。人間は死ぬまで自分が死ぬとは思わない、と言っていたがあまりにベタだが「きのふけふとはおもはざりしを」の在原業平を思い出す。死を不浄のものとして遠ざけてはいけない、いつも傍においていなくてはいけない、という言葉は精神の緊張を必要とする音楽家には全くふさわしい言葉だと思った。締めで小米朝が「ムダの多い人生とムダのない音楽」とまとめていたが、モーツァルトを表現するにはわりあいすっきりした言葉だと思った。この回紹介されたものではやはり「コシ・ファン・トゥッテ」が聞いてみたい感じだった。

コシ・ファン・トゥッテ*歌劇

ユニバーサルクラシック

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さてそろそろ終わりにして、8月の空の下を歩いてこなければと思う。夜には出かけるし、『情熱大陸』はアンジェラ・アキだ。間違いなくビデオをセットしておかなくては。





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頭を使ってはいけません/亀田世界戦苦情対応マニュアル/サッカー日本代表13人/靖国問題は中国問題

2006-08-05 23:56:16 | 読書ノート
昨日上京。整体でからだを見てもらったとき、「頭をゆるめないといけません」、ということばが「頭を使ってはいけません」、と変に変換されてしまったような感じで、どうも何をやるにもあまりやる気が起きずに困った。まあ確かに頭を使いすぎているのは事実で、その言葉を都合よく怠けるのにからだの方が利用している(私の身体はそういう意味で相当現金でわれながら赤面する)ような感じだ。帰りの特急の中でもほとんどうつらうつらしていたし、地元の駅で降りてから『王様の仕立て屋』の11巻を買って帰り、2時過ぎまで新しい巻と古い巻を何度も読み直していた。

王様の仕立て屋~サルト・フィニート~ 11 (11)

集英社

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『王様の仕立て屋』ではベアトリーチェというキャラクターがファンサイトで一番人気になっていたが、確かに彼女が一番キャラが立っているだろう。「押しの強い女」を描くのが得意な大河原遁のキャラクターの中でも、一番楽しんで描いている感じがする。躁狂的な陰謀好きなのに角々がピシッとあってる女というのは作者自身の方向性に一番マッチしているということなのかもしれない。しかし脇役だから生きてくるキャラではあると思うけど。相変わらず面白い。

今朝起きたのは9時ごろで、その後ものたのたしていた。だいたい頭を使わないと何一つ出来ないんだよなあと全く頭に頼りきりの生活をしてるということに改めて気がつく。これで頭がろくに動かなくなったら全くの無能という感じだ。ボクシングが出来るとか、偉大なことなんだよなあと思う。

こういう日は断片的な情報を拾ってきて断片的なことを考えることが多い。だから何なんだ、というような。亀田の世界戦の問題は下手するとどんどん広がりそうだ。しかし上村愛子のサイトとかに暴力的なコメントを書き連ねる輩がいるとか、そういうのはちょっとどうかしている感じがするなあ。TBSとか背後関係的に話題になっているところに書き込みに行くとかならまだ理解可能だが。

勝谷誠彦氏の日記は従来からよく読んでいるが、TBSの内部文書とされる苦情対応マニュアルはいろいろな意味で面白い。1990年代、オウム報道に関連して一度だけ朝日新聞に電話をしたことがあるが、木で鼻をくくったような、というより学生のサークルに電話したらわけのわからない返事をされた、に近いような対応をされたことがあるけれども、それに比べると相当「洗練」されている。「皆さんのご意見は今後の番組の参考にさせるよう真摯に受け止めさせていただきますとだけ答え、決しては謝罪しない」とか、「話の長い視聴者よりの電話にはとりあえず付き合い、「はい」などと時折合図地(原文ママ)をうつ(この際なるべく神妙な態度を装う事)」など、結構笑えるし(「合図地」という誤変換がそのままになっているのはご愛嬌だが)、そういえば電話や店頭で苦情を言いに行ったときにこういう対応をされて気分を害したことがあったなということが思い出されたりした。

まあ「苦情」というのは真剣に受け止められることは少なく、たいていの場合適当に「処理」されるに過ぎないのだが、というか自分も苦情を言われる側になったらある程度はこれに近い対策を組む場合もあるだろうなとは思うのだけど、ここまであからさまだと苦情を言うのもそれに対応するのもばかげた無駄な茶番に過ぎない感じだ。

