Feel in my bones

心と身体のこと、自己啓発本についてとつぶやきを。

高校野球決勝戦/『福田和也の「文章教室」』/アメリカ型リベラル……?

2006-08-21 09:20:26 | 読書ノート
昨日。相変わらず調子が悪い。腹の具合は収まっているのだが、歯茎の裏が腫れてきた。なんだか夏の疲れがいろいろな形で出ているらしい。万全の体制で仕事をスタートさせたいのだが、なかなかそうも行かない。だましだまし何とか軌道に乗せなくては。

高校野球決勝戦、凄い試合だった。途中から見たのだが、結局延長15回まで全部見てしまった。両投手が凄い。駒大苫小牧は不祥事の連発から選抜辞退を招き、ずいぶん大変だったようだが、それを乗り越えての決勝進出、実力もそうだが精神的なタフさにかけては素晴らしいものがある。北海道出身の人たちも一生懸命応援しているが、それは選抜辞退というどん底から立ち上がったということも大きいだろうと思う。対する早実。共学になったとは知らなかった。国分寺に移転してからなのだろうか。名実ともに東京西部の学校になったという感じだ。あのごちゃごちゃした早稲田近辺、最近行ってないけどどんな感じに変わったのだろう。

最近高校野球に興味を失って全然見ていなかったが、今回の決勝戦は感銘を受けた。試合のレベルも高いし精神力も凄い。引き分け再試合で今日また試合、というのは相当辛いと思うが、選手の将来性も視野に入れつつそれぞれのベストを尽くして好試合を行って欲しいと思う。

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夜になってから町に出かけ、駅前の本屋で福田和也『福田和也の「文章教室」』(講談社、2006)を買う。作家志望の人のための小説案内という感じで、なかなか面白い。福田という人が実は繊細なセンスの持ち主だということがよくわかる。

福田和也の「文章教室」

講談社

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福田は日本の文芸評論家の中で数少ない村上春樹を高評価する人なのだが、村上について一言で言ってしまえば愛とか恋とか魂とか懐かしさになってしまうけれども、いまだ名づけようのない、「なぜかはわからないままに涙が出てくる」、「超越的な」感情を表すのがうまい、と述べていて、なるほどうまいことを言うなあと思った。「愛じゃなくても恋じゃなくても君を離しはしない/決して負けない強い力を僕は一つだけ持つ」というのはブルーハーツの『リンダ・リンダ』だし、「かたじけなさに涙こぼるる」といえば西行だが、そういった感情というのはユニバーサルなもので、確かに村上はそれを描くことに成功しているし、日本の批評家の多くはそれをとらえることに失敗している、と思う。こういう感じ、というもののうち日本ローカルなものを描く人もそうはいないけど、まだわかりやすいと思うが、村上の描くものはもっと世界に開かれている感じがする。イシグロやル・クレジオ、クッツェーといった最近読んだ文学者にもそういうものを感じる部分があるし、そういうものがある作品が私は好きだなと思う。

ただこういうものはあまり生々しいと食あたりを起こす感があり、実は結構村上はこういう部分に関しては生々しいと思うのだが、それは福田が述べているように「大切な人を自殺に追い込んだ世界」、「ある種の人間の内部にある汚さ、邪さ」を持つ「世界に挑戦するために小説という武器を磨いている」という動機がかなり明確に現れているからだろうと思う。そういう意味では村上はかなり自覚的な「精神の革命運動家」なのだ。

私などは村上が否定しようとしている「汚さ、邪さ」を持つ人物と設定されがちな「旧日本軍人」とか「警備員」とか「警察」とかいう人たちがそういうステロタイプで攻撃されることへの憤りのようなものを逆に持っているので、『スプートニクの恋人』などもそういうシーンはちょっとなあ、と思ったのだが、まあ矛先はステロタイプに過ぎるにしても言いたいことはわからなくはない、とは思う。こういうことが読み込めるというのはやはり福田が日本文学に偏らず相当幅広く読んでいるということの証左でもあるし、私は改めてこの批評家を見直した。

そのほか、江国香織や川上弘美、柳美里など私の読まない種類の作家の魅力もうまく現してくれてあって、読んでみようかなという気にさせる。この人、仕事の手を広げすぎだが、こういうジャンルに限れば現代の日本の文壇では圧倒的な筆力を持っているのではないかという気がする。読みかけ。