それにしても私自身が全く関心を持たなかった、というか無意識下で完全にスルーしていた試合に世間が多大な関心を持ち、その余波が相当続くというのもなんだか不思議な感じがする。

***

オシム監督が初の代表召集に13人しか呼ばなかった、というのはいきなり「やるなあ」という感じ。東スポによると(今日はジャンクっぽいネタが多いな)、闘莉王選出には裏がある、ということらしいのだがこれはまあへえ、という感じ。こういう機会機会をとらえて報道機関や日本サッカー協会、選手たち、一般のサッカーファンに対してもメッセージを発信していくというスタイルは、大局観を持った人なんだなと強く感じさせる。どういう練習をし、どういう戦いをして、どんなサッカーを見せてくれるのか、期待が膨らむ。

***

夕方日本橋に出かけて街をぶらついていたら、「手相の勉強をしているんですがご協力をお願いします」という男に声をかけられて30歩くらい付きまとわれた。これで3回目くらいかな。同じ男だと思うのだが、人の顔も覚えられないような男に手相を観てもらいたいとは思わないな、と思った。丸善で立ち読み。毎年この時期になると「あの戦争」ものが増えるが、今年は保守系の立場からのものが相当多い。まあビジネス街の日本橋であるせいもあるんだろうけど。最近松本のパルコの地下のリブロで本を見たとき左翼系史観の本がずらっと並んでいてちょっとめまいを覚えたことがあったが、こういうのは本屋によって全然違うんだろうなと思う。特に田舎ではあまり本屋の数もないから、行く本屋によって「今日本の趨勢はこうなんだなあ」と思ってしまうんだろうなと思う。私など書籍の情勢に左右されるところの多い頭に頼った生活をしている人間は簡単に洗脳されるんだろうなと思う。しっかりしなくちゃだめだ。「ソトコト」が面白そうだなとは思ったが、結局買わなかった。

何冊か立ち読みし、「靖国問題の本質は中国問題だ」といっている本が何冊かあって、その論旨には基本的に賛同した。つまり、靖国参拝について中国と同じ見解を言っていた民主党前代表の前原氏が中国に行った際、首脳部と全く会談ができなかったという事実の指摘だ。つまり、中国側は「首脳会談ができないのは靖国神社に参拝する小泉首相のせいだ」と問題を矮小化し、「小泉純一郎ヲ相手ニセズ」という態度を取っているけれども、現実には靖国参拝問題で中国側に同調しても首脳会談は「していただけない」ということなのだ。

なぜ中国が前原代表を袖にしたかというと、彼が「中国脅威論」を言ったからだ。つまり軍拡と援助の「飴と鞭」のような政策で勢力拡大を図る中国は、いまいちばん嫌なのは周辺諸国に「中国脅威論」が起こることなのだと思われる。つまり、「東アジアの平和を乱すのは首相が靖国参拝をする日本だ」とすりかえることによって現実の中国の危険な軍拡から国際世論の眼をそらすのが第一の目的なのだ、ということになる。まあこの指摘は全くもっともだ。

そう考えてみると、馬鹿な政治家や畑違いの新聞社が政局のチャンスと考えてこの問題を煽ろうというのは「中国の掌」で踊る愚かな行為であることがよくわかる。純粋な国内問題を外交に結び付けて得点しようというのがどんなに危険な行為であるか、全然分かっていないとしか思えない。永田メール問題で自爆した前原は全く愚かな党首ではあったが、この問題に関してはある意味いい線を行っていた。

この問題に関しては年配の政治家は全くだめだという傾向がある気がする。国際社会における毅然とした態度、というものが馴れ合い談合政治の中で台頭した旧世代の政治家には全然わからないのだろう。そういう意味から考えると、次期首相はやはり安倍晋三に代表される「団塊後」の世代から出なければだめだと思う。

夜になってもろくに頭が働かない。物はほとんど読んでいない。

***

追加、というかおまけ。中国は朝貢外交を迫っているという安倍氏の認識。まあそれがまっとうな認識だろう。1992年の天皇陛下の訪中の際、中国側は印章を「プレゼント」しようとし日本側が拒絶して事なきを得たことがあった。中国、あるいは日中関係を論じる際には、中国はあの手この手で属国化とは言わないまでも外交的に優位に立とうとしているということは忘れるべきではない。是是非非で付き合っていくべき国なのだ。まあどこの国に対したってそうなんだけど。

何というか、日本の「保守」政治は腐ってるなと思うのは、中曽根その他の引退した政治家や少しでも総裁選に名前が出た政治家が「安倍包囲網」に参加するために嬉々として「参拝しないよん♪」と言い出しているところだ。「絶対優位」の安倍をいたぶって溜飲を下げているようにしか見えないが、その結果がどんなに重大なことを招きかねないのか、全く目が眩んでいる。いやそれ以前に何も見えない無明状態なのかもしれないが。

こんな連中に取り囲まれて政治に取り組まなければならないというのは安倍氏には心から同情せざるを得ないが、せめて一有権者としてエールを送りたいと思う。志を高く持ち続けてほしい。



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対英米協調主義と反米主義の起源

2006-08-04 10:58:17 | 読書ノート
ようやく本格的な夏がきたなあという感じ。真昼は暑い。朝夕は結構冷え込むし、乾燥するのだが。

昨日は里帰りしていた妹が予定日より早く出産したため、家中が忙しくなり、私は松本に行くついでに甥を連れて松本城の見学に行くことになった。小学4年生というものがどのくらいの速さで歩くのとかあまりよく自覚していなかったので結構早足で連れ回してしまったようだが、それについてきたので偉いものだと思った。いろいろ説明してやっても結構理解しているようだったが、高いところに上るとどこに上っても「ここから落ちたら死ぬかな?」とかそう言う質問ばかりするので小学生だなと思った。博物館も同じチケットだったので行ったのだが、剥製のモンゴル犬を見てびびっていたり、福島中佐の長靴を見て「なんでこんなの展示してるの?意味ないじゃん」とか言ったり、やっぱり小学生だった。門を出たそばの蕎麦屋で天ざるととろろ蕎麦を食べたが、ちょっとやろうと思っててんぷらを食べさせたらおいしいといってどんどん食べたのでこっちはちょっと困った。(笑)結局山菜御飯を追加注文して小腹を癒えさせたのだが。

夜の仕事は比較的暇だったが、飛び入りがあったのでまあまあやることがあった。

中村隆英『昭和史』を読み直す。これもだいぶ前に読んだものだが、ちょっと調べなおすことがあって最初の方だけ読んでいたのだが、現在問題になっている外交方針で、「対英米協調」か、「反英米」かという路線争いはベルサイユ―ワシントン体制の成立によって始まったのだなと気がついた。そして「対英米協調」の目的は、いずれも東アジアにおける伝統的な中国の脅威、18世紀以来のロシアの脅威に対抗することだ、と理解する。この時点では中国の脅威というより東アジアにおいてより有利な地歩を占めるため、ということになろうが、そのために英米協調路線を選んだ原内閣と、それを英米の世界支配に利用されるだけだと反発する強硬派の対立が起こったということなのだと思う(もちろん19世紀以来英米の脅威も存在するわけだから)。倫理的に考えれば英米植民地主義と強調することを拒絶する後者の方が筋が通っているように見えるが、こちらの考え方には戦略が欠けている。

昭和史〈1(1926‐45)〉

東経

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一方、中国にとって見れば伝統的な北方遊牧民の脅威がロシアの脅威に連続し、19世紀以来の英米の脅威、19世紀末以来の日本の脅威が存在するわけで、脅威に負けない自国のパワーの増大に力を注ぐと同時に周囲の勢力とどのように合従連衡するかという問題が常に存在している。それが最も端的に現れたのが第二次世界大戦で、ロシアと結びつく共産党、英米と結びつく国民党主流(蒋介石派)、日本との同盟を試みた国民党汪兆銘派が三つ巴で争い、最終的に共産党が勝利したわけだ。毛沢東主義がナショナリズム化した文革期にはロシアとも英米とも日本とも対立していたが、現在ではロシアと和解し、英米とは取引をしつつ、日本を懐柔したり恫喝したりしているというところなのだろう。もちろんそうした同盟関係は常に流動的だからどう変化するともわからないが。