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靖国「問題」について【な】さんからコメントを戴く。【な】さんは以前これもまた靖国「問題」について書いたときに「産経文化人」というレッテルを貼っていただいたことがあった。さすがにそれは毛沢東にトロツキストというようなものだろうと(たとえは忘れたがまあ竹中平蔵をケインジアンと呼ぶでもいい。何だって一緒ですが)思ったが、なんというか、私などの普段議論しているところのナナメの異空間というか、私などにすると「ねじれの位置」くらいから話しかけてこられるのでなかなかお返事が難しいなといつも思う。しかしそれもまた勉強であろうから、ちょっと対応させていただきたいと思う。

【な】さんの立ち位置が私などにはよくわからないのだけど、ご自分では「アメリカ型リベラル」とおっしゃっておられる。うーん、だからといって中絶賛成とかアファーマティブアクション賛成とかを言いたいのではないと思うのだが、アメリカ人のリベラルといっても千差万別だからイメージがつかめない。

「左翼」というもののとらえ方もかなり違いがあるようで、私自身も90年代の半ばにはキャンパスに出入りしていたので私なりのとらえ方があるけれども、「左翼」は一部の教授連くらいで、(私は文学部だからほかより率は高いかもしれない)島田雅彦の言うところの「サヨク」くらいの人もまあまあいただろう。「リベラル」というのはずいぶん無定形な言い方で、まあそのくらいのレッテルなら安心、というくらいの感じだけど、実質は「ノンポリ」ということではないだろうか。右とか左とかのレッテルを貼ること自体に無理がある人たちが80年代も大多数だったし、それは今でも変わらないんじゃないかと思う。アメリカの左右分けと違って、日本の場合は個人的な倫理があまり左右の基準に入ってきていないと思う。性行動とか教会に行く習慣の有無とか、アメリカの左右の基準で日本をはかるのは相当無理がある。

「ソ連=バラ色」型の人たちを「化石左翼」と形容しておられたが、なんと言うかな、私の感覚でもリベラルとか90年以前の心情左翼というようなひとたちは「アメリカよりはソ連の方がまし」的な感覚を持っていた人はそれなりにいたと思うし、その辺は時代感覚のずれかもしれない。「ソ連=バラ色」モデルというと形容がきつすぎるということかもしれないけど、まあつまりは伝統の保持の方に望ましい未来像を描くのではなく、「社会主義的な理想主義」のかなたに明るい未来を見出す人たちといってもいい。おそらくその辺の違いに対するこだわりの感覚には大きなずれがあるから、まあ【な】さんの「おいおい」もそのあたりから来ているのかなと思う。まあ「私は【産経文化人】なんかじゃないぞぷん」、くらいのという心外さであろう。

ただ「アメリカン・デモクラシー」という理想軸は80年代の自分には多分存在していなかった(ヨーロッパと西アジアくらいしか見てなかったからなあ)から、まわりにアメリカ志向の人がいても「奇妙なもの」にしか見えなかったし、その点で思考が偏っていたかもしれません。正直言ってアメリカというのは「嫌な国」であったし、研究もあまり進展していなかった。それは多分今も同様で、「アメリカの本質」のようなものが十分に感得できるような研究はまだ十分なものがないのではないかと思う。私もソローやスタインベックなどを読んで「アメリカという問題」について考えようとは思っているのだけれど、まだ十分には理解できていない。ただ世界最大の覇権国家のことを十分に理解しないままコバンザメのようについていこうとするのは危険なことだと思っています。

靖国神社の魅力というか良さを書いた文章について「新興宗教の信者が本尊を祀る総本山に対して語る熱い言葉とどれほどの違いがあるのだろうか」と書かれているが、まあなんというか魅力というものを理解してもらうということは難しいことだなと改めて思った。私としては「あののんびりとした、北海道から沖縄までの方言が飛び交うゆったりとした雰囲気」なんていう描写は「壊滅前のニュー・オーリンズのバーボン・ストリートではジャズやソウルミュージックの真髄に触れた感じがした」、くらいのノリで書いたつもりだったし、私も含めて靖国神社にはものすごく強い先入観がある人が多いだろうから、多分一度行っただけではそのよさはわからないだろうから続けて何回か行けばわかるんじゃないの、くらいに書いたつもりだった。まあ「信仰者の滑稽さ」を感じ取ろうとして読もうとすれば十分に読める文章かなとは思うが、まあそれは「ナナメ上」からの読み方だというべきだと思う。