日本において、英米協調派が具体的な方策を常に打ってきているのに比べ、反英米派の戦略は定まらない。ただ対米追従一辺倒の危険性も常に考慮すべきなのだが、そうしたグランドデザインがどの程度政治家にあるかということはかなり重要なことだろうと思う。今のところ、そうしたはっきりした思想が見えるのは安倍晋三くらいしかいないのではないか。

話はずれたが、そう考えてみると第一次世界大戦後に生じたアメリカの覇権(世界外交のヘゲモニー奪取)は現在も続いていて、それを東アジアの現実に合わせてどう戦略を組むかというのが外交政策の基本ということになろう。

そう考えていくと、安保理の常任理事国体制も、中国にとってはどう考えても現状がベストなのに対し、アメリカにとってはもっと自己に有利に改変するべきものであろう。日本がここに食い込むのはつまりは中国とロシアの既得権を侵害することになるわけだから、相当な外交努力が必要なのは当然だ。

ちょっと取りとめがなくなったが、そんなことを考えた。

そうそう、ちょっと時代を感じたのが、叙述がロシア革命から始まっていたことだった。確かに昭和の終わりと冷戦の集結は重なるので、そういう感慨はあるだろうと思うのだが、もはや2006年の現在においては社会主義は過去のもので、現在の世界を説明するにはあまり有効でない感じがする。


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貿易立国から投資立国へ?

2006-08-03 17:39:05 | 時事・国内
2005年度、ついに貿易収支の黒字よりも所得収支の黒字が上回ったことを知った。

これをもって日本が貿易立国から投資立国へ移行しつつある、という人があるが、どうなんだろう。

貿易収支の悪化は原油価格の高騰が最大の要因。所得収支の伸びは海外に移転した現地法人への投資からの配当金などだが、2005年に限っては内外の金利差から米国債などへの投資が増えたためということらしい。

国内産業、特に地方が必ずしも経済が上向きにならない中で投資家や金融資本が儲けているというのはまあそういう現状を反映しているのだろう。

日本人の体質として、投資の利益が国際収支のほとんどを占めるというところまではいかないだろうが、産業が立ち行かないままではやはり自壊していく気がする。

しかし一方で、投資による収益の確保をある程度は心がけていかないと、今後とも「格差」は広がる一方になるだろうなあ。勤勉で正直な古いタイプには、難しい時代になりつつあるということは言えるだろう。新しい時代に見合った新しい倫理が生まれるとよいのだが。
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岡田英弘『歴史とはなにか』

2006-08-03 16:14:59 | 読書ノート
昨日。なんとなく疲れてしまってあまり調子が出なかったのだが、仕事の頃には回復。それなりに忙しい。水害の後遺症がいろいろ出てきて困るのだが、徐々に解決していくしかないという感じ。

岡田英弘『歴史とはなにか』(文春新書、2001)再読、読了。歴史に関するさまざまな卓見が書かれていてなるほどなあと思うことが多い。ただ深く感動するということでもないのは、哲学的な部分、思索的な部分がないからか。しかし逆にそれが歴史をイデオロギー化しないということかもしれない。

歴史とはなにか

文藝春秋

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歴史の本質は「認識」であり、また「科学」ではなく「文化」であるから、その文明によって歴史のあり方はさまざまだ、という話はなるほどと思う。本質的に歴史を文化要素としてもたない文明がある、という話もなるほどと思う。インドが非歴史的な文明だというのはよく言われることだが、イスラムもそうだ、という話ははじめて考えさせられた。イスラムでは「未来は神の領域」であり、神の意志が貫徹する場であって、人間が「正確な予定表」を作ることなど神を冒涜する行為だ、と考えられているというのはなるほどと思う。しかし、歴史を記述しておかないと地中海文明世界との論争に勝てないため、つまり「武器としての歴史」は持つようにしているが、歴史は本質的な文化要素ではなく、付加的・補助的に過ぎないため、論争でもなかなか西欧には勝てない、という話はなるほどと思った。

この本は2001年7月に買って読了したという記録があるので調べればその時に感じたことも書いてあると思うが、現代中国が日本式の国民国家を目指していて、その弊害が中国に現れているという話が印象に残ったことを思い出した。この本は確かに面白いのだが、あまりにいろいろなことについて書いているので散漫な印象になっていたことも思い出した。ただ、著者としては、自分の意見が各所で拒絶的な反応を呼んでいることをよく自覚していて、そういう意味で当り障りのない表現にしようとしているところが多く、意識してあまり一つの論点に集中的に突っ込んでいかないところは今回読んで感じた。日本史や西洋史に論及したところは何を根拠に言っているのかと思うところが多少ないこともなかったけれど、こういうスタイルだと論理が少々飛躍するのは仕方ないのかもしれない。

歴史の本質は何か、ということは私もよく考えていた問題で、それは認識だ、と言われるとなるほどなとうなずくところがある反面ある意味あまりに機能的な表現であるため納得しきれない部分も残る。そういう言い方をすればあらゆる学問は本質は認識で、知見を広げ、深めていくことが学問の使命ではある。確かに歴史は認識であって、行動の基礎にはなるが、どう行動するかは歴史の関知する問題ではない。しかし実際にはその行動まで規定しようとする学者が多いから歴史にイデオロギーが入り込むことになる。

そういう歴史は「良い歴史」ではなく「悪い歴史」である、と岡田は言う。神話やイデオロギーを去って記述された歴史こそが「良い歴史」であるが、それは多くの場合反感を買うと。確かに東アジアのようにどこの国も神話とイデオロギーが社会や国家権力を支えている地域では「良い歴史」は誰にも受け入れられないだろう。ただその「良い歴史」であってもそれは「科学」ではなく、「文学」(この用語が妥当かどうかは別にして)だということを岡田は言っていて、それはそういう前提を持つことは重要だと思う。歴史において科学という概念は必ずドグマ化する。

今回読んでいて思ったのは、岡田は必ずしも「悪い歴史」を排除しようと考えているわけではない、ということだ。どの国民も民族も、自らのアイデンティティを必要としていて、時にはそれが神話やイデオロギーでなければならないときもあり、それから作られた悪い歴史が必要なときもある。それは、「歴史は武器である」と言う側面から、自らを守ったり周辺諸国と争ったりするために必要だからだ。別のところで読んだが、モンゴルはソ連に完全に民族史を奪われて、冷戦後の今、ものすごいチンギス・ハーンブームになっているのだという。そこで読んだが、チンギス・ハーンについて彼らはまだ一般に何も知っていないのだという。中国やロシアやヨーロッパではチンギス・ハーンは悪役だし、そういう意味で関心がない。実は日本人がチンギス・ハーンについて最も一般の人びとが知っている国民だ、ということらしい。本来モンゴルの研究者である岡田はそういう悲哀をよく知っているので、「悪い歴史」に縋ろうとする心理もあながち否定できないということのように思われる。

だからといってよい歴史を書こうとする努力は否定されるべきではない、いやむしろかかれるべきだというのが岡田の主張で、「史料のあらゆる情報を、一貫した論理で解釈できる説明」こそが「歴史的真実」であり、それに基づいて書かれる公平な「良い歴史」が書かれることによって、対立はおさまりかなり解決できるのではないかと言っている。

ただ岡田も言っているように、世界に起こる事象は必ずしも方向性はない。しかし当然、歴史は方向性を持って叙述されるわけで、そこに論理的な無理はどこかで必ず生じる。というか、大胆な論理であればあるほど無理は生じるし、その極地が歴史は発展するという観念だろう。岡田のこのあたりの議論はもっと西洋史等での議論を踏まえてして欲しいという感じはあったが、まあ言いたいことは分かる。私が思うのは、やはりその論理はあくまで仮説であるということで、それについては岡田も力説しているが、たとえ仮説であっても「歴史」としてかかれたものは人々の観念を非常に強く規定するということで、だからこそイデオロギー闘争の場にもなってしまうのだが、論理が勝つことによって論理に掬い取りきれない微妙な真実が犠牲になりることを怖れるのである。そしてその微妙な真実こそに人びとがアイデンティティをおいていることが特に日本文明などでは多いために、論理の無神経な無機質さをおそれるのである。

そのあやを微妙に生かしていくのが歴史叙述の真髄だと思うのだが、なかなか大変なことであるのは事実だなと思う。





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