それよりそうかなるほどなあ、と思ったのは、「新興宗教の信者」というものに対するステロタイプな感覚だった。私には友人にも親戚にも何人もいわゆる新興宗教の信者がいるし、彼らの信仰も自分が入信したいとは思わないが、ある程度の魅力を感じるものもある。自分は特定の信仰を持ってはいないが、先の村上春樹のところでも書いたように、「何か超越的なもの」に対する感覚はかなり強くある。だからそれを経由すればある程度はアメリカのエヴァンジェリストも理解できる気がするし、イスラムやユダヤについても全然わからないというわけでもない。

金日成や金正日に対する個人崇拝というのは私も理解を超えているというか、ちょっと勘弁して欲しいとは思う。またいわゆる「カルト」の信者、つまり洗脳の結果生き方のバランスを失しているような人々は共感というより痛々しさを感じるし、早く現実世界に戻って欲しいと心から願わずにはいられない。

アメリカ型リベラルというのがどういうことなのかよくわからないけれど、たとえばデモクラットの人たちと似た考え方、ということだろうか。私がアメリカに行ったとき、20代から50代くらいのデモクラットの人たちが集まって四方山話をしていたとき、「そういえばあいつ誰だっけな」とかいう話を始めて、何の話かと思ったら「海を二つに分けたヤツ」とか要するに聖書にでてくる人たちの話を始め、「あり得ねー」とか「笑える」というような話をしていたのだった。私の英語力では理解し切れなかったのであとで確認したのだけど、ああこの人たちの信仰に対する感覚というのはこんなものなんだなと思ったことがある。

無神論、というところまで話しが徹底すると、それは欧米的な理解ではナチスとかコミュニズムということになってしまうが、アメリカンリベラルというとそれに限りなく近い(特にエリート層は)という感覚がある。立花隆『宇宙からの帰還』にも宇宙飛行士の中に、「自分は無神論者なのだがインタビューでそういうとまずいからどう言ったらいいか」というアドバイスを求める話が出てきて、「僕の家族はバプテストの教会に行っている」とか、「昔は日曜学校に行ったけど、最近はあまり教会には行ってないなあ」と答えれば良いという話が出てきていた。

宇宙からの帰還

中央公論新社

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まあなんというか、自分は特定の信仰を持たないまでも、人の信仰というものについてはある程度あたたかい理解を持ちたいと思うのだが、その辺も異なっているようだなあとは思った。

「国」というものの動的な創造過程と「ロマン」の緩やかな縛りという話しはもちろんわからなくはない。たとえばインドネシア国家の成立などについては、そういうことは確かにいえるだろうと思う。アメリカ国家についてももちろんだけど。日本国家についても、本州・四国・九州以外の地域を統合していく上で、また国内的な近代化の過程でそういうものが必要になったということはもちろんある。ま、万世一系とか天壌無窮とかのロマン(といっていいかどうかはわからないが)に絶対的な価値を置こうというのが国体論であり、日本的なロマンを遮断してメイフラワー契約的なバタ臭いロマンを基礎にしようとしたのが日本国憲法ということになるのだろうけど、まあどっちに魅力を感じるかといえば少なくとも後者にはあまり魅力はないのではないか。私自身、国体論に絶対的に寄りかかれるかというとそんなことはない、ということは何度も書いているけれど。

しかしなんというか、「ちなみにオレ自身は首相の靖国参拝云々やA級戦犯云々ということより、靖国の存在自体にそもそも激しく否定的でありまして、日本人の魂のふるさとだなんて、ちょっと冗談はよしてよ、としか言いようがない」というのを読むと、自らを「アメリカ型リベラル」と公言する人に「日本人の魂」についてとやかく言われるのはなんだかなあ、と思ってしまうのは私だけでしょうか。

ポストコロニアルというけれども、日本もやはり実質的なアメリカ植民地のポストコロニアル状況にある、というか、今も現実的には植民地なのかなと思ってしまいます。ポストコロニアル作家としてもっとも典型的なサルマン・ラシュディはインドのヒンドゥー文学を否定して(あくまで受け売り)英語文学の世界性を主張しているけれども、なんだかちょっと無作法な感じがしてしまうのと同じような感じがするのですが。

いずれにしても、かけ離れた分野、かけ離れた文化背景の方と議論するのは難しい。同じ対象と言語的には同定されるものを見ても多分全然違うように見えてるんだろうなあと思いますし、まずはその差異を埋めていくのが重労働です。

ただきっと、私の文章を読まれている方の中には相当かけ離れたバックグラウンドをお持ちの方もあるでしょうし、たまにはそういう言う努力も必要かと思い、書いてみました。まあなるべく意図するところをお汲み取りいただきながら読んでいただけるとありがたいのですが。





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コメント (2)
